「脳死・臓器移植に対するキリスト教の対応」(安居開講にあたって)、『宗報』2004年4月号、浄土真宗本願寺派
※「安居」について:本願寺では毎年7月に全国の僧侶が参集して教学の研鑽を行っており、安居(あんご)と呼ばれています。安居には、およそ360年の歴史があります。
脳死・臓器移植をめぐる議論は、世界的に見れば、ほぼ収束した感がある。もちろん、移植を必要とする人々に対し、臓器提供者(ドナー)の数が不足しているという状況を、どのように改善していくべきかという課題は、どの国にも多かれ少なかれ見られる。しかし、脳死を前提とした臓器移植に対し、倫理的な批判を加えることは、今ではほとんど見られれない。
では、脳死・臓器移植をなお問うことの意味は、一体どこにあるのだろうか。社会的には解決済みと見なされている問題の中に、単に「後追い」すること以上の意味を見いだすのは、ある意味で宗教界に課せられた課題であるとも言える。単なる回顧にとどまらない宗教的洞察が求められるゆえんである。
脳死・臓器移植によって提起された課題を析出するために、西洋キリスト教社会における議論を参照したい。脳死という概念の誕生、そして、それを前提とした臓器移植は、当初、キリスト教文化圏においても混乱を引き起こした。しかし、それなしには延命できな重篤の患者に対し、臓器を提供することは、「隣人愛」の一形態として積極的に評価されるようになっていった。
もちろん、こうした移行を比較的スムーズに進めた背景には、西欧における心身二元論がある。すなわち、肉体が滅んでも、魂(永遠の命)は存続するという考え方である。
翻って、仏教に対して次のような問いを立てることも可能であろう。キリスト教の場合、「隣人愛」が脳死・臓器移植を評価する一つの価値規範となったが、仏教の場合、評価のための基準点をどこに求めるべきなのか。また、西欧社会は一般的に心身二元論を前提とした人間観を共有しているが、仏教は、現代社会に対し、どのような人間観(身体観)を提示し得るのだろうか。
さらに、脳死・臓器移植の問題に端を発する倫理的課題として「自己決定権」に焦点を当てる。日本の臓器移植法は自己決定権を暗黙の前提にしており、それは死の定義にまで及んでいる。これらは、仏教にとっては、縁起の法を現代社会の中で、どのように語り得るか、という課題につながっていくはずである。また、脳死・臓器移植の論議の中では繰り返し「生命の尊厳」が言及されてきた。これは、広く国際社会で用いられている概念であるが、それを仏教はどのように理解し、また自らの言葉として語り得るのであろうか。
脳死・臓器移植をめぐる議論は、世界的に見れば、ほぼ収束した感がある。もちろん、移植を必要とする人々に対し、臓器提供者(ドナー)の数が不足しているという状況を、どのように改善していくべきかという課題は、どの国にも多かれ少なかれ見られる。しかし、脳死を前提とした臓器移植に対し、倫理的な批判を加えることは、今ではほとんど見られれない。
では、脳死・臓器移植をなお問うことの意味は、一体どこにあるのだろうか。社会的には解決済みと見なされている問題の中に、単に「後追い」すること以上の意味を見いだすのは、ある意味で宗教界に課せられた課題であるとも言える。単なる回顧にとどまらない宗教的洞察が求められるゆえんである。
脳死・臓器移植によって提起された課題を析出するために、西洋キリスト教社会における議論を参照したい。脳死という概念の誕生、そして、それを前提とした臓器移植は、当初、キリスト教文化圏においても混乱を引き起こした。しかし、それなしには延命できな重篤の患者に対し、臓器を提供することは、「隣人愛」の一形態として積極的に評価されるようになっていった。
もちろん、こうした移行を比較的スムーズに進めた背景には、西欧における心身二元論がある。すなわち、肉体が滅んでも、魂(永遠の命)は存続するという考え方である。
翻って、仏教に対して次のような問いを立てることも可能であろう。キリスト教の場合、「隣人愛」が脳死・臓器移植を評価する一つの価値規範となったが、仏教の場合、評価のための基準点をどこに求めるべきなのか。また、西欧社会は一般的に心身二元論を前提とした人間観を共有しているが、仏教は、現代社会に対し、どのような人間観(身体観)を提示し得るのだろうか。
さらに、脳死・臓器移植の問題に端を発する倫理的課題として「自己決定権」に焦点を当てる。日本の臓器移植法は自己決定権を暗黙の前提にしており、それは死の定義にまで及んでいる。これらは、仏教にとっては、縁起の法を現代社会の中で、どのように語り得るか、という課題につながっていくはずである。また、脳死・臓器移植の論議の中では繰り返し「生命の尊厳」が言及されてきた。これは、広く国際社会で用いられている概念であるが、それを仏教はどのように理解し、また自らの言葉として語り得るのであろうか。