「現代世界を生きる『私』―自己を映し出す鏡としての原理主義」、『Azest』(増進会出版社)2002年5月号
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■国際世界を取り巻く二つの潮流
世界のグローバル化ということが、経済の分野だけでなく、様々な領域において声高に論じられてきた。余分な障壁が取り除かれ、グローバル化が進展すれば、旧来の伝統から解放された「普遍主義」的な地平においてに、われわれは今までにない利便性や豊かさを享受することができると考えられている。その流れの中では、国家という単位ですら、より大きな共同体の中で急速に相対化されていく。
しかし、いったん中東問題や昨年の米国同時多発テロの背景に目をやれば、そうした世界のグローバル化とは一見対立するような潮流が世界を席巻していることにも気づかされる。民族への徹底したこだわり、それに連動するところの宗教回帰現象などである。それがもっとも先鋭化した形で現れているのが「原理主義」(ファンダメンタリズム)であると言える。
■原理主義とは何か
原理主義という言葉は、今日では「イスラーム原理主義」の形で使われることが多い。しかし、マスコミを通じて多用されるこの表現には、すでにある種の先入観が混入している。イスラームという宗教が原理主義的テロリストたちの母胎として否定的なレッテルを張られていることが少なくない。
原理主義という用語法は、もともとは1920年代に、キリスト教保守派が進化論や近代的な文献批評学と対決するために用いた「自称」であった。つまり、聖書に記されていることを「文字通り」に受け取ることを彼らの基本的態度として確認したのである。もちろん、異なる立場の者からすれば、原理主義が時代錯誤的で、かたくなな態度に思えるのは当然のことである。いずれにせよ、イラン革命(1979年)以降、(米国にとって)警戒すべきイスラーム運動に対し原理主義という言葉が転用されるようになり、原理主義といえば、イスラーム原理主義を指すようになった。そこには前近代的なニュアンスがあらかじめ刷り込まれている。それゆえ、イスラーム教徒にとって、イスラーム原理主義とは「他称」であるだけでなく「蔑称」なのである。それに対し、イスラーム世界では、イスラームの基本原則に立ち返る運動は「イスラーム(復興)主義」と呼ばれ、そこには社会制度の改善を求め、健全なイスラーム社会の建設を理想とする多様な運動体が含まれる。
■原理主義の魅力と落とし穴
基本・原点に立ち返る、という意味での原理主義は、本来、悪い意味を含んでいないどころか、どの分野においても常に銘記されるべき態度であるとすら言える。先に触れた、原理主義に注入された先入観を取り除いたとして、なお原理主義的態度に残る問題点とは何であろうか。これは決して宗教や政治にのみかかわる問題ではない。実は人生の随所に原理主義的誘惑は待ちかまえている。原理主義が放つ魅力の一つは、様々な価値観を一刀両断にし、一つのものの考え方を至上のものとすることであろう。たとえば、受験生にとって偏差値は原理主義的魅力を十分すぎるほどアピールしてくれる。本来、自分の人生設計を考えることは単純ではなく、いくら逡巡しても足りないほどの大仕事である。しかし、偏差値は、あれこれ悩む時間を大いに節約してくれる。その示す値に従って、自分の進路を微調整すれば事足りるからである。多様な選択可能性がある現代社会において、単一的な「ものさし」の存在は端的に「力」となるのだ。
■現代社会の中の終末思想
別の視点から原理主義の特徴を探ってみよう。キリスト教原理主義とイスラーム原理主義は一見異なるようであるが、実は興味深い共通点を持っている。それは終末思想に対する強い関心である。終末思想という言葉が日本で広く聞かれるようになったのは、オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995年)以降である。常軌を逸脱した彼らの行為を理解するためのキーワードとして、終末思想は紹介されてきた。オウムの場合、不正に満ちた世界を「終わらせる」ことは、世界を「救う」行為に他ならなかった。米国同時多発テロの犯人の心理的背景にアプローチしようとする多くの記事もまた、イスラームにおける殉教理解と合わせて、終末論的な来世観に言及していた。この世界はそのままの形では存続を許されないほどに虚偽や悪に満ちており、それに何らかの「終わり」をもたらすことは、彼らにとって「正義」に属する行為であった。
問題は宗教にとどまらない。ルーチン化された日常や、終わりの見えない繰り返しを耐えなければならない現代人(受験生はその代表であろう)にとって、その日常を強制的にぶち切る外的な力は魅力的なのである。「終わりなき日常」からの脱出へと駆り立てる終末論的な力は、現代社会の内部で醸成されている。教師や親といった現代の預言者(あるいは偽預言者か)によって示された人生成功の道から、時折、無性に脱線したくなるのにもそれなりの理由がある。
「風の谷のナウシカ」「新世紀エヴァンゲリオン」などの例を引くまでもなく、「世界の終わり」をその背景や前提としているアニメは数え切れない。カタストロフィー願望とでも呼ぶべき「終わり」への欲求は、わたしたちのすぐ身近にあふれている。
グローバル化の荒波の中で自己を見失うことなく、また、原理主義的な自己陶酔へと陥らないための二箇条を、老婆心ながら、最後に付け加えておく。①人生に単純な「答え」は存在しない。②人生の途上に「終わり」は存在しない。
この「当たり前さ」を徐々に味わってほしい。世の中の複雑さに耐えるタフネスを身につけ、たとえ第一志望の大学に合格しても、希望の就職を手にし、理想の結婚をしても、それで「終わり」(ゴール)としないビジョンを持ち続けてほしいと思う。
