従来の「宗教の神学」は、紛れもなくリベラルの道具としての役割を果たしてきた。上述の引用を用いれば、それは「勝利者」の道具であったと言える。だからこそ本稿では、「勝利者」の目から十分に見えなかったものは何であったのか、を繰り返し問うてきたのである。近代的価値を体現するリベラルな社会では、宗教の違いに関わらず、公共領域で合理的な討議をする権利が保障されている。このような寛容な社会の実現にこそ、それぞれの「宗教」が資するべきと「宗教の神学」は考えてきた。しかし、そこで前提にされている「宗教」は、近代性と共存できるタイプの宗教に意図的に限定されてきたのではないか、ということを本稿では考察してきた。タラル・アサド(Talal Asad)の言葉を借りれば、近代社会においては「リベラルな言説が仮定するものを受け入れる宗教のみが、推奨の対象となる」(アサド 2006、241)。そしてそれゆえに「公共領域は、単に合理的討議の場であるだけでなく、排除の空間でもある」(アサド 2006、242)。先に引用したタミールの主張に従えば、この「排除の空間」によって排除されたものがナショナリズムであり、宗教原理主義であった7。それらが、本稿で、世俗的ナショナリズムと宗教的ナショナリズムと呼んできたものにそれぞれ対応していることは言うまでもないであろう。
そして、アサドが、搾取的ナショナリズムとして「西洋」を経験せざるを得なかったイスラームを視野に入れ、タミールが近代国家イスラエルにおけるユダヤ教のあり方を視野に入れていることを総合するなら、そこで示唆される、我々が求めるべき「宗教の神学」の新たな地平は、一神教研究の地平からの批判的なまなざしのもとに、それと接合される必要があるということになる。ここでは、そのような神学的機能を負った一神教研究を「一神教の神学(theology of monotheistic religions)」と呼んでおきたい。「一神教の神学」は、多元主義的でリベラルな「(諸)宗教の神学」に包摂される一部を占めるのではなく、むしろ、その全体構想(宗教概念を含む)を批判的に対象化していく〈外部からの視線〉として位置づけられるべきなのである。
「一神教の神学」の必要性に加え、以上において述べてきた課題に向き合っていくための神学的見通しを、最後に簡単にまとめておきたい。ナショナリズムに対し批判的・建設的距離をとりながら、同時にキリスト教を祖型としない様々な宗教性(霊性)を射程にいれるためには、まず、ナショナリズムや宗教概念に負わされてきた超文脈的(trans-contextual)な特性を相対化する作業が必要である。そのためには、「宗教の神学」(theology of religions)を中立的政治空間(≒「排除の空間」)の中で問うのではなく、「文脈化の神学」(contextual theology)と一体的に扱っていく視点が求められる(contextual theology of religionsの必要性)。しかし、それだけでは十分ではない。コンテキストを単純化せず、むしろコンテキストの重層性やダイナミズムを認識するためには、以下のようなフレームワークの設定が役に立つと思われる。
1)intra-contextual theology of religions
「パトリア」および、それに起因する郷土愛や民俗信仰、さらには愛国心を神学的課題として対象化していく。その作業を通じて、ナショナリズムが穏健なものから過激なものまで、どのような価値や伝統の源泉を持っているのかを考察する。また、ナショナリズムが過激なものへと変移しないための条件設定を、宗教との関係において模索する。
2)inter-contextual theology of religions
特定の国家をコンテキストとする地域研究だけでは、ナショナリズムや宗教復興運動のグローバル化を説明することができない。また、文脈化神学が自国のキリスト教のあり方を排外主義的な形で展開する危険性を抑止できる神学的視点は必須である。国境によって区分することのできない、コンテキスト間の歴史的なつながりや流動性に対する共通認識を深めることを通じて、自国史の特殊性(たとえば「日本の神学」の可能性)をより広い視野で位置づけ、国際社会に貢献する独自の道を模索することが可能となる。
本稿は、なさなければならない神学的課題の一部を描いたに過ぎないが、21世紀という時代が近代から引き継ぎ、抱え込んでいる「他者と真に向き合うことの困難さ」がいかに大きく、深遠なものかを垣間見てきたのである。
(付記)
本稿は、日本基督教学会 第56回学術大会(2008年9月16〜17日、関東学院大学で開催)における研究発表「信仰の土着化とナショナリズムの相関関係──「宗教の神学」の課題として」に加筆修正したものである。また本稿は、科学研究費補助金(基盤研究(C))「非欧米型宗教間対話と政治状況の相関関係----東アジア・中東を中心にして」(課題番号:18520056)の研究成果の一部である。
注
1 世俗化論の見直しの一例として、ピーター・バーガーをあげることができる。彼は、自らの立場も含め、従来の「世俗化論」に誤りがあったことを認め、反世俗化(counter-secularization)運動が各地で興隆している現実を指摘する(Berger 1999, 2-3)。
