研究活動

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「近代日本における「宗教間対話」――宗教概念の形成と政教分離を中心に」、『基督教研究』第70巻第1号

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キーワード
宗教間対話、近代日本、宗教概念、政教分離、道徳と宗教

KEY WORDS
Interreligious Dialogue, Modern Japan, the Idea of Religion, Separation of State and Religion, Moral and Religion

要旨
日本近代史においても、万国宗教大会(1893年)や宗教家懇談会(1896年)のように、現代の宗教間対話に近いものがあった。しかし、宗教同士の宥和が進むことは、必ずしも日本社会全体が寛容な社会となることを意味しなかった。本稿では、宗教の共存そのものが国家秩序に組み込まれ、政教分離の形式のもとに、排他的なナショナリズムの一部として機能した側面に光を当て、近代日本に通底する、広い意味での「宗教間対話」の構造を明らかにする。その際、日本のキリスト教は、ほぼ無自覚に「宗教」と一体化してしまった結果、国家の巧妙な政教関係の中に取り込まれ、「宗教」の外部に置かれた隠れた宗教イデオロギーに対する批判能力を十分に持ち得なかった。その中でキリスト教は、仏教など他の宗教と補完的・対話的な関係に置かれていった。こうした近代日本の構造的問題が、宗教と世俗ナショナリズムをめぐる普遍的な課題にもつながっていくことを最後に考察する。

SUMMARY
In the modern age of Japan there were already interreligious dialogues such as the World's Parliament of Religions (1893) and the Council of the Religious Leaders (1896), which seem to be comparable with the contemporary ones. However, cooperation between religions did not always result in the tolerant Japanese society as a whole. This paper will shed light on how the coexistence of religions have been embedded into the national order and played a role of exclusive nationalism in the separation of state and religion, and will clarify the consistent structure of "interreligious dialogue" in modern Japan in a wider sense. At that time, Japanese Christianity identified itself as the "Religion" without any doubt. As a result, Christianity was utilized in the subtle national policy of state and religion and could not have a critical insight into the latent religious ideology which existed outside "religion." And Christianity was set into a complimentary and cooperative relationship with Japanese religions including Buddhism. Lastly, this paper will consider how these kinds of structural problems in modern Japan can be connected with the universal disputes over religion and secular nationalism.

1.はじめに
 キリスト教神学において宗教間対話に本格的な関心が向けられてきたのは、ようやく20世紀の後半になってからである。ジョン・ヒック(John Hick)に代表される宗教多元主義者たちが、他宗教理解や宗教間対話をめぐる議論の火付け役になったが、そこでしばしば用いられる類型論に従えば、多元主義的な宗教理解が向かうべき目的とされ、「包括主義」や「排他主義」はあるべき関係や対話を阻害する偏狭な態度と見なされてきた 。
 対話においては、互いが友好的な関係にあるのが望ましい。しかし、たとえ敵対的な関係にあったとしても、あるいは包括主義的・排他主義的な他宗教理解を持っていたとしても、いや、そうであるからこそ、互いに真剣に向き合う関係も存在するであろう。そして、友好的であれ、批判的であれ、相互関係が構築される限りにおいて、それもまた広い意味で「宗教間対話」と呼ぶことができる。そのように考えることによって、自発的かつ友好的な関係のみを「対話」と見なす視点からは、十分にとらえることのできなかった宗教の相互関係と政教関係を明らかにしていきたい。そしてその事例を、本稿では近代日本に求め、「宗教」概念の形成と政教分離を手がかりに、「宗教間対話」の特質と課題を考察していく。
 近代において、現在の「宗教間対話」に近いものがなかったわけではない。1893年にはシカゴで万国宗教大会が開かれ、キリスト教の策略ではないかとの憶測が飛びながらも、日本から神道、仏教、キリスト教の各界から代表者が出席した。帰国後の報告を見ると、どの宗教の出席者も、おおむね好意的な印象を持っていたことがわかる(鈴木 1979、222-228)。そして、万国宗教大会をきっかけとして、その国内版とも言える宗教家懇談会が1896年に開催されている。この懇談会はナショナリズム的傾向を帯びていたとはいえ、いや、そうであったからこそ、参加した宗教同士の、とりわけ、仏教とキリスト教の間の宥和を進めることになった。
 本稿では、宗教家懇談会の意義を認めつつも、これを近代における典型的な「宗教間対話」と見なすことはしない。むしろ、この懇談会を通じて形成された、仏教とキリスト教の協調的態度が、後の「三教会同」(1912年) に至る伏線となる構造、すなわち、近代日本を規定した政教関係に焦点を当て、その中で通時的に行われていた、広い意味での「宗教間対話」を考察の対象としたい。また最後に、近代日本における「宗教間対話」が現代の「宗教間対話」に投げかける課題についても言及する。

