メディア・報道

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「宗教の視点から──紛争や戦争はなぜ起きるのか」、『まなぶ』(労働大学出版センター)第800号(2023年3月号、特集「くり返す紛争」)、23-26頁

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宗教の視点から考える意義
 
 紛争や戦争は人類の歴史から絶えることがない。それでも、紛争や戦争がなぜ起きるのかと人が問うのは、原因を特定できれば、それを取り除き、戦争をなくすことができるのではないか、少なくとも減らすことができるのではないかと思うからである。戦争の原因は単一ではなく、その答えは立脚する立場(学問領域)によって変わってくる。多くの場合、答えは明快なものではない。しかし、戦争の原因を特定できなくても、戦争を抑止するための工夫は可能であり、本稿は、宗教の視点から、そのような課題に応えようとするものである。
 現代世界において紛争や戦争が起きたとき、その原因究明には、国際政治学や安全保障などの専門家が状況を分析し、紛争の原因や紛争終結までの見通しを論じることが多い。我々がニュースメディアを通じて、大量に消費している情報は、この種のものである。現代ではインターネットを介して、戦況をほぼリアルタイムに知ることができるという点で、戦争のリアルに近いと感じるかもしれないが、情報として伝えられた戦況はリアルな「自分事」になっているだろうか。大量の情報に接したとしても、その紛争や戦争はどこか「他人事」となってはいないだろうか。
 宗教の視点から言えることの一つは、人間の暴力行為や、それが組織的に展開される戦争は、人間の欲望から出ているという当たり前の事実である。ところが、みずからの暴力性や際限ない欲望を冷静に直視することは簡単ではない。それでも、それを洞察し、制御しようと努力する中で、この世にあるどのような暴力も欲望の暴走も、決して自分と無関係ではないことに気づかされる。多くの宗教伝統 の中には、このような知恵が蓄積されている。その知恵の一部として、リアルとバーチャルをつなぐ力、世代を超えて重要な思想を継承する力、世界観を構築する力などについて後に見ていきたい。
 
戦争の原因と戦争の変化
 
 戦争はなぜ起きるのか。個人による暴力と組織的な戦争とは区別しなければならないが、戦争の起源を探るために、動物を含めた暴力(同種同士の争い)の原因については研究が進められてきた。
動物の場合、限りある資源のために互いに争うことがあるが、その資源とは食物であり交尾をする相手である。みずからの生命を維持し、子孫を残すために動物は争う(山極 2007、36頁)(※1)。集団を維持するための食を確保するために、人間集団も他の集団を襲うことがあるが、考古学があきらかにしているのは、人間の場合には、そうした物質的なもののためだけでなく、非物質的なもの(思想)のために争いが起こってきたということである(松木 2001、21頁)(※2)。つまり、衣食住が足りていたとしても、もっと広い領土が欲しいなどの支配欲は容易に増大する。そして、為政者は得た領土を防衛するために外部の敵と勇敢に戦うことを鼓舞することになる。愛する家族や仲間、共同体を守るために敵と戦うという犠牲的な行為は、自然な感情の発露とは簡単に言えず、むしろ思想によって強化・拡張されるという意味で、思想の産物としての側面をもっている。
 戦争と思想の関係を考える上で、宗教は膨大な歴史的教訓を与えてくれる。政治的なプロパガンダだけでは、人はみずからの命をなげうつことはできない。より崇高な(神聖な)目的や大義があってこそ、戦争への大量動員が可能となる。そうしたメカニズムを分析し、戦争を抑止するためにも、戦争と宗教の関係を考察することは有益である。とくに今日のテロや紛争には一神教が関係していることが多く、それについては拙著(※3)第4章「一神教における戦争」を参照していただきたい。 宗教思想が敵・味方の二分法に陥り、急進化していくとき、テロや戦争すら積極的に正当化されていくことになる。
 ここでは、今後の戦争を考える上でも大切な視点として、戦争のバーチャル化を取り上げたい。動物と異なり人間が思想的な理由から争いを起こすのは、人間が高度な言語能力を持ち、バーチャルな共同体を生み出すようになったことと関係している。言語によって、自分自身が経験していないことを仲間から聞くことができるだけでなく、五感では認知できない架空のものすら共有できるようになった。それはハラリが次のように語る通りである。
 
伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。それまでも、「気をつけろ! ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。だがホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンはわが部族の守護霊だ」と言う能力を獲得した。虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。(※4)

