世界キリスト教情報 第1666信(2022.12.26)
- 教皇「子どもが戦争の餌食に」=バチカンでクリスマスイブのミサ
- ベラルーシ外相が「謎の急死」毒殺か=異例の「国葬」執行
- 李在明代表、カトリック大主教を訪問「より良い世の中にしたいが容易でない」=韓国
- ブラジルの守護聖人アパレシーダを祀る聖堂でローソクの包みが燃えて黒煙
- マニラの教会に高山右近像=信仰貫いた「福者」崇敬
- 「梨泰院犠牲者の母親が失神...言葉の暴力をやめろ」=4大宗教団体が訴え=2次加害に対する捜査も要請
- 《メディア展望》
◎教皇「子どもが戦争の餌食に」=バチカンでクリスマスイブのミサ
【CJC】教皇フランシスコは12月24日夜、バチカンの聖ペトロ(サンピエトロ)大聖堂で降誕祭(クリスマス)イブのミサを行った。
バチカン・ニュース(日本語)などによると、この夜、聖ペトロ大聖堂は、地元ローマをはじめ、世界各国の信者たちでいっぱいになった。約7千人が参列したとも見られる。
ミサの冒頭、救い主の誕生を宣言する「カレンダ」が朗唱された。「カレンダ」に続き、助祭が祭壇前のまぐさ桶の覆いを取り、中に寝かされた幼子イエス像を現した。
幼子イエス像への助祭による献香と、世界の民族衣装を着た子どもたちによる献花が行われる中、広場には大聖堂の鐘楼から祝いの鐘が鳴り響いた。
ミサの説教で教皇は、人々が忘れているクリスマスの意味を再び見出す場所として、幼子イエスが寝かされた「飼い葉桶」を示し、「飼い葉桶」を通して神が伝える、「寄り添い」「貧しさ」「具体性」という三つのメッセージについて説いた。
説教中、特に戦争や、貧困、不正義の犠牲となった子どもたちに思いを向けた教皇は、切り捨てられ、見捨てられた場所、「飼い葉桶」に寝かされたこの幼子の中に、すべての子どもたちの姿があると話した。
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バチカン・ニュース(日本語)が伝える教皇によるミサの説教は次の通り。
この夜はわたしたちの生活にまだ何かを訴えているでしょうか。イエスの降誕から2000年が経ち、多くの降誕祭が装飾や贈り物と共に祝われ、わたしたちが記念する神秘が多大な消費主義に包まれた後、ここで一つの危険に行き当たります。クリスマスについてわたしたちは多くのことを知っていても、その意味を忘れているのです。
では、どのようにしてクリスマスの意味を再び見出すことができるでしょうか。特に、それをどこに探しに行けばいいのでしょうか。イエスの誕生の福音は、まさにそのために記されています。それはわたしたちの手を取り、神がお望みになる場所へわたしたちを連れ戻すのです。
イエスの誕生の福音は、わたしたちと同じような状況から始まります。すべての人がある記念すべき重要な出来事に没頭し、あわただしくしています。それは非常に大がかりな住民登録で、多くの準備を必要とするものでした。その意味で、当時の雰囲気は、今日のクリスマスにおいてわたしたちを包む雰囲気とどこか似たものでした。しかし、福音のストーリーは、世俗的な光景から遠ざかりながら、強調したい別の場面をクローズアップしていくのです。
場面は一見価値のない小さな道具の上に止まります。それは福音の中で3回も言及され、その上にストーリーの登場人物たちを集めるものです。まず、マリアがイエスを「飼い葉桶に寝かせ」(ルカ2・7)ます。次に天使たちが「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(同2・12)の存在を羊飼いたちに告げます。そこで、羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」(同2・16)を探し当てるのです。
「飼い葉桶」、降誕祭の意味を再び取り戻すにはこれを見つめなければなりません。しかし、「飼い葉桶」はなぜこれほどにも重要なのでしょうか。それは、ほかでもない、キリストがこの世という場面に入る時にたずさえているしるしだからです。それはキリストがご自分を現された時のマニフェスト、歴史を再生するために、神がお生まれになった時の手段だからです。では、「飼い葉桶」を通して神がわたしたちに伝えたいことは何でしょうか。それは少なくとも三つあります。「寄り添い」、「貧しさ」、「具体性」です。