2.「宗教」概念の前提としてのキリスト教とその陥穽
 元来「宗派の教え」を意味する仏教用語の「宗教」が、西洋語のreligionの訳語として定着するのは明治になってからである。religionは、キリスト教を前提とした概念であった。言い換えれば、「宗教」一般を語る際のスタンダード・モデルとしてキリスト教が存在していた。この考えが、宣教師たちの間で広く共有されていたのは当然であるが、明治期の日本人キリスト者にとっても、高度な文明と結びついた高等宗教のみが宗教の名に値するという考え方が強かった。さらに言えば、こうした宗教理解はキリスト者だけでなく、当時の知識人たちにも広範囲に影響を及ぼしており、好む好まずにかかわらず、キリスト教を宗教理解の基準にした結果、儒教や民俗信仰が「宗教」の外に置かれることもまれではなかった 。
 いずれにせよ、近代日本における宗教のイメージは、主として仏教とキリスト教の間の論争を通じて形作られていった。また、神道は「宗教」ではないとされ(神社非宗教論)、国家神道が宗教を超えた秩序として位置づけられていった経緯を振り返るなら、宗教という言葉は、日本社会にとって新奇な近代的概念であっただけでなく、それとの格闘や克服を通じて、西洋に対峙できるナショナル・アイデンティティを模索した、政治的・文化的な具体性を帯びた言葉であったと言えるだろう。また、「宗教」概念が社会的・学問的に認知されるだけでなく、法制度的にも一定の位置づけを得るためには、政教分離とは何か、という議論を経なければならず、その意味では、近代日本における「宗教」理解の変遷をたどるには、政教分離の考察を欠くことができない。
 ここで指摘したい問題の一つは、日本のキリスト教はほとんど無自覚に「宗教」と一体化してしまい、それが西洋近代の歴史的認識様式の一つに過ぎないことを疑うことができなかった点である。西洋が非西洋世界を一方的に規定する暴力的とも言える関係をエドワード・サイード(Edward W. Said)は「オリエンタリズム」として厳しく批判したが、非西洋世界の土着エリートたちは、しばしば、その西洋からの眼差しを内在化させ、自らを西洋的主体と同一化しようとする(磯前 2003、10)。近代日本は、様々な形で〈近代的なもの〉〈西洋的なもの〉への抵抗を試み、キリスト教の場合も「新神学」に代表されるように、宣教師が伝えた西洋的なキリスト教以外のあり方を模索した。しかし、キリスト教を「宗教」、とりわけ「文明」と結びついた「高等宗教」「世界宗教」と見る視角を、ほとんどの日本人キリスト者は宣教師と共に共有していた。
 確かに西洋でも、一神教以外の宗教が無数の「偶像崇拝者」として一括りにされていた19世紀前半頃までは、キリスト教こそが唯一の「世界宗教」であると考えられていた。ところが、比較言語学や宗教史的な研究が進展する中で、仏教をアーリア系の宗教として認め、さらに第二の「世界宗教」として受けとめていくことになる。それと同時に、キリスト教をヘレニズム化あるいはアーリア化(脱セム化)し、ユダヤ教やイスラームをいっそうセム化しようとする傾向が強まっていった。ギリシア的・アーリア的なイメージの中に宗教の理想を求め、そこからこぼれ落ちるもの(ユダヤ教・イスラーム)にセム的イメージを与えたのである(Masuzawa 2005, 187-191)。
 このように19世紀後半の西洋において生じていた「宗教」概念の揺らぎや、「宗教」としてのキリスト教の相対化や、「世界宗教」の複数化は、日本のキリスト教界では正面から受けとめられることなく 、もっぱら、キリスト教は「宗教」「高等宗教」「世界宗教」あるいは「文明」と一体的なものとして見られていた。では、近代日本のキリスト教によって自明視されていた、このような宗教理解・文明観に対し、仏教はどのような態度を取ったのであろうか。次に、考察のための事例として島地黙雷を取り上げる。

