「現実的脅威の中で、どのように平和主義・平和憲法を貫いていくのか」、『まなぶ』(労働大学出版センター)増刊号「日米安保50年、これから」、2010年8月
■平和主義と正戦論
長崎や広島を訪ね、原爆がもたらした悲劇を見聞きした人は、理屈抜きに、そのむごさを感じ取ることでしょう。被爆者が残した遺品の数々は「生の不在」を見せつけます。この悲劇が起こらなければ、存在していたはずの命が、すさまじい熱と爆風によって、かき消されていったことを、多くの遺品は沈黙の中で雄弁に語り続けています。
こうした遺品を目の当たりにしたり、被爆者の方々から話を聞くことは、戦後の日本社会における平和教育の重要な一部を占めてきました。また、日本国憲法が平和主義をかかげているということは誰もが知っている事実です。
しかし、理想としての平和主義に疑問を投げかける声は、国内外に存在しています。国内では、武力を放棄する平和主義と、自衛隊の存在との矛盾が、しばしば指摘されてきました。憲法九条を改正し、自衛隊の存在を明文化すべきだという議論は繰り返し現れてきています。近年は、経済の立て直しの方が重要な政治課題とされているため、憲法改正論議は鳴りを潜めていますが、いずれ、国民的な議論の中で一定の合意を得ていく必要があるでしょう。
国際的には、平和主義に対する疑いの目は、国内よりはるかに厳しいものがあります。率直に言えば、平和主義は現実政治の中では、単なる理想論に過ぎないとして、議論の対象にすらならないことが多いのです。世界の国々の圧倒的多数が軍隊を持ち、軍事力によって国を守り、敵国の攻撃を抑止することができると考えています。この立場に立てば、すべての戦争が悪いわけではなく、平和の実現のためには、やむを得ず行わなければならない戦争もある、ということになります。このような考え方は「正戦論」と呼ばれてきましたが、世界のほとんどの国が正戦論の立場に立っていると言えます。また、国連も正戦論を基本としており、人道的な危機がある場合の武力介入を決議することができます。
日本ではにわかには信じがたいかもしれませんが、長崎と広島への原爆投下は、アメリカでは正戦論の模範的ケースと見なされてきました。原爆投下は、平和実現のために必要であったとして、アメリカ国内では正当化されてきたのです。最近では、原爆投下を非人道的行為として批判するアメリカ人も増えてきましたが、まだ多くのアメリカ人は原爆投下の正当性を信じています。
こうした背景もあって、原爆投下65年の今年の平和記念式(広島)に、多くの日本人が希望しているにもかかわらず、オバマ大統領が参列することはありませんでした。オバマ氏個人がどう考えているかは別として、アメリカ大統領として広島を訪問することは、アメリカが国家としての罪を認めることを連想させるので、国内世論の反発を配慮せざるを得ないという事情がそこにはあります。しかし、ルース駐日大使が出席したことは、両国の認識の違いを埋める(小さな)一歩になると考えられます。
アメリカに限らず、正戦論が基本となっている世界の中では、原則的にすべての武力を否定する平和主義は圧倒的に少数派です。この現実を見据えずに、ただ平和主義の重要性をやみくもに唱えるだけでは、少なくとも国際社会への影響力は期待できないでしょう。平和主義の意義を、原爆の悲劇の中から体験的・感覚的に学び取っていくだけでなく、それを国際社会に対し論理的に訴えていくことのできる思想的・政治的な基盤を鍛えていく必要があります。
■現実的な脅威への対応
国内外を問わず、平和主義が批判される際の最大のポイントは、平和主義では現実的な脅威に対応できない、というものです。では、現実的な脅威とは具体的に何を指すのでしょうか。国や地域によって違いがあることは言うまでもありませんが、現在、世界的に脅威の対象として見なされている国は、核開発を積極的に進め、軍事転用を危惧されているイランと北朝鮮でしょう。日本でも、北朝鮮脅威論が憲法修正論議と、しばしばセットになって論じられてきました。
地球温暖化の現実が広く認識されるようになってから、原子力発電に代表される核エネルギーは、環境に優しいエネルギーとして再評価され、今や世界的な「原子力ルネッサンス(復興)」が起こり、世界の各地で原発の建設が急ピッチで進められています。核エネルギーの民間利用を他国が制限することは、原則的にできません。しかし、核エネルギーやそれを扱う技術が、平和(民間)利用にも軍事利用にも使われる点に、核の難しさがあります。