(1)「寄り添い」。「飼い葉桶」は、餌を家畜の口の近くに持っていき、それを早く食べさせるために用いるものです。こうして、それは人類の姿を象徴します。それは消費における貪欲さです。なぜなら、家畜小屋の動物たちが餌を食べている間に、世の中の人間たちは権力と富に飢え、まわりの人々、彼らの兄弟たちをもむさぼるからです。なんと多くの戦争があることでしょう。いまだ今日、どれだけの場所で尊厳と自由が侵害されていることでしょうか。
人間の貪欲さの犠牲になるのは、いつでも主に不安定で弱い立場の人々です。このクリスマスにも、お金と権力と享楽に飢えた人類は、イエスに「場所がなかった」(参照
同2・7)ように、最も小さき人々、多くの生まれてくる子たち、貧しい人々、忘れられた人々に場所を与えようとしません。わたしは特に戦争や、貧困、不正義の犠牲となった子どもたちを思います。しかし、イエスはまさにそこに、切り捨てられ、見捨てられた「飼い葉桶」の幼子となって来るのです。このベツレヘムの幼子の中に、すべての子どもたちがいます。それは、子どもたちの眼差しで、生活や政治や歴史を見つめるようにとの招きでもあるのです。
拒絶された、居心地の悪い「飼い葉桶」に、神は落ち着きます。神がそこにおいでになったのは、そこに人類の問題があるからです。それは所有と消費への焦りと貪欲から生まれた無関心です。キリストはそこにお生まれになり、わたしたちはその飼い葉桶の中にキリストを間近に見出すのです。キリストは食べ物をむさぼる場所に、わたしたちの食べ物となるために来られました。神はご自分の子らをむさぼる父ではありません。
むしろ、イエスの中におられる御父は、わたしたちをご自分の子とされ、その優しさで養ってくださいます。神はわたしたちの心に触れ、歴史を変える唯一の力は愛であると教えるためにやって来られます。わたしたちから距離をとることのない、力強く、寄り添われる、謙遜な神、天の玉座におられた方が、飼い葉桶に寝かされています。
兄弟姉妹の皆さん、神は今晩あなたの近くに来られます。それは神にとってあなたが大切だからです。飼い葉桶から、いのちの食べ物となって、イエスはあなたに言われます。「あなたがいろいろな出来事に疲れ切り、もしあなたが罪の意識と自分が不十分であるという思いに蝕(むしば)まれているならば、もしあなたが正義に飢え渇いているならば、神であるわたしはあなたと共にいる。わたしはあなたの暮らしを知っている。わたしはそれをあの飼い葉桶の中で体験した。あなたの惨めさと身の上に起きたことを知っている。あなたのそばにいつもいて、これからもいることを伝えるために、わたしは生まれた」。
幼子となられた神の最初のメッセージである、ご降誕の飼い葉桶は、神がわたしたちと共におられ、わたしたちを愛し、わたしたちを探されるということを伝えています。元気を出しましょう。恐れや、諦め、失望に負けてはなりません。神は飼い葉桶の中に、まさにあなたがどん底と思っていた場所に、あなたを再び立ち上がらせるためにお生まれになりました。イエスが救いを望まれない、救うことができない、いかなる悪も罪もありません。降誕祭とは、神が近くにいるという意味です。信頼を取り戻しましょう。
(2)ベツレヘムの飼い葉桶は、わたしたちへの「寄り添い」と共に、「貧しさ」を伝えています。事実、飼い葉桶のまわりには、ほとんど何もありません。茂みと何匹かの動物、それくらいです。人々は宿屋で暖をとり、寒い家畜小屋を宿とすることはありませんでした。それでも、イエスはそこにお生まれになりました。飼い葉桶は、まわりには何もなくても、そこにイエスを愛する人々がいたことを思い出させます。それはマリアとヨセフ、そして羊飼いたちです。皆が貧しい人たちであり、富と大きな可能性を持たなくとも、愛情と驚きにあふれていました。貧しい飼い葉桶は真のいのちの豊かさを表していました。それはお金や権力ではなく、絆であり、人々でした。
その中で最も中心的な人物、一番の豊かさは、イエスその人でした。しかし、わたしたちはイエスのそばにいたいと思いますか?
イエスに近づき、その貧しさを愛せますか? それとも、自分の関心の中に楽をしてとどまっている方がよいですか?
特に、イエスがいる場所、すなわち、わたしたちの世界の貧しい飼い葉桶を訪ねたいと思いますか?