3.仏教のキリスト教批判――島地黙雷を事例として
 明治初期にヨーロッパを見聞し、そこで得た知見を生かして、当時の宗教政策に大きな影響を及ぼした人物に浄土真宗本願寺派僧侶・島地(しまじ)黙雷(もくらい)(1838-1911)がいる。明治政府は近代国家の建設を急ぐ中で、最初、神仏を分離し、神道中心の祭政一致国家を目指したが、それが機能しないとわかるや否や、次には仏教を巻き込んだ新たな神仏協力体制を整えようとした。その先鞭をなしたのが、国民強化のための次のような原則を定めた「三条教則」(1872年)であった。

一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事。一、天理人道ヲ明ニスベキ事。一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守スベキ事。

 島地は神道優位のこの政策を非難し、外遊先のヨーロッパから「三条教則批判建白書」(1872年)を提出する。この建白書の中心は政教分離の必要性を訴えることにあるが、それと同時に、「妖教」たるキリスト教を日本社会から排除するための理由の一つが、以下のように記されている。

欧州開化ノ原ハ教ニ依ラスシテ学ニヨリ、耶蘇ニ原カスシテ希臘・羅馬ニ基クハ、三歳児童モ知ル所ナリ。之ヲ教法ノ功ニ付セントスルハ、「ミショナル」家ノ私意ニ出ツ(島地 1973、25)。

 島地によれば、西洋の文明化はキリスト教によるのではなく、ギリシャ、ローマの文明に基づいている。それにもかかわらず、宣教師たちは文明とキリスト教を恣意的に結びつけようとしている、というのである。この種の批判は、島地に限らず、多くの仏教者、そして世俗的知識人によってなされた。日本の近代化、文明化にとってキリスト教は不可欠であることを説いた宣教師たちの語りは、宗教界だけでなく政府にとっても、ある種の脅威であった。その脅威を克服するための典型的なディスコースの一つが、キリスト教と文明の分離であり(山口 1999、41-42)、キリスト教のような「宗教」なしに国家の近代化・文明化は可能であることを示す必要があったのである。
 では、近代国家建設のための秩序原理を、明治政府は西洋的な「宗教」にではなく、何に求めたのであろうか。結論的に言えば、それは大日本帝国憲法(1889年発布)第28条「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」に暗示されていた。そして時代を経るごとに明確になっていったのは、「信教ノ自由」の前提条件になっている「安寧秩序」「臣民タルノ義務」は、「宗教」(=私的領域)を超越的に規定する国民道徳(=公的領域)だということである。その意味では、28条に記された「信教ノ自由」は翌年発布された教育勅語と合わせて理解されなければならない。そして、その両者の緊密な関係を図らずも露見させたのが、内村鑑三による不敬事件(1891年)とその後の論争であった。

4.道徳と宗教の関係――井上哲次郎を事例として
(1)道徳の宗教に対する優位
不敬事件を契機として始まった論争は「教育と宗教の衝突」論争として知られているが、内村批判の急先鋒として、また、教育勅語を中心とした国家主義的道徳主義のイデオローグとして論陣を張ったのが、東京帝国大学の哲学教授・井上哲次郎(1855-1944)であった。不敬事件に端を発する、井上のキリスト教批判の要点は次のようなものであった。