特にアメリカでは、9・11同時多発テロ事件(01年)以降、核テロへの警戒が高まり、それが、オバマ大統領による昨年のプラハ演説での「核兵器のない世界」を目指すメッセージにもつながっています。動機はどうであれ、この演説によって核廃絶の気運が高まり、オバマ氏はノーベル平和賞を受賞することになりました。興味深かったのは、授賞式でのオバマ氏のスピーチは、正戦論を基軸にして組み立てられていたことです。一方で、ガンジーやキング牧師らと共に「非暴力の道徳的な力を信じる」と語りながらも、他方で、「平和の維持のため、戦争という手段には一定の役割がある」と語り、世界に存在する悪と戦うためには武力が必要であることを強調していました。
このノーベル平和賞スピーチに、核兵器根絶から、さらに戦争根絶のメッセージを期待していた少なからぬ日本人が、がっかりさせられたこともメディアで報じられていました。しかし、現実的な脅威に対し武力を用いてでも戦う準備のあることを示すことは、戦争を遂行している国の大統領としては当然のことと言えます。むしろ、オバマ氏が立脚する正戦論が、アメリカをはじめとする西洋世界にいかに強固に根付いているかを知り、それと対話可能な平和主義の論理を構築していくことが求められていることを、このスピーチから聞き取るべきでしょう。
長崎・広島の悲劇を体験した日本において発せられる核兵器廃絶の叫びと、オバマ氏が安全保障の視点から語る核兵器廃絶のメッセージの間には、確かに大きな距離があります。しかし、核兵器廃絶という目的を共有できるなら、平和主義か、正戦論かという二者択一に必要以上にこだわるのではなく、正戦論の論理を巧みに利用しながら、平和主義の目的を遂げていくくらいの賢明さが必要ではないでしょうか。
■平和構築のための平和主義
現実的な脅威が予想される状況の中で、それに目をつぶり、何もしないことがベストだと自己暗示をかけることが平和主義なのではありません。日本国憲法前文が「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と語るとき、国際社会における現実的問題を見据えることが前提とされています。そして、軍事的な脅威への対応に限定された消極的平和ではなく、「専制と隷従、圧迫と偏狭」の除去を目的とする積極的平和が、そこでは提示されています。
冷戦時代において、確かに、多くの国の軍隊は(仮想)敵国との戦いに備えていました。しかし、冷戦の終了後、たとえば、ヨーロッパの国々の軍隊は、ヨーロッパ域内からの軍事的脅威の喪失と共に、平和維持部隊としての機能を強めてきています。日本の自衛隊を憲法上どのように位置づけるかという議論はしばらく続くにしても、自衛隊を積極的平和を実現する、グローバルに活動可能な平和維持部隊として強化していくことは、結果的に、地に足の着いた平和主義の形成に寄与するのではないでしょうか。現実的な課題や脅威に対峙して、非暴力的に問題解決していく高度な対話能力と実践力は、私たち個人の日常レベルから国際レベルに至るまで、あらゆる場面において必要とされる平和主義の基盤となるべきなのです。
現実を直視しようとしない平和主義の理想論は、国防をおろそかにし、結果的に「国益」を損なうことになる、という批判があります。もし平和主義が、現状容認の非暴力思想に過ぎないのであれば、その批判には一理あると言えます。しかし、積極的な平和の構築を目指すのであれば、現状容認はあり得ません。むしろ、ガンジーの非暴力抵抗運動のように、不正義に対する徹底した異議申し立てが伴うはずです。
グローバル時代において、一国の内部だけで完結する「孤立した平和」は存在しません。一国の平和と、その国を取り巻く地域、さらにグローバル社会の平和とは密接な関係にあります。その意味で、平和構築を目指す平和主義は、日米安保が前提とする地域安全保障と区別されながらも、接点を有しています。
その接点において、軍事的な先制攻撃やテロ撲滅の論理をアメリカにならうべきでなないでしょう。むしろ、平和維持・平和構築による非暴力的国際貢献を積んでいけば、それは結果的に「国益」へとつながるだけでなく、そのようなモデルを示すことが、国際社会において日本に「名誉ある地位」を与えることになるのではないでしょうか。