研究発表「AIと一神教は関係あるのか」、日本宗教学会 第79回学術大会、パネル「AIと世界観・神観念」、2020年9月19日
【発表要旨】
高度に進化したAIは人間の知能を凌駕し、神の如き存在となるのではないかという危惧は洋の東西にかかわらず存在するが、日本ではAIの推進が「一神教的神話の21世紀バージョン」「人間が神と一体化するという思想」(西垣通『AI原論──神の支配と人間の自由』)といった具合に、一神教的世界観との関係で批判的に論じられることがある。こうした言説をオクシデンタリズム的宗教観として批判するだけでは十分ではない。本稿では、キリスト教における「神の像」(創世記1・26─27)を手がかりに、人間とAIの再帰的関係に光を当て、宗教学的思索のAI研究への貢献可能性を提示する。
「再帰的」の辞書的な意味としては、①自己の行為の結果が自己に戻ってくること。フィードバック。②(数学などで)定義の中に定義されるものが含まれていること(『大辞林』)をあげることができるが、ここでは、②の意味から出発し、「再帰的」を自己への言及として理解する。新しいもの(価値)を表現する際にも、自己にとって既知のものへの言及が必要となる。そして、いったん表現されたものが自己理解に影響を与えるという意味で、①の視点も考慮する。
「神が自分の姿にかたどって人を創造した」ので人間(だけ)に「神の像」が宿っているという考え方は「再帰的」と見なすことが可能である。フォイエルバッハは『キリスト教の本質』において「人間は自らの姿に似せて神を作った」と語り、神とは人間の自己意識であり、また神学とは人間学だと主張した。キリスト教批判、無神論の出発点に「再帰的」気づきがあったと言える。
また現代においては、(超越的な)宗教経験を脳内現象として考察する傾向が強まっている。これもまた「再帰的」考察と言える。未知のものを語ることと、再帰的作法との間には不可分の関係があり、この点に関して、宗教学は一定の知見を蓄積している。
人間はいつでも理性的・自律的存在であるわけではない(誕生・終末期、各種の身体的・精神的障がい)。その理解のもとでは「神の像」は、人間を他の生物から区別する特権的・存在論的な概念ではなく、むしろ、人間が徹底して非自律的・依存的な存在であることの受容と、特定の人間類型(力を持ち自律した理性的人間)を偏重することの拒否を促していると言える。
「神の像」を手がかりとして、AIと一神教(ただし、イスラームは「神の像」を語らない)の間には、それぞれが再帰的関係を組み込んでいるという共通点を見出すことができる。ただし、一神教においては、人が神以外のものを神と見なすことは偶像崇拝として厳しく禁じられており(再帰的欲望の禁止)、また、聖書における「神の像」は「理性」や「知能」と同一視することはできない。つまり、人間が自らを参照することによって神を語ろうとする再帰的欲望に対して、きわめて強い警戒を向けている。
AI研究の場合はどうであろうか。「知能」を中心とした人間観が形成されることに対し、自覚的であるだろうか。AIの知能を強化すればするほど、それとの比較の中に人間は置かれることになる。理性的・合理的・自律的な人間類型が、人間理解の基準とされるとき、そこから、こぼれ落ちているものが何かを宗教研究は示す必要があるだろう。
AIと一神教は再帰的欲望に絶えずさらされているという点で、共通の土台を持つ。しかし、後者はそのことを自覚的に引き受けてきた伝統を有しており、そこで養われてきた批判的人間理解は、AI研究から派生し、また、そこにフィードバックされる人間観に対し、自己批評を可能とさせる外部的視点を提供することができるのではないだろうか。