書評「アクセル・カーン著『モラルのある人は、そんなことはしない──科学の進歩と倫理のはざま』」、『週刊読書人』2011年9月2日号
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本書は、その副題が示しているように、科学の進歩がもたらす倫理的課題について語っている。著者のアクセル・カーンはヨーロッパを代表する遺伝学者であり、それゆえ、本書で扱われている科学は、生命科学が中心となっているが、その射程範囲はかなり広い。安楽死、出生前診断、人工妊娠中絶、生殖医療、遺伝子検査、脳科学、臓器移植など、これまで倫理的な議論を引き起こしてきたテーマは、ほとんどすべて触れられると言ってよい。その他、一見生命科学とは関係のなさそうな売春、ポルノ、イスラームのブルカなどもテーマとしてあげられ、自由とは何か、尊厳とは何か、を探求する素材とされている。
科学と倫理の関係を論じている類書は少なからず存在するが、本書ならではの醍醐味をいくつか指摘することができる。一つは、一章を割いて詳細に記されている、カーンおよび彼の家族史を通じて垣間見るヨーロッパ近現代史の一断面が、彼や彼を取り巻く社会の倫理的判断に及ぼした影響を実感できる点にある。倫理は、個人の次元においても、社会の次元においても、時代状況とのせめぎ合い(あるいは迎合)の中から生み出されてくることを如実に伝えている。
著者は自らを人間中心主義者、不可知論者(神など超越的な存在を人間は知り得ないという立場)と見なしているが、同時に、母親から引き継いだカトリック精神の影響を受けていることを率直に認めている。著者は宗教から離れているが、隣人愛に基づく道徳心の探求を忘れることはなかった。彼自身の思想的・政治的遍歴は、ヨーロッパ社会の変化をも映し出している。ちなみに、本書のタイトルは、著者の父親が子ども時代の著者を叱責した際に発した言葉に由来している。「そんなことはしない」とは差別的な発言を指していたが、価値相対主義に陥らずにモラルの普遍的次元を追求する姿勢は、本書全体において貫かれている。
本書の醍醐味のもう一つは、普段、我々が十分な関心を向けていないフランス社会における価値のせめぎ合いを、著者の批判的視線を通じて見ることができる点にある。一般に生命科学や生命倫理の問題は、アメリカ的な背景において紹介され、理解されることが多い。しかし、本書を通じて、一つひとつ倫理的課題の是非にとどまらず、問題設定そのものにおいて、フランスがアメリカとは異なる議論をしてきたことを知ることができる。さらに、自らの見解が国内外の大勢の意見と時に異なっていることを認めながら、著者が自説を一貫した原則の下に骨太に展開している点は、読者に対して刺激的な問題提起となっている。訳者は「あとがき」で適切にもマイケル・サンデルと対比させているが、サンデルに飽き足らない読者には、本書は倫理的議論の別種のおもしろさを教えてくれるだろう。
遺伝学者である著者は、伝統倫理学の諸説を振り回すようなことはしない。著者にとって重要なのは、他者を尊重するという原則である。ユダヤ系フランス人である著者は、ユダヤ人にもたらされた災禍に言及しながら、優生学をはじめとする近代科学の一部が、人種差別の増長や、ナチスによって精神薄弱者と見なされた人々の殺害につながっていったことを指摘する。科学はイデオロギーによって悪用される可能性があることを、著者は多くの事例を引きながら警告し、科学には倫理が必要であると語る。議論や安全性を省略してでも科学的成果をあげることが優先される国に住んでいる人々は、本書から多くのことを学ぶことができるはずである。(小原克博氏=同志社大学教授・キリスト教思想専攻)