2 アサドは、イスラーム主義にナショナリズム的特性があるとする通説を踏まえた上で、そこで問うべきなのは、イスラーム主義者が宗教的思想と政治的思想を融合させているかどうかではなく、むしろ、なぜイスラーム主義が政治的言説として公に出現せざるを得ないのか、であると主張する(アサド 2006、260)。この指摘は「宗教的」と「世俗的」の分離を暗黙の前提としてしまう西洋型のナショナリズム理解へのアンチテーゼとして有効である。
3 「日本的なもの」に接近することへの警戒として、しばしば、やり玉に挙げられてきたのがシンクレティズムとシャーマニズムであった。たとえば土居真俊は、日本における福音の土着を語る中で、踊り念仏や新興宗教はすべてシャーマニスティックであると批判し、「キリスト教が大衆のパトスと結びつく場合には、(中略)聖書的カリスマから出たパトスであるか、日本古来のシャーマニズムから出たパトスであるかを厳密に弁別しなければならないであろう」(土居 1962、48)と主張している。こうした主張は、戦後の土着化論の中では一般的なものであったと言える。
4 キースらは、中国、韓国、タイ、マレーシア、インドネシア、カンボジアなどの事例を通じて、世俗主義に抵抗して起こった、アジアの宗教運動を多様に描き出している(Keyes et al. 1994)。
5 日本宗教の「再土着化」の前提となったのは、国民道徳(公的領域)が宗教(私的領域)に優位する形で公私の境界設定がなされた「日本型政教分離」である。そこではそれぞれの宗教の存在価値は、国民道徳との距離、言い換えれば、国民道徳への〈根の張り具合〉によって評価された(小原 2008b、222-225)。
6 土地に根ざした民俗的なものや芸術の価値に注目し、民芸運動を起こした人物に(1889-1961)がいる。彼はナショナリストとしての一面を持っていたが、同時に、過剰な文明化に反対する反近代主義者でもあった(スティール 2005、133-135)。柳の民芸運動は、排外主義的なナショナリズムに対する解毒剤の役割をも果たしており、近代日本のキリスト教が見過ごしてきたものを知る上で貴重であると言える。
7 ここでは引用文との関係上、「原理主義」という言葉を用いているが、この言葉はまさに何が受容され、何が排除されるべきなのかを切り分ける言葉として用いられてきた経緯を持つため、その使用に関しては慎重さが求められる(小原・中田・手島 2006、3-4)。
引用文献一覧
Berger,
Peter L. ed. 1999 The Desecularization of the World: Resurgent Religion
and World Politics. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing
Company.
Bevans, B. Stephen 2002 Models of Contextual Theology. revised and expanded edtion. New York: Orbis Books.
Keyes,
F. Charles et al. 1994 Asian Visions of Authority: Religion and the
Modern States of East and Southeast Asia. Honolulu: University of
Hawaii Press.
Tillich, Paul 1951 The Protestant Era. trans. James Luther Adams. Chicago: University of Chicago Press.
アサド、タラル 2006 『世俗の形成──キリスト教、イスラム、近代』(中村圭志訳)みすず書房。
アンダーソン、ベネディクト 1997 『増補 想像の共同体──ナショナリズムの起源と流行』(白石さや、白石隆訳)NTT出版。
ゲルナー、アーネスト 2000 『民俗とナショナリズム』(加藤節監訳)岩波書店。
小原克博 2007 「宗教多元主義モデルに対する批判的考察──「排他主義」と「包括主義」の再考」、『基督教研究』第69巻第2号、23-44頁。
──── 2008a 「近代日本における「宗教間対話」──宗教概念の形成と政教分離を中心に」、『基督教研究』第70巻第1号、41-54頁。
──── 2008b 「近代日本における政教分離の解釈と受容」、洗健・田中滋編『国家と宗教──宗教から見る近現代日本』上巻、法蔵館、199-241頁。
小原克博・中田考・手島勲矢 2006 『原理主義から世界の動きが見える----キリスト教・イスラーム・ユダヤ教の真実と虚像』PHP研究所。
スティール、M・ウィリアム 2005 「東は西、西は東──反近代主義と民芸の発見」、熊倉功夫、吉田憲司編『柳宗悦と民藝運動』思文閣出版、115-139頁。
タミール、ヤエル 2006 『リベラルなナショナリズムとは』(押村高ほか訳)夏目書房。
土居真俊 1962 「日本における福音の土着──その神学的考察」、日本基督教団信仰職制委員会編『福音の土着』日本基督教団出版部、39-48頁。
ニーバー、H・リチャード 1969 『キリストと文化』(赤城泰訳)日本基督教団出版局。
──── 1984 『近代文化の崩壊と唯一神信仰』(東方敬信訳)ヨルダン社。
ユルゲンスマイヤー、マーク 1995 『ナショナリズムの世俗性と宗教性』(阿部美哉訳)玉川大学出版部。