イエスがおられるのはそこなのです。そして、わたしたちは貧しいイエスを礼拝し、貧しい人々の中におられるイエスに奉仕する教会であるようにと召されているのです。それは、ある聖なる司教が言ったとおりです。
「教会は不正義の構造を変えるための努力を支え祝福し、ただ一つの条件を提示する。それは、社会、経済、政治の変容が真に貧しい人々のための恩恵となることである」(O・A・ロメロ、新年の司牧メッセージ、1980年1月1日)。確かに、ベツレヘムの洞窟の簡素な美しさを抱擁するために、世俗的なぬくもりを捨てることは容易ではないでしょう。しかし、貧しい人々を除いては真のクリスマスではありえないことを思い出しましょう。貧しい人々を考えずに降誕祭を祝うこともできます。しかしそれはイエスの降誕祭ではありません。兄弟姉妹の皆さん、降誕において神は貧しい存在です。慈愛の心がよみがえりますように。
(3)最後のところにやってきました。飼い葉桶はわたしたちに「具体性」を伝えます。実際、飼い葉桶に寝かされた幼子の姿は、わたしたちを驚かせる、ある意味生々しいまでの光景です。それは神がまさに肉となられたことを思い出させます。こうなると、神に対する論理も思考も敬虔な感情も十分ではありません。貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく亡くなられるであろうイエスは、ご自身の貧しさについて多くを語ることはありませんでしたが、わたしたちのためにその貧しさを徹底的に貫かれました。
飼い葉桶から十字架に至るまで、イエスのわたしたちへの愛は明白で具体的でした。その誕生から死に至るまで、大工の息子は木の荒い手触り、人間の生きることの厳しさを包容しました。わたしたちを口先だけで愛されたのではありません。その愛は真摯(しんし)なものでした。
イエスは外見だけに満足しませんでした。イエスが人となられたのは、適当な意図のためではありません。飼い葉桶の中に生まれたイエスは、口先や見せかけではない、礼拝と慈愛の業からなる具体的な信仰を求めました。飼い葉桶に裸で生まれ、やがて裸で十字架につけられるイエスは、わたしたちに真理を求めます。物事の真の姿を見つめ、言い訳や、正当化、偽善を、飼い葉桶の足もとに捨てるようにと命じます。マリアによって布に優しくくるまれたイエスは、わたしたちを愛で包むことを望まれます。神は見せかけではなく、具体性を求められます。
何か良いことを行わずして、このクリスマスを終わらせてはいけません。降誕祭がイエスのお祝い、イエスの誕生日であるからには、イエスに喜ばれる贈り物をしようではありませんか。ご降誕において、神は具体的です。神の名のもと、希望を失った人に、少しでもそれを取り戻させることができますように。
飼い葉桶の中に寝かされたイエスよ、わたしたちはあなたを見つめます。あなたはこれほどにも「近く」に、いつもわたしたちに寄り添ってくださいます。主よ、感謝します。わたしたちは貧しいあなたを見つめます。あなたの貧しさは、真の豊かさとは、物の中ではなく、人々の中に、特に貧しい人々の中にあることをわたしたちに教えます。わたしたちが貧しい人々の中にいるあなたの存在に気づかず、あなたに奉仕できなかったことがあったならば、どうかお赦(ゆる)しください。わたしたちはあなたの具体性を見つめます。なぜならあなたのわたしたちへの愛が具体的だからです。わたしたちの信仰に肉といのちをもたらすことができるよう、助けてください。アーメン。
◎ベラルーシ外相が「謎の急死」毒殺か=異例の「国葬」執行
【CJC】ウクライナ侵略を続けるロシアに軍事拠点を提供しているベラルーシのウラジーミル・マケイ外相(64)が11月26日、首都ミンスク郊外の自宅で急死した。しかし、ベラルーシ政府は死因について一切明かしておらず、さまざまな憶測を生んでいる。産経新聞12月20日報道を紹介する。
背景には、マケイ氏が政権内で最も西側欧米諸国と近い関係にあり、ロシアから再三ウクライナ戦争への参戦を求められているベラルーシのルカシェンコ大統領に対し、戦争関与への〝ブレーキ〟をかけていたとされる事情がある。ロシア当局が関与した謀殺との見方もくすぶっている。
64歳で急死したマケイ氏の葬儀は11月29日に、ルカシェンコ大統領の意向により、国家元首ではない要人に対しては異例の「国葬」として執り行われた。マケイ氏が、「欧州最後の独裁者」とも呼ばれるルカシェンコ氏の信任が厚い、最側近の閣僚であったことを物語っている。
◎李在明代表、カトリック大主教を訪問「より良い世の中にしたいが容易でない」=韓国
【CJC】韓国メディア『ワウコリア』によると、「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン)代表が天主教(カトリック)ソウル大主教区長の鄭淳沢(チョン・スンテク)大主教に会い「最大限、より良い世の中を作ろうと努力するのに容易ではない」と明らかにした。