 国家も、ここでいう「架空の事物」に他ならない。言語はバーチャルな共同体を生み出しただけでなく、高度な言語作業の産物として精緻な技術をも生み出した。武器もその一つであるが、武器の進化は、戦争のバーチャル化をもたらすことになった。自分の手を使って相手を殺傷する武器(刀剣など)から、相手の顔を見ることなく殺傷できる銃器、さらには相手の存在すら知ることなく大量の殺傷を可能にするミサイルに至るまで、武器の高度化は殺傷のリアルを希薄にし、戦争をバーチャルなものへと変えていった。自分の手で相手を殺すことは、普通の人には困難である。しかし、バーチャルな戦争の中では、特別な訓練を受けていない普通の人でも、大量の人を殺すことが可能となる。
 虚構の力、バーチャルな力は、物質的な制約を超える可能性を人類に与えたが、同時に、それがリアルから遊離して暴走するとき、とてつもない暴虐を生み出してきたことにも十分な注意が必要である(昨今のカルト問題はその典型である)。リアルとバーチャルの間を行き来する作法を示してきた宗教の知恵と負の教訓の中から、問題解決の糸口を探ることは可能だろう。
 
未来の平和のためにいま、考えるべきこと
 
 今後起こり得る争いや戦争を予見できないまでも、それを抑止するために長期的な視点で取り組むべき課題はある。それを宗教の知見を交えて提起したい。
 第一に、過剰な人間中心主義の克服である。人間も他の動物と同様、生存のための食物や生活環境なしには生きることはできない。人間中心的な欲望の肥大化が、地球環境や生態系に大きなダメージをもたらし、結果的に、人間の食や住に対し悪影響を及ぼしている。水や食を安定的に得られなくなると、地域紛争や戦争が起きる可能性は高くなる。物質的なものをめぐって戦争が起きてきたことは先に述べたとおりであるが、それは人間が生き物である限り、変わることはない。かつてと違うのは、地球環境全体に影響を及ぼすようになった人類は、それに対して責任を負わなければならないということである。つまり、人間と地球環境(自然)とを一体的に考える世界観や価値観が必要になってくる。今後、宇宙開発(まずは月面開発)が本格化してきたとき、地上にある覇権主義的な思想が月面で抑止されるとは考えにくい。長期的には、地球にとどまらず、宇宙も視野に入れた新たなコスモロジー(世界観・宇宙観)が戦争抑止のために必要となる。
 第二に、戦争抑止のための世代間倫理を醸成することである。現在、世代の作為・不作為が未来世代に大きな影響を及ぼすことから、環境問題への対応の中で世代間倫理の必要性が訴えられてきた。世代を超えた戦争記憶の継承は困難であるがゆえに、長期的な視点で取り組まなければならない課題であり、戦争経験者の個別の記憶を集合的記憶として歴史の風雪に耐えるものにしていかなければならない。古い教えや経験を、教義や儀礼を通じて身体化し、世代をつないで継承してきた宗教は、この点で、ユニークな貢献ができるかもしれない。自国中心主義史観を超えていくことも、戦争抑止のための記憶の倫理には必要となるが、そうした準備ができているかどうかも、真摯に問う必要があるだろう。
 第三に、自然・人間・人工物の間の平和を考察することである。現代人の志向性や価値判断の多くは技術によって媒介されており、人間は純粋な意味で自律的存在であるとはもはや言えない。たとえば、人工知能やドローンは、民生利用も軍事利用も可能なデュアル・ユースな技術であり、近未来社会の平和を考える際、人間と技術を単純に切り分けて、技術は正しく使うべきだという論理だけでは、技術が人間の活動や精神にもたらす影響力を正しく評価することはできない。
かつては自然と人工物は二分法的に区分されていた。しかし、技術革新により、自然と人工物の区分が曖昧になる傾向が近年見られる(人工知能研究はその典型)。近未来において、人間の知能や欲望がいま以上に人工物に依存することは十分予想できる。伝統的に宗教は、人間と自然の関係に関心を向けてきたが、いまや、人工物との関係も無視することはできない。人工物が人間の暴力性に新しい次元を付け加えるとするなら、人工物により媒介された暴力性と紛争を視野に入れることのできる、新しい形の平和を模索する必要がある。
 以上、動物を含む、太古よりの争いの起源を論じつつ、未来の戦争の形についても考えてきた。個人も社会も、争いの火種(戦争の原因)を内部に抱えていることを認識することが大事だが、それがわかったとしても、簡単にそれらを除去することはできない。そうした不都合な現実から目をそらすことなく、長期的な視点から、粘り強い対応をしていくために、功罪合わせもつ宗教の歴史 から学べるものは多くあるだろう。すべての人間は単純に善でもなければ悪でもない。人間が持つ「光」の部分と「闇」の部分が合わせ持つ複雑さを、宗教は「レンズ」のように照らし出してくれるのである。

■参考文献
※1 山極寿一『暴力はどこからきたか──人間性の起源を探る』(2007年、NHKブックス)36頁
※2 松木武彦『人はなぜ戦うのか──考古学から見た戦争』(2001年、講談社選書メチエ)21頁
※3 小原克博『一神教とは何か──キリスト教、ユダヤ教、イスラームを知るために』(2018年、平凡社新書)
※4 ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史──文明の構造と人類の幸福』(上)(2016年、河出書房新社)39頁