K-GURS 公開講演会:鷲田清一「待つこと、待たれること」
1月12日、大谷大学で、京都・宗教系大学院連合(K-GURS)の公開講演会を開催しました。会場は大谷大学で、講師として鷲田清一氏(大谷大学教授)を招き、「待つこと、待たれること」と題して、講演していただきました。鷲田先生は、現象学を専門とする哲学者ですが、難解な哲学用語を使わずに、問題の本質をわかりやすく解き明かしてくれるような著作を多数著されています。今日の講演も、とてもわかりやすく、来場者の共感を誘っていました。
以下に、私のメモをつけておきましたので、関心のある方はお読みください。
■鷲田清一「待つこと、待たれること」
【待つとは】
待つとは何か。たとえば、恋愛ではステージを一つあげるためのタイミングを待つ。待つことの切なさを味わう。 日本語では「待つ」に関する豊かな表現がある。待ちくたびれる、待ち明かす、など。詩歌の世界では、待つことに関する切なさを伝える表現がたくさんある。
しかし、今日では待つことができなくなってきた。あるいは、社会が「待ってくれない」社会になってきた。
私が子供の頃、テレビが普及し始めた。テレビは胸をときめかせる存在であった。かつては、テレビ番組の前に試験放送(テスト・パターン)の画面が出ていたが、それをじっと見ることができた。昔は、テレビを見ていても、じっと待つことができたが、今は、わずかなコマーシャルの時間でさえ、ザッピングしてしまう自分を見いだす。
昔は、伝達手段の中心は手紙であった。すぐに返信しても、やり取りに3日はかかった。今は電子メールの時代なので、数時間も待たされただけでも、イライラしてしまう。手紙は待つことの苦しさ、切なさを伝えるメディアであった。
待ち合わせに関しても同様の感情を感じることができた。人の到来を切なく待つ、じりじり待つという経験は、携帯電話の普及によって少なくなってきた。
【待てないことの問題】
待てないことの問題を感じることも増えてきた。たとえば、子育て。子どもに、あーしろ、こうしろ、と言っても、すぐには変わらない。本人が気づき、納得するまで、待つ必要がある。子育ては、待つことが仕事であると言ってもよい。どんな人間になるのかわからない。それを待つのが子育ての楽しみでもあった。しかし、今日では、こんな大人になってほしいという親の願望が強くなりすぎているので、そこからはずれることに親ががまんできなくなっている。親が待てなくなっている。すぐに修正しようとする。
もう一つの待てない例は、評価。今日では大学でも他でも、評価が何重にも行われるようになっている。無駄をなくすという背景があるにしても、評価の偏重が、本末転倒になってしまっている感がある。仕事の質を上げるために評価するのに、評価が仕事を束縛するようになっている。大学でも、評価を意識するあまり、結果として研究がおろそかになっている。論文数が減っている。
クリエイティブな仕事は、多くの場合、緻密な計画から生まれるわけではない。芸術も学問においても同じ。想像もしていなかったようなことと出会うことによって、芸術も学問も進展する。一般的な評価制度は、結果を待ってくれない。待つことが、どんどん短期的なものになっている。
【期待せずに待つ】
待つことは何もしていないことと同じ、というイメージがある。しかし、実際には待つことにはエネルギーがいる。
第一段階として「待つ」ことと「期待する」ことを区別する必要がある。期待しないで待つことの大切さを理解しなければならない。期待して待つことの問題性を示す例として、巌流島の決闘における佐々木小次郎をあげることができる。武蔵は、待たせることで勝った。小次郎は武蔵の(約束時間を大幅に超過した)到着を待つ中で緊張と落胆を繰り返し、体ががちがちになってしまった。期待して待つことは、視野を狭めてしまう危険性がある。
期待せずに待つ、あるいは、待つということを意識しないで待つことが大切。子育ての楽しみは、元来、先がわからないことにあった。しかし、親が子どもに対する期待をエスカレートさせると、子どもは負担に思うだけ。待ってる、というメッセージは相手に負担を感じさせる。待っているという姿を相手に押しつけるべきではない。期待せずに待つ、というのは忍耐のいること。結局、待ちぼうけであった、ということも人生の中には多数あるはず。人生の年輪とは、そういうものではないか。
昔の人は、待つことをしんどいこととは思わなかった。第一次産業か中心であった時代においては、待つことが仕事であった。農業や漁業はその典型。醸造業でも、じっくりとお酒を発酵させることが仕事。
しかし近代の産業社会では、生産が価値の中心となった。より短期間に、より多くのものを作り、売ることが豊かさにつながると考える。プロスペクティブな(前を見る)姿勢がビジネスの中心となる。
【待たれる】
待つことなく待つ、とはどいうことか。これは現代社会にとっては難しいことに違いない。太宰治が語った言葉に次のようなものがある。旅館で豪遊したあと支払いを求めて探してきた友人に語った言葉。「待つ身がつらいかね。待たせる身がつらいかね。」
太宰の言葉はあきれるほどひどいものであるが、この言葉によって、私は誰かに待たれているかもしれない、ということを気づかされた。
【就職活動】
近年の就職活動では、どのような仕事が自分に合っているかどうかを考える。いったん就職しても離職率が高い。自分が何をしたいかがわからないで悩む。若者は何をしたいか、だけではなく、何を期待されているのかを、もっと考えるべきではないか。
キリスト教文化圏では「天職」(calling, Beruf)という言葉がある。自分が呼び出されている、という感覚。キリスト教圏では、それは神によって呼び出されているという意味を持つ。私は待たれている、と言い換えることもできる。
【待つことから待たれることへの転換】
オバマ大統領は「私たちは新しい責任の時代にある」と語った。責任は、求められたときに応えることのできる姿勢を意味している。責任とは、人に待たれていることとして言い換えることができる。
アウシュヴィッツを生き延びたフランクルは、自分を待ってくれる人がいる人の中に生き延びた人が多かったと語っている。
「待つ」から「待たれる」への転換が起こる場所が宗教施設ではないか。「待つ」は言語学的には「祭る」と関係がある可能性がある。捧げものをして神様がやってくるのを待つ。「待つこと」が宗教の根本にあるのではないか。