李代表は12月20日、カトリックソウル大主教区庁を訪問し、鄭大主教を表敬訪問した席で、大統領選候補だった3月、チョン大主教が「政治は人を幸せにすること」と言った言葉に言及した。
彼は「クリスマスが近づいてくるのにイエス様の意思が疎外され暗いところに光になろうとしたのではないか」として「政治というものが本質的には疎外され難しいところに光を与えることなので宗教の目的と大きく外れていないようだ」と話した。
◎ブラジルの守護聖人アパレシーダを祀る聖堂でローソクの包みが燃えて黒煙
【CJC】ブラジル・サンパウロ州内陸部のアパレシーダ・ド・ノルテ市で12月21日朝、国の守護聖人ノッサ・セニョーラ・アパレシーダを祀っているアパレシーダ聖母大聖堂でローソクの包みが燃えて黒煙が立ち込め、関係者や市民が慌てる事態が起きた。現地邦字紙『ブラジル日報』によって紹介する。
出火が起きたのは午前8時頃で、場所は聖堂を訪れた信者たちがローソクを灯しておく、カペラ・ダス・ヴェラスと呼ばれる部屋。
聖堂関係者によると、この部屋のベンチの上に置かれていたローソクのパッケージが燃えたが、聖堂配属の消防隊がすぐに消火活動を行った。そのため、カペラの窓周辺に煤による黒ずみが残ったものの、建物そのものへの損傷やけが人などは出ていないという。この部屋は常に火が灯されている。
◎マニラの教会に高山右近像=信仰貫いた「福者」崇敬
【CJC】マニラ発共同通信によると、江戸幕府の禁教令で追放され、マニラで没したキリシタン大名高山右近(1552~1615年)の像が12月21日、同市のサンミゲル教会に設置された。マラカニアン宮殿(大統領府)の近くにある同教会で、アドビンクラ・マニラ大司教が像を前に祝福の儀式を行った。
12月21日は右近がマニラに到着した日とされ、同市が18年に「高山右近の日」に制定した。儀式には越川和彦駐フィリピン大使も出席した。
高山右近は、大名の地位を捨てて信仰を貫いた殉教者として、2017年にローマ教皇庁から「聖人」に次ぐ地位の「福者」の称号を与えられた。キリスト教が盛んなフィリピンで崇敬されている。
◎「梨泰院犠牲者の母親が失神...言葉の暴力をやめろ」=4大宗教団体が訴え=2次加害に対する捜査も要請
【CJC】韓国紙『ハンギョレ新聞』によると、同国の4大宗教団体の宗教家たちが、梨泰院(イテウォン)惨事の犠牲者と遺族に対する2次加害の中止と警察の即時捜査を要請した。
大韓仏教曹渓宗社会労働委員会、カトリック・イエズス会人権連帯、韓国キリスト教教会協議会正義平和委員会、円仏教市民社会ネットワークの4大宗教団体の宗教人たちは12月21日、「梨泰院惨事犠牲者と遺族のための宗教人の国民への訴え」と題する文章で、「犠牲者に向けられた口にするのもはばかられる無差別的な嫌悪、蔑視、侮辱が相次いでいる」とし、「先日には、焼香所を守りながら苦痛に耐えているある犠牲者の母親が、面前に降り注ぐ嘲笑に衝撃を受けて失神する事件まで起きてしまった」と述べた。
また、「遺族は私たちと互いになくては生きていけない大切な隣人であり家族であって、蔑視、批判や責任転嫁、非難や嘲笑などの侮辱的な言葉の暴力は直ちにやめよ」とし、「2次加害に対する警察の即時捜査と遺族の社会的保護のための早急な対策」を求めた。
4大宗教団体は「手を取り合って泣いても内蔵をえぐるような痛みが鎮まらない遺族たちに対し、むしろ呪いの言葉を浴びせる彼らを見て、私たちは共同体が存在する理由を改めて問う」としている。
《メディア展望》
=カトリック新聞(12月25日)=https://www.cwjpn.com/cwjpn/
教皇、「国際障害者デーに」=受け入れることの意味を説く
教皇フランシスコ=馬小屋の前で静かに祈る
教皇フランシスコの回勅=バチカン公式サイトが日本語版を公開
諸宗教の祈りの集い開き=死刑執行停止求める=「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク
=KiriShin(12月25日=再掲)=https://www.kirishin.com
賀川ハルとともに生きた3年=小説「春いちばん」著者=玉岡かおるさんインタビュー
牧師が覚醒剤使用の疑いで逮捕=自立・厚生支援で受賞歴
盲伝「創立70周年記念感謝会」=雲然俊美氏がメッセージ
「防衛政策の抜本的見直しを」=NCCが首相と防衛相に要望書
ロシア軍の少数民族部隊=教皇「最も残酷」=ロシア外相は非難
=クリスチャン新聞(12月18・25日=再掲)=https://クリスチャン新聞.com
「第10回戦争に関する証言集会」で山口陽一氏=特攻青年の死と信仰とは=「死ぬことは益」と結びつく
盲伝が70周年記念礼拝・感謝会=共なる信仰の歩みこれからも
次世代献身者起こる機会に=様々なキ教団体協力=uniTed 2022
日本初のプロテスタント教会の歴史と今=横浜海岸教会150年=聖書に聞いて生きる
商店街にクリスマスの灯=ホッと安らぐ物語を暮らしの中に