新教出版社編集部編『原発とキリスト教──私たちはこう考える』新教出版社、2011年
原発問題の神学的課題
(続きは本書をご覧ください)
小原克博
その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
エレミヤ書31章29-30節
1.神によって創造された光と人によって作り出された光
冒頭のエレミヤ書の言葉を知っている日本人は、ほとんどいないだろう。しかし、罪が遺伝するかどうかに関心がなくても、今や圧倒的多数の日本人が、世代を超えて継承される深刻な問題があることを再認識している。二〇一一年三月一一日、東日本を巨大地震と津波が襲い、その結果、福島第一原発が大きなダメージを受け、放射能が拡散することになった。放射能の恐ろしさは、今、生きている世代に対する健康被害をもたらすだけでなく、まだ生まれていない将来世代に対しても影響を及ぼす点にある。原子力発電によって現代世代は、一定の便利さ・快適さを享受してきたが、絶大な負の遺産を将来世代に残すことになった。今、多くの日本人は、「先祖が酸いぶどう(セシウムなどの放射性物質)を食べれば、子孫の歯が浮く」ということの重大さを受けとめつつある。
日本にとって、原子力エネルギーの負の側面を経験したのは、もちろん、今回が初めてではない。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下によって放射能のおぞましさを刻印された日本の戦後史において、核兵器は「絶対悪」として理解されてきた。核保有国が核兵器を「必要悪」と考えてきたのとは違う立場を、わが国は取ってきたのである。ところが、そのような日本にとっても必要悪としての原子力は、官民一体の推進政策の結果、悪としての側面を限りなく薄められ、むしろ「よきもの」としてアピールされ、大多数の国民がそれを信じてきた。そして、3・11の惨事が起こったのである。
こうした歴史的経緯を、次のような問いに置き換えることもできるだろう。天地創造の始まりに「光あれ」(創世記一・三)と言われて輝き出た光と、一九四五年、ヒロシマ、ナガサキの上空で輝いた光と、二〇一一年、フクシマの原子炉の中で暴走した光の間の違いは何か。自然界の恵み、それを生み出す自然界の法則は、人間やその他の被造物の生命を支えてきた。自然の恵みなしには、いかなる生物もこの地球上で生きることはできない。しかし同時に、自然から生み出されたいかなる道具も両義性を持っていることを人類は知っている。夜に光や暖を取るために有用な火は、人やモノを焼き尽くす業火ともなる。火の発見・利用から、原子力エネルギーの発見・利用に至るまで、人間によって自然界から取り出された道具やエネルギーは、人間社会を生かすこともできれば、破壊することもできるという両義性を備えている。
この破壊的側面を軽視し、原発は安全だという官民一体の主張はフクシマでの事件によって完全に覆された。安全神話は崩壊した。人間が、原子核分裂に見ようとした光は、人や動物の命を奪う力となった。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマにおいて人が見た光は、天地創造の始まりに現れ出た光に由来しているのか。あるいは、人類は単に、その使用方法を誤っただけであって、正しく用いれば問題はなかったのであろうか。フクシマでの事件は、日本を超え、世界中にエネルギー政策の見直しを促すことになったが、神学的には、これは創造論の現代的意義を問う課題である。