上来論述せるが如く、耶蘇教の東洋の教に異なる要素は四種なり、第一、国家を主とせず、第二、忠孝を重んせず、第三、重きを出世間に置いて世間を軽んず、第四、其博愛は墨子の兼愛の如く、無差別の愛なり、(井上 1893、125)

 一言で言えば、普遍的な愛を説くキリスト教は国家への忠誠を尽くすことができない、という批判である。また「教育と宗教の衝突」という文脈に即して考えれば、井上にとって「教育」とは引用文における「東洋の教」に他ならず、それは教育勅語に凝縮された国民道徳に内実を持つ。それゆえ、教育と宗教の衝突は、より厳密には、国民道徳とキリスト教の衝突として読み替えることができる。
 キリスト教の側からは、自らが国民道徳に反しない「宗教」であること、いやそれどころか、それに対しもっとも貢献し得る「宗教」であるという弁証をすることが議論の中心になり、公的領域が「信教の自由」という私的領域に侵犯してくる危険性に対しては、ほとんど無防備な状態であった。もちろん、次の小崎弘道の言葉に見られるように、キリスト教と国家の関係を慎重に論ずる意見は、断片的には見られた。

基督教は従順の教なり、然れども其従順たる或宗教にて唱ふる如く、王法是(これ)正法と、国君の命を以て悉く神命となし、其是非曲直を問はず、之に黙従する者に非ず、国君の命たりとも時に由りては従ふ可からざる事あり、政府の法令たりとも事に由りては反対せざる可からざる事あり(小崎 1889、16-17)。

 小崎は、政教分離における二つの領域の区分が曖昧にされ、宗教が国家に取り込まれてしまう危険性に対し警告を発しているが、ナショナリズムが強まる1890年代以降、国家に対するこのような批判的距離の取り方は、一般的にはほとんどできなくなる。
 結果的に、国家秩序・国民道徳との近さによって「宗教」の価値が計られる、という図式の中にキリスト教も埋没していった。その基本的構図は、仏教に関しても同様であり、宗教を超越する秩序に包括される形で、異なる宗教同士が協調する(せざるを得ない)「宗教間対話」の素地が、この頃から醸成されていく。
 次に、この問題を政教分離の視点から、特に、道徳と宗教の関係に焦点を絞って整理してみよう。一般的に、政教分離は公的領域と私的領域の区分を前提としている。そして近代日本の場合、その二つの領域を区別しながらも、両領域に相互に補完的機能を果たさせたのが天皇制イデオロギーであった。端的に言えば、「道徳」(神社神道、教育勅語)という公的領域が直接的に、そして「宗教」という私的領域が間接的に天皇制イデオロギーに仕えることを求められた。天皇制イデオロギーは、記紀神話を起源とする前近代的な古層から〈新たな伝統〉として発掘された側面を持つ。そして同時に、それは政教分離を含む西洋近代的な価値に対するアンチテーゼの役割をも担っていた。そのことを磯前順一は次のように語っている。

天皇制が前近代的な教の性質を有することを積極的に利用して、それを西洋から取り残された未開として位置づけるのではなく、西洋近代的な範疇を超え出た存在として解釈する。そのようなかたちで、日本政府はいやおうなしに巻き込まれた西洋化の過程に対して、非西洋側の社会が示しうる対抗戦略のひとつのあり方を示したのだといえよう(磯前 2003、104)。

 西洋近代や、それによって規定された「宗教」(≒キリスト教)に対する抵抗原理として天皇制(万世一系の天皇神話)が見出され、また、それを支える政教関係が模索された。そして、その政教関係を機能させるために、宗教を道徳に従属させつつ、西洋近代に対する批判を含んだ思想が求められたのだが、その典型的な対応事例を、井上哲次郎の『倫理と宗教との関係』(1902年)の中に見ることができる。道徳に宗教を凌駕する位置を与えようとする井上の主張は、次の一文においても明確に現れている。

