小原克博・中田考・手島勲矢『原理主義から世界の動きが見える――キリスト教・イスラーム・ユダヤ教の真実と虚像』PHP研究所、2006年
目 次
第1章 なぜいま「原理主義」を問うのか?
―原理主義と一神教によって開かれる問題の地平
「一神教」を理解するための基礎知識
「原理主義」を理解するための基礎知識
第2章 座談会 日本人にとっての原理主義
第3章 キリスト教と原理主義―変遷する原理の過去と未来
「原理主義」に対する現代的理解
「原理主義」が生まれる歴史的な背景
社会に認知される「原理主義」
福音派と宗教右派
原理主義の過去と未来―変遷する原理
第4章 イスラーム原理主義―歪められた実像
「イスラーム原理主義」という概念
「ウスーリーヤ(原理主義)」と「ウスール学派」
イスラームにおける権威の構造
イスラームにおける「聖典」―クルアーンとハディース
「イスラーム原理主義」再考
第5章 ユダヤ教と原理主義―シオニズムの源流を求めて
ユダヤ学の文脈から「原理主義」を読み解く
預言の終焉と聖典の成立―ユダヤ教における原理の誕生
シオニズムの源流―ふたたび「祈り」から「行動」へ
はじめに――「原理主義」に向けられる現代人の眼差し
「原理主義」をテーマとする本を手にする読者が、そこに期待するものは多様である。原理主義という言葉は何かしら、現代人の心を引く魅力を持っている。一つには、現代の事象を説明する概念装置としての魅力があるからだろう。たとえば、テロや紛争の原因として「イスラーム原理主義」が引き合いに出されるとき、複雑な原因の究明に先だって、単純化された動機や目的が、事件を引き起こした原因として語られることが多い。つまり、腑に落ちやすい「答え」を提供するために、イスラーム原理主義という言葉は実に都合がよいのだ。これが、イスラームの実像をゆがめる、ネガティブな役割を果たしていることは言うまでもない。いや、まさにそのようなものとして、この言葉が機能するからこそ、原理主義は、その語の使用者と受け手から見て魅力的なのだ。
他方、正体のわからないものへ向けられた他称や蔑称としてではなく、むしろ、自らが立ち返るべき立脚点を、根本原理として明確にしようとするポジティブな魅力もある。「基本に立ち返る」という態度は、古今東西を問わず、尊重されうる価値の一つに違いない。だからこそ、原理主義という用語法の源流となった米国のキリスト教原理主義は、自称として、誇らしげにその言葉を用いたのである。
原理主義を他称として使うのであれ、自称として使うのであれ、なぜその語の使用者は原理主義という言葉に魅力を感じたり、場合によっては、嫌悪感を抱いたりするのだろうか。この問いは、一見、情緒的なレベルでの問題でありながら、それが広く共有され、メディアを通じて拡大再生産されていく中で、国際政治にさえ影響を及ぼしていく社会的次元をも有している。そして、ある特定の言葉が多くの人に共有され、インフレを起こすときにしばしば起こるように、原理主義という言葉に関しても、その語の流布を通じて、かえって指示される対象が誤認されうるのである。
本書では、まさにこの点に注目する。原理主義とは何か、という切り口によって、原理主義といわれている様々な対象を網羅し、そこにある共通要素を切り出していく、という作業も可能であろう。シカゴ大学出版局から一九九三年から九五年にかけて刊行された五巻本の「ファンダメンタリズム・プロジェクト」の報告書は、その代表例と言える(第三章で触れる)。そこでは、原理主義の対象としてキリスト教、ユダヤ教、イスラーム、ヒンドゥー、シーク、仏教、儒教などが扱われ、原理主義という枠組みの中で共有される特性が抽出されている。しかし、本書では、共有されうる特徴を抽出して原理主義を突き止めるという方向より、むしろ、その言葉によって、かえって歪められたり、隠されたりしてしまった対象の正しい認識へと向かうことを目指す。それゆえ、本書では、数ある宗教の中から、特に「一神教」と呼ばれるユダヤ教・キリスト教・イスラームに焦点を当てるのである。
一神教以外の宗教や、さらにはナショナリズムや特定の文化的営為の中にも、原理主義と呼びたくなる事象はあるに違いない。しかし、原理主義という言葉の濫用によって、より大きくゆがみを生じることになった対象、および、その言葉を生み出した主体は一神教である(後に触れるように、原理主義という表現は、アメリカ・キリスト教史の産物である)。だからこそ、本書は三つの一神教が原理主義とどのような関わりを持つのかについて議論を集中させることによって、原理主義という概念が持つ有効性と限界とを際だたせていく。そして同時に、三つの一神教についてのより深い理解へ誘いたいと考えている。