■国際世界を取り巻く二つの潮流
世界のグローバル化ということが、経済の分野だけでなく、様々な領域において声高に論じられてきた。余分な障壁が取り除かれ、グローバル化が進展すれば、旧来の伝統から解放された「普遍主義」的な地平においてに、われわれは今までにない利便性や豊かさを享受することができると考えられている。その流れの中では、国家という単位ですら、より大きな共同体の中で急速に相対化されていく。
しかし、いったん中東問題や昨年の米国同時多発テロの背景に目をやれば、そうした世界のグローバル化とは一見対立するような潮流が世界を席巻していることにも気づかされる。民族への徹底したこだわり、それに連動するところの宗教回帰現象などである。それがもっとも先鋭化した形で現れているのが「原理主義」(ファンダメンタリズム)であると言える。
■原理主義とは何か
原理主義という言葉は、今日では「イスラーム原理主義」の形で使われることが多い。しかし、マスコミを通じて多用されるこの表現には、すでにある種の先入観が混入している。イスラームという宗教が原理主義的テロリストたちの母胎として否定的なレッテルを張られていることが少なくない。
原理主義という用語法は、もともとは1920年代に、キリスト教保守派が進化論や近代的な文献批評学と対決するために用いた「自称」であった。つまり、聖書に記されていることを「文字通り」に受け取ることを彼らの基本的態度として確認したのである。もちろん、異なる立場の者からすれば、原理主義が時代錯誤的で、かたくなな態度に思えるのは当然のことである。いずれにせよ、イラン革命(1979年)以降、(米国にとって)警戒すべきイスラーム運動に対し原理主義という言葉が転用されるようになり、原理主義といえば、イスラーム原理主義を指すようになった。そこには前近代的なニュアンスがあらかじめ刷り込まれている。それゆえ、イスラーム教徒にとって、イスラーム原理主義とは「他称」であるだけでなく「蔑称」なのである。それに対し、イスラーム世界では、イスラームの基本原則に立ち返る運動は「イスラーム(復興)主義」と呼ばれ、そこには社会制度の改善を求め、健全なイスラーム社会の建設を理想とする多様な運動体が含まれる。
■原理主義の魅力と落とし穴
基本・原点に立ち返る、という意味での原理主義は、本来、悪い意味を含んでいないどころか、どの分野においても常に銘記されるべき態度であるとすら言える。先に触れた、原理主義に注入された先入観を取り除いたとして、なお原理主義的態度に残る問題点とは何であろうか。これは決して宗教や政治にのみかかわる問題ではない。実は人生の随所に原理主義的誘惑は待ちかまえている。原理主義が放つ魅力の一つは、様々な価値観を一刀両断にし、一つのものの考え方を至上のものとすることであろう。たとえば、受験生にとって偏差値は原理主義的魅力を十分すぎるほどアピールしてくれる。本来、自分の人生設計を考えることは単純ではなく、いくら逡巡しても足りないほどの大仕事である。しかし、偏差値は、あれこれ悩む時間を大いに節約してくれる。その示す値に従って、自分の進路を微調整すれば事足りるからである。多様な選択可能性がある現代社会において、単一的な「ものさし」の存在は端的に「力」となるのだ。
■現代社会の中の終末思想
別の視点から原理主義の特徴を探ってみよう。キリスト教原理主義とイスラーム原理主義は一見異なるようであるが、実は興味深い共通点を持っている。それは終末思想に対する強い関心である。終末思想という言葉が日本で広く聞かれるようになったのは、オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995年)以降である。常軌を逸脱した彼らの行為を理解するためのキーワードとして、終末思想は紹介されてきた。オウムの場合、不正に満ちた世界を「終わらせる」ことは、世界を「救う」行為に他ならなかった。米国同時多発テロの犯人の心理的背景にアプローチしようとする多くの記事もまた、イスラームにおける殉教理解と合わせて、終末論的な来世観に言及していた。この世界はそのままの形では存続を許されないほどに虚偽や悪に満ちており、それに何らかの「終わり」をもたらすことは、彼らにとって「正義」に属する行為であった。
問題は宗教にとどまらない。ルーチン化された日常や、終わりの見えない繰り返しを耐えなければならない現代人(受験生はその代表であろう)にとって、その日常を強制的にぶち切る外的な力は魅力的なのである。「終わりなき日常」からの脱出へと駆り立てる終末論的な力は、現代社会の内部で醸成されている。教師や親といった現代の預言者(あるいは偽預言者か)によって示された人生成功の道から、時折、無性に脱線したくなるのにもそれなりの理由がある。
「風の谷のナウシカ」「新世紀エヴァンゲリオン」などの例を引くまでもなく、「世界の終わり」をその背景や前提としているアニメは数え切れない。カタストロフィー願望とでも呼ぶべき「終わり」への欲求は、わたしたちのすぐ身近にあふれている。
グローバル化の荒波の中で自己を見失うことなく、また、原理主義的な自己陶酔へと陥らないための二箇条を、老婆心ながら、最後に付け加えておく。①人生に単純な「答え」は存在しない。②人生の途上に「終わり」は存在しない。
この「当たり前さ」を徐々に味わってほしい。世の中の複雑さに耐えるタフネスを身につけ、たとえ第一志望の大学に合格しても、希望の就職を手にし、理想の結婚をしても、それで「終わり」(ゴール)としないビジョンを持ち続けてほしいと思う。