人類の生命には、仏教若くは基督教よりも尚ほ重大なるものありて存するなり、其重大なるものといふは、進歩に外ならず、進歩の為には唯〃道徳を要するのみ、道徳は仏教若くは基督教に代はりて宗教の地位を占むべきものなり、是れを理想教となす、(井上 1902、84)

 倫理・道徳と宗教をめぐる議論は「教育と宗教の衝突」論争以降、日本の宗教界でも頻繁になされるようになった。もちろんその議論は、井上のように倫理至上主義ばかりではなく、むしろそれに対する弁証として宗教の意義を語る者も少なくはなかった 。しかし、国政レベルに至るまで影響力を及ぼしたのは、倫理や道徳により優先的な位置を与えようとする主張であったと言える。

(2)道徳と宗教の相互補完システム
 道徳が宗教に優位し、宗教の存在価値を規定するという関係の中で成り立つ道徳と宗教の関係は、対等ではないが相互互恵的である。井上は伝統宗教に対し批判的な立場を取るが、国民道徳としての「教育勅語」を遵守する限りにおいては、井上のような人物にとっても、宗教は一定の国家的意義を有していると言える。ところが、欧米における道徳と宗教の関係は、日本とはかなり異なる展開をしていた。道徳や倫理を指向する啓蒙主義的精神は、多くの場合、反宗教(反キリスト教)の立場を取り、宗教を自らの補完的対象としては見なかったのである。ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)に代表される無神論的思想潮流も、その一部をなしていた。
 宗教の倫理化・道徳化を語ることによって、井上はどの「宗教」にも特別な優位性を与えなかった(ただし、キリスト教に対しては一貫して否定的であった)。それは一方で、政教分離の前提を形式的に満たすが、他方、宗教の倫理化が、神道の非宗教化・国民道徳化に直結し、両者が表裏一体の関係をなしていた点を見逃すことはできない。道徳と宗教の関係性を、西洋啓蒙主義思想から形式としては「受容」しながらも、それを日本的文脈の中で再解釈し、結果的に西洋的な論理(政教分離)に対する「拒絶」の構造を作ったのである。このような点に「日本型政教分離」の特質を認めることができる。
 道徳と宗教の補完関係を日本型政教分離の構造的特徴と考えた場合、その具体的内容物の一つとなったのが「神仏補完」である。末木文美士によれば、神道(国家神道)を「非宗教」と見ることによって、かえって「宗教」としての仏教がそれと共存することが可能になり、前近代の「神仏習合」に代わる「神仏補完」のシステムが機能することになった(末木 2004、38-39)。1912年の「三教会同」の頃に至ると、いわば「神仏基補完」とも言うべきシステムができあがり、キリスト教を含むすべての主要宗教が国家神道体制に組み込まれた。これにより、道徳(=「公」)と宗教(=「私」)が政教分離により区分されながらも、国体イデオロギーを翼賛するため相互補完的に機能するシステムがほぼ完成することになる。しかし皮肉にも、「日本型政教分離」とも言えるシステムの完成は、それが前提とする秩序に反するものを徹底的に排除すること、すなわち、新たな宗教弾圧・思想弾圧の始まりでもあった。ファシズム期において「信教の自由」が瓦解していく萌芽は、日本型政教分離の中にすでに内蔵されていたと見るべきであろう。
 しかし、そのような状況下にあっても、広い意味での「宗教間対話」は機能していた。問題をわかりやすくするために、この状況を現代の宗教間対話や宗教の神学の類型によって説明してみよう。仏教とキリスト教は長らく敵対的な関係にあり、一方の他方に対する見方は「排他主義」に分類することができる。どちらも、相手の宗教に救済・解脱の可能性を認めようとはしないからである。他方、国体イデオロギー(=公的領域)から見れば、仏教にしてもキリスト教にしても、国家秩序の維持に役立つ限りにおいて、共に有用性を認めることができる。つまり、天皇を中心とした「包括主義」(=公的領域)は、私的領域にある宗教に国家的意味・位置づけを付与する越境的な力を持っていた。この皇国的「包括主義」の内部にいる限り、それぞれの宗教がそれ自体としては「排他主義」的関係にあったとしても、皇国的「包括主義」というメタレベルから見れば、すべての宗教は「多元主義」的な相対的位置関係に置かれる。これは、見方を変えれば、「多元主義」もまた、国体イデオロギーに仕えることができることを意味している 。しかし同時に、国体イデオロギーに従わないものは、見解の相違、多様性として認められるのではなく、国体的「多元主義」の外部へと放逐されるのである。

