姜 尚中「混成型共生社会の可能性」(関西セミナーハウス・修学院フォーラム 第1日目)
以下に、その講演のメモを記させていただきます。あくまでも、私の個人的なメモであることをご理解ください。切れ味鋭い講演内容でした。
「混成型共生社会の可能性」 姜 尚中
【講演要旨】
福島第一原発の事故収束のメドはたたず、日々、汚染水が海に流入し、環境汚染が深刻になっています。にもかかわらず、原発ビジネスや原発関連プラントの輸出の見直しは進まず、経済のシステムや私たちの暮らし、その価値の座標軸は、「3・11」以前にもどり、より「大」きく、より「速」く、より「高」く、といった「成長神話」に拍車がかかりつつあります。それによって押しつぶされていく、弱者や過疎地域、零細企業や地域経済の衰弱はますます深刻になり、精神を病む人々の数も増えています。これが、地震とツナミの大天災と原発事故という空前の人災を経験した社会の姿であるとすると、私たちは「3・11」からいったい何を学んだのでしょうか。講演では、より「大」きく、より「速」く、より「高」くと、より「小」さく、より「遅」く、より「低」くとが共存できる社会はないのか、私なりの考えを開陳してみたいと思います。
【講演メモ】
はじめに
「多文化共生」という言葉は、植民地をもった西欧の概念であるので、それとは異なる「混成」を使いたい。
1.「3・11」が問いかけるもの
2週間後に相馬市に入った。独特の「空気」を感じた。それを映像メディアは伝えることはできない。
関東大震災では7000名ほどの朝鮮半島出身者が虐殺されたと言われている。その後、日本は満州事変へと向かっていく。
3・11と関東大震災はアナロジカルな関係があるのだろうか。1)歴史は繰り返すのだろうか。2)新しい「共」(コモン)が生まれてくるのだろうか。
安倍政権成立以降、1)の方向に向かっているような徴候がある。特定秘密保護法案、日本版NSA(国家安全保障局)の成立、武器輸出3原則の空洞化。憲法改正の前に、なし崩し的に内実を変えていこうとしているように見える。
今年は、第一次世界大戦百周年にあたる。日本は第一次世界大戦によって漁夫の利を得た。今年、ヨーロッパでは、第一次世界大戦の意味が第二次世界大戦以上に問われている。
関東大震災以降の日本は戦争への道を歩むことになった。今日の中国の覇権主義的な動きに対し、日本も同様の道を行こうとしているのではないか。
北朝鮮における核の脅威。他方、日本は世界最大のプルトニウム量を有している。これらは単にエネルギー政策の問題ではなく、核開発の問題とかかわっているのではないか。核へのオプションをキープしておかなければならない、という考えが日本政府の中にあるのではないか。
2.ミナマタ・ヒロシマ・フクシマ
水俣病は、私のふるさと熊本で起こった。熊本学園大学の原田は「胎児からのメッセージとして」の中でミナマタ・ヒロシマ・ベトナムを合わせて語った。
1950年代、メチル水銀が人体にどのような影響を及ぼすか、わかっていなかった。食物連鎖の頂点にいる人間が、最終的に、濃縮された水銀を摂取せざるをえないことが徐々にわかってきた。
1973年、オイルショックの年に水俣患者は勝利を収めている。同じ年、シューマッハーが Small is Beautiful という本を著している。
政府は一定の期間の外で生じた症状に対して水俣病の認定をしていない。同じことがフクシマにも言えるのではないか。このように政府による線引きが平然と行われてきた。国家は、災害に際して、最小限の救済を考えようとする。日本の首脳部が賢明な判断をしていれば、原爆投下は避けられたかもしれない。
ミナマタとヒロシマには大きな類似点がある。すなわち、国家の無謬性、国家による線引き。現在の沖縄においても、同じ事が繰り返されているのではないか。国家の無謬性は「犠牲」のシステムを生み出している。
「大」「強」「高」「速」に象徴される富国強兵的な考え方がある。ヘイト・スピーチが吹き荒れている。こうした状況が現在の日本にあるのではないか。
3.先にあったことは、また後にもある
自民党の憲法改正案は、憲法破壊とも言える内容になっている。国防軍、国家への忠誠などが盛り込まれている。将来的には徴兵制もあり得るのではないか。
「純化」を求める傾向が強まっている。日本人であれ、という同調圧力が至るところで強まっている。地域と中央との格差も大きくなっている。階層間格差も進んでいる。
現在の国家主義は、戦前のものとは異なる。過去の国家主義は、地域のペイトリアティズム(鄕土心)とセットになっていたが、現在の国家主義は中央にのみ、つながっている。地域社会の劣化が進んでいる。地域社会では棄民化が起こっている。
東京オリンピックのために、東京の経済復興のために、東北からもたくさんの労働者が東京にやって来るだろう。今年は戦後69年。長い「戦後」という言葉が終わるかもしれない。では、ポスト「戦後」とは何なのか。いや、新たな1930年代に向かっているのではないか。
確かに新しい積極的な試みも始まっているが、それらが政治的な場にうねりとなって現れているとは到底言えない。
日本的なキリスト教、韓国的なキリスト教があるわけではない。私たちは国家のくびきから、どのように脱却できるのだろうか。国境のくびきをいかに小さくするかを真剣に考えなければならない。民主的な時代の中で罪を犯すことは、暗黒の時代の中で罪を起こすより、罪が大きい。
東アジアを含めた「混成型共生社会」を求める必要があるのではないか。
(質疑応答の中での補足説明)
日本と韓国は、自死の数が非常に多い。社会から脱落している人々が増えているという現実を、我々はどのように考えたらよいのか。毎年、3万人ほどの人々が死を選んでいる。宗教界は、こうした問題にこそ取り組むべきであるが、実際には十分ではない。こうした事態が進めば分極化がさらに進み、それをまとめるために、上から強力な国家主義が降りてくることになるのではないか。
中国の防空識別圏の拡大によって、ナショナリズムをあおるべきではない。
憲法に記された一切の武力の放棄の理念が反故にされつつある。「戦争ができる国」になることと、歴史の見直しはセットになっている。
A級戦犯をまつる靖国神社に首相が行くのはおかしい。それは、戦死者を単に祀っているのではなく「顕彰」している。それは靖国の歴史や遊就館を見れば明らかである。
愛国心について
私は熊本で生まれたので、熊本が世界で一番すばらしいと思っている。元来、「パトリ」は郷土愛を示している。愛郷心があれば、自然と愛国心が育つと安倍首相は言っているが、これは間違いである。国家主義と愛郷心とは異なる。
政府のやり方に反対することに「反日」というレッテルが貼られるようになった。愛郷心があるがゆえに、国に反対するということはあり得る。地域が疲弊していく状況の中で、国を愛せよ、というのはおかしい。
グローバル化とナショナリズムは一体化している。グローバル化が進むほど、ナショナリズムが大きくなる。しかし、それは愛郷心とは異なる。
プライベートでもパブリックでもない「コモン」をどのように育てるかが大事ではないか。