5.総括
 「宗教」とは何か。この問いは、宗教研究のみに帰属するマイナーな問いではなかった。対峙し、克服すべき価値が何であるのか、保護し、強化すべき価値が何であるのか、をめぐって呻吟してきた近代日本にとって、宗教と非宗教の境界設定と、その境界の政策的な操作は、国民教化と国民精神の動員のために欠かせない作業であった。その際、近代日本は、異質な他者としてのキリスト教を映し鏡とし、あるべき自画像を描こうとした。その意味では、仏教をはじめ日本の伝統宗教や文化が、もっとも真剣に西洋文明やキリスト教と向き合い「対話」したのが、この時代であったとも言える。
 しかし、近代日本の政教関係は、豊かな「対話」の場を提供したなどと楽観的に語ることが到底できないほど、宗教弾圧や思想弾圧、そして戦争協力に至る、負の歴史を負っている。教育勅語に代表される国民道徳は「宗教」をも超越・包括する最上位の秩序原理として機能した。その際、教育勅語が国家イデオロギーの「聖典」の役割を果たしたこと、非宗教を装った道徳原理の中に「国教」と呼んでもよいほどの過剰な宗教性が潜んでいたことは、当時、ほとんど気づかれることはなかった(島薗 1998、71)。
 そこには丁寧に読み解いていかなければならない政教関係の複雑な変遷が原因としてあるにしても、それに対し神学的な批判が十分に機能しなかった理由の一つを、本稿ではキリスト教の「宗教」理解に求めた。ほぼ無批判に「宗教」とそれに付随する西洋的諸概念を、自らの内に内在化させてしまった結果、キリスト教は、国家が「宗教」を巧妙な政教関係の中で統制する「解釈のマトリクス(母型)」の中に取り込まれ、そこから外部へと逃れる道を失うことになった。キリスト教が「宗教」との批判的距離を失うことによって、日本型政教分離の「解釈のマトリクス」(=道徳と宗教の相互補完システム)に引き込まれるのに抵抗し、押しとどまるためのアンカーの一つを失ったのである。結果的に、キリスト教は望む、望まないにかかわらず、仏教など他の宗教と補完的・対話的な関係に置かれ、先に皇国的「包括主義」と呼んだものの一翼を占めることになった。これが近代日本における「宗教間対話」の内実である。
 興味深いことに、ほぼ同じことがキリスト教内部においても起こった。1880年代の教会合同運動は、主として、長老派(一致教会)と会衆派(組合教会)の教派間合同として進められ、今日の言葉で言えば「エキュメニカル運動」の先鞭をなすものであった。しかし、結果的に、この教会合同運動は頓挫した。ところが、1939年に公布された宗教団体法をきっかけとして、望む、望まないにかかわらず、30余派のプロテスタント諸教会が合同し、1941年に日本基督教団が成立した。形式面だけから見れば、これは「教派間対話」の具現化である。かつて自力では果たせなかった教派合同を、国家の助力により実現したのであるが、言うまでもなく、この合同は、その時代にあって皇国的「包括主義」の一部として機能した。したがって、その内部にあって、教派同士が相互に寛容な多元的共存関係を実現していたとしても、外部(たとえば、アジアの諸教会)に対しては、同じ寛容を示すことはなかった。このように、各宗教団体、教派・宗派、宗教の次元を貫く形で、近代日本の広い意味での「宗教間対話」の構造が形成されていったのである。
 最後に近代の「宗教間対話」がもたらした負の遺産を現代の教訓とするため、少し長くなるが、ラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)の言葉(原著1932年)を引用し、問題点を明確にしてみたい。

愛国心はそのなかに倫理的パラドクスをもっており、最も鋭い凝った批判でなければいかなる批判も受けつけないものである。そのパラドクスとは、愛国心は、個人の非自己中心主義が国家の利己主義に転化する、ということである。国家への忠誠心とは、もしより低い忠誠心や地方的利害などとくらべるならば、それは高度な利他主義の形態である。それゆえ、それはすべての利他的衝動の担い手となるのであり、そして、あるときには、その忠誠心は、個人が国家とその事業にたいしてもつ批判的態度をほとんどまったく破壊してしまうほどの熱烈さをもって、表現されるのである。この献身の無条件的性格が、まさに国家的権力の根拠そのもの、またその力をなんの道徳的抑制なしに行使する自由の根拠そのものなのである。このようにして、個人の非自己中心主義は、国家の自己中心主義を助長するのである(ニーバー 1998、109)。

 ニーバーが前提とした歴史的文脈と近代日本のそれとが異なることは言うまでもないが、ここで指摘されている愛国心の倫理的パラドクスは、当時の日本に当てはまるだけでなく、かなりの程度、他の国々においても類似した構造を見出すことができるであろう。引用文中後半にある、国家権力が道徳的抑制なしにその自由を行使できるということは、これまでの考察で明らかなように、日本の場合、「信教の自由」を含むいかなる自由も、道徳によって抑制されていたことと表裏一体の関係にあった。そして最大の問題は、個人の非自己中心主義(=私的領域)を国家の自己中心主義(=公的領域)に直結させる仕組みを近代日本の政教関係が内包していたということである。
 このような構造的問題を、再度、宗教間対話、宗教の神学の類型論を参照して、整理してみよう。多元主義の主張者にとって、どの宗教をも基本的に対等に扱おうとする多元主義は、もっとも「非自己中心主義」的な立場となる。その立場から見れば、排他主義や包括主義は「自己中心主義」から脱却し切れていない未成熟な考え方とされるであろう。言い換えれば、多元主義はもっとも寛容な他者(他宗教)理解を有している。しかし、ここでニーバーが指摘する愛国心の倫理的パラドクスを重ね合わせてみよう。端的に言えば、国家や愛国心という文脈の中では、もっとも非自己中心主義的な多元主義が、皮肉にも、国家の自己中心主義、排他主義を助長する可能性がある、ということである。一国の政教システムの内部で、諸宗教共存の条件が醸成されたとしても、それ自体がシステムの外部世界や、システム内部の異質な要素に対し、きわめて排他的かつ自己(自国)中心主義的に働く危険性があることを、愛国心の倫理的パラドクスから読み取る必要がある。翻って言えば、そうした危険性に無自覚な多元主義は、自らが立脚している歴史的文脈を十分に相対化しないままに、むしろ、それを他者に対しても前提条件として押しつけているかもしれないということである。
 ニーバーは国家への忠誠心を高度な利他主義の形態と呼び、また、それがすべての利他的衝動の担い手になると指摘する。そして日本近代史は、その利他的衝動の担い手として「宗教」が重要な役割を果たしていたこと、「宗教」がナショナリズムに合流し、国家のアイデンティティ・ポリティクスの一端を担っていたことを教えている。ユルゲンスマイヤー(Mark Karl Juergensmeyer)は、世俗的ナショナリズムと宗教は「包括的な道徳秩序の枠組み、すなわちそれに所属する人々に究極的な忠誠を命じる枠組みを与える」という構造的類似性を持つことを指摘し、同時に「ナショナリズムと宗教の殉教と暴力に道徳的裁可を与える能力ほどに忠誠の共通の様式が明らかに現れているものは、他のすべての形の忠節のなかにはない」(ユルゲンスマイヤー 1995、28-29)と語る。つまり、宗教と世俗的ナショナリズムの侮りがたい「近さ」は、近代日本のたどった道にその足跡を残しているだけでなく、普遍的な事象として見るべき側面を持っている。近代日本の政教関係、そこに内属させられた「宗教間対話」を一国史的語りの中で閉塞させてしまうのではなく、世界史的な課題へとつないでいく必要性がここにある。
 近代日本においてキリスト教は、一方で、仏教など、キリスト教と同様に「宗教」とされた対象との間では、たとえそれが「排他主義」的であったとしても、批判的な対話を交わすことができた。内村鑑三の不敬事件に端を発する「教育と宗教の衝突」論争において、キリスト教側と井上哲次郎ら国体イデオローグとの間に交わされた論争も、基本的にはその延長線上に位置づけることができる。しかし他方、自らが「宗教」であることを自明視したキリスト教は、「宗教」の外部に置かれた隠れた宗教イデオロギー(教育勅語に代表される国民道徳、国体イデオロギー)との批判的コミュニケーション能力を欠くことになっただけでなく、神仏協力の場合と同様、それとの補完関係に置かれることになった。
 今日の宗教間対話は、現代世界が直面している現実的な問題を視野に入れて行われつつあるとはいえ、やはりキリスト教主導でなされる場合には、比較神学・比較宗教学的なテーマか、環境問題などプラグマティックなテーマでなされることが多い。「宗教」の範疇に入らなかったものの中に「宗教」の根幹を揺るがす萌芽があったことを日本近代史から学ぶとすれば、世俗ナショナリズムや民俗信仰などにも「宗教間対話」の射程を伸ばす必要はあるだろう。
 さらに付け加えれば、近代はまだ「過ぎ去った過去」ではない。日本という枠組みを超え、グローバルな視野で見るなら、ポストモダン的言論が論壇を華やかにしている一方、今なお、プリモダンとモダンの間で苦闘し、近代的価値との葛藤のただ中にいる人々は現代においても多数存在している。とりわけ、西洋近代がイスラーム圏に押しつけてきた「近代」の影の部分(ほとんどの国が植民地化された)から、どれほどの「うめき」が聞こえてくることか。この事実を真摯に受けとめれば、宗教紛争やテロの問題を他人事として処理することはできないはずである。日本は、過去の教訓を生かして、近代との苦闘を強いられている新しい隣人に対し、共感と共苦の姿勢を示すことができるだろうか。
 近代において形成された「宗教」概念を神学の課題として批判的に検証し、また「宗教間対話」の射程を近現代の通時的・世界史的テーマとして拡張しなければならない理由がここにもある。

(付記)
本稿は、日本基督教学会 第55回学術大会(2007年9月20~21日、京都大学で開催)における研究発表「近代日本における「宗教間対話」――宗教概念の形成と政教分離を中心に」に加筆修正したものである。また本稿は、科学研究費補助金(基盤研究(C))「非欧米型宗教間対話と政治状況の相関関係――東アジア・中東を中心にして」(課題番号:18520056)の研究成果の一部である。

 
引用文献一覧
磯前順一 2003 『近代日本の宗教言説とその系譜――宗教・国家・神道』岩波書店。
井上哲次郎 1893 『教育ト宗教ノ衝突』敬業社。
―――― 1902 『倫理と宗教との関係』冨山房(島薗進、磯前順一編纂『井上哲次郎集』第一巻、クレス出版、2003年、所収)。
小崎弘道 1889 『基督教ト国家』警醒社。
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末木文美士 2004 『明治思想家論』トランスビュー。
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土肥昭夫 2004 『日本プロテスタント・キリスト教史』(第五版)新教出版社。
ニーバー、ラインホールド 1998 『道徳的人間と非道徳的社会』(大木英夫訳)白水社。
安丸良夫 2007 『文明化の経験――近代転換期の日本』岩波書店。
山口輝臣 1999 『明治国家と宗教』東京大学出版会。
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Masuzawa, Tomoko 2005 The Invention of World Religions: Or, How European Universalism Was Preserved in the Language of Pluralism. Chicago and London: The University of Chicago Press.