CISMOR講演会「中東関係のはじまり──英国委任統治パレスチナと日本」
2月26日、石田訓夫先生を講師として「中東関係のはじまり──英国委任統治パレスチナと日本」というタイトルのCISMOR公開講演会を開催しました。
中東関係というタイトルを見ると、どうしても、現在、中東で起きている抗議運動を連想してしまいがちですが、この講演では現代ではなく、現在の中東関係を規定した、その初期の頃の事情が、日本の関わりも含めて、論じられました。
英国がパレスチナ問題に決定的な役割を果たしたことはよく知られていますが、その時代における日本外交については、この講演で多くのことを学ぶことができました。
講師の石田先生は、外務省における長年の経験を踏まえながら、講演後の質疑応答にも丁寧に答えてくださり、満足度の高い講演会となりました。
この後、場所を移し、研究会を行い、多数参加してくださった大学院生の方たちからも積極的な質問がなされ、さらに議論を深めることができました。
講演のメモをつけておきますので、関心のある方はご覧ください。多少不正確な記述があるかもしれませんが、その点は、メモということであらかじめご理解ください。
「中東関係の始まり──英国委任統治パレスチナと日本」
石田訓夫(南山大学外国語学部 客員教授・CISMOR共同研究員)
1.第一次世界大戦との日本のユダヤ問題への関心
バルフォア宣言(1917年)以降、パレスチナはイギリスの統治に組み込まれていく。こうした歴史プロセスを見ると、日本とはほとんど関係ないと思うかもしれないが、果たしてそうであろうか。20世紀前半における日本と中東の関係はこれまで十分に理解されてこなかった。
第一次世界大戦の結果、日本はアジアの盟主としての位置を確立する。
バルフォア宣言が出されたのは、イギリスが戦争遂行のためユダヤ人の協力を得る必要があったため。フランス、イギリス等の承認のあと、日本も承認した。ユダヤ問題について、日本も欧米諸国と足並みをそろえる必要があると考えた。しかし、ユダヤ問題について、当時、十分な理解があったわけではない。
近代の国際問題、経済問題を考えるときに、ユダヤ問題が関係してくることを日本も徐々に認識していった。
日本政府は上海を中心にシオニストたちと接触していた。当時、シオニストの本部はロンドンにあった。日本の外務省は、1920年代、シオニストたちに対して丁寧な対応をしている。それは、大正時代の国際協調外交が主流をなしていた時代でもあった。
2.英国委任統治パレスチナの発展
英国委任統治前のパレスチナは、近代化とはほど遠い状態にあった。1910年代、車は1台しかなかった。第一次世界大戦後、近代化が急速に進む。鉄道を整備する。それに対し、道路網の整備は進まなかった。テルアビブとハイファをつなぐ幹線道路が完成したのは1930年代。
3.英国委任統治パレスチナへの日本の関心
ポートサイド(エジプト)の日本領事館から時々、パレスチナへと出張者を派遣していた。それには、日本人のパレスチナ訪問者が増えてきたという事情も関係している。経済が活性化するにつれて、ビジネスのチャンスも増えてきた。日本からは当時、主として綿布を輸出していた。パレスチナに日本の利益を代表してもらう、現地の名誉領事を置くことが考えられ、少しずつ関係が進展していった。
1920年代の後半になると移民の流入も落ち着いてくる。移民の多数派は国家建設を急ぐことはなかった。
4.パレスチナの宗教問題と日本
1929年、嘆きの壁で、アラブ人とユダヤ移民の間で衝突が起こった。嘆きの壁の前での祈りの権利をめぐって、ムスリムとユダヤ人の間で衝突が起こり、これが他の地域にも飛び火した。
この時期以降、ポートサイドの日本領事館も、パレスチナにおける宗教対立、民族対立の問題を認識し始める。日本は貿易の安定を重んじたので、基本的に、どちらの側にも与さない姿勢をとった。
5.日本と英国委任統治パレスチナ
1929年、世界史的には大恐慌の年であった。ニューヨークで株が大暴落し、これが国際関係にも大きな影響を及ぼすことになった。1931年、日本は満州事変を起こす。欧米では対日批判が強くなる。1933年、日本は国際連盟から脱退。それ以降、政治と経済の両面で、日本は国際社会から孤立していく。そのような中で、日本とパレスチナとの依存関係を見ることができる。
ユダヤ人の中でも、満州事変以降の日本に対して批判的な人が大半であったが、中には、日本の立場を擁護するような人もあった。日本は国際世論に訴え、味方につける必要があると主張する人もいた。
1930年代、パレスチナは経済力を増し、繁栄の時代を迎えた。最大の要因は、ヨーロッパ情勢に関わっている。ヨーロッパでユダヤ人差別が起こり、裕福なユダヤ人たちがパレスチナに移る。都市化に伴い、東ヨーロッパからのユダヤ人に対する住宅建設、投資が活発化した。また、ヨーロッパでの食文化の変化に伴い、ユダヤ人が作っていた野菜や柑橘類のヨーロッパへの輸出が伸びる。
1930年代の経済は、保護主義的なものになり、規模が縮小していく。エジプトでは、イギリス産と日本産の綿布が競い合っていた。日本とイギリスの関係は緊張状態に入る。1935年、両国の経済摩擦を避けるための会議がロンドンで開かれたが、合意に至ることはできなかった。
世界の経済状態にかかわらず、1930年代のパレスチナは経済的繁栄を謳歌していた。結果的に、世界中から安価なダンピング商品がパレスチナに流入した。
孤立する日本は東アジアの市場から閉め出されていったので、日本の輸出は、関税の低いパレスチナに流れていった。パレスチナにおける輸入量の中で、日本は第一位を占めるようになる。
6.パレスチナ日本名誉領事
ハイファが最新の港湾設備を整えていく。トランスヨルダン、イラク等にもつながる陸上輸送路の起点としても機能していく。通商上の重要性をハイファが帯びるようになり、日本は名誉領事の設置を考える。しかし、誰が代表して日本の権益を確保できるのか、という問題にぶつかる。
ユダヤ人の候補者の中には、テルアビブの市長リーゼンコフの名前があがっていた。
当時、名誉領事を選ぶ際の注意が次のように報告されていた。アラブ人を選ぶと、これまでの慎重な日本の姿勢を崩し、ユダヤ人から反発がある可能性がある。ユダヤ人についても同様の問題がある。イギリス人か、第三者的な外国人を選ぶしかない。名誉領事は、イギリスとも良好につきあていく必要がある。結果的に、イギリス委任統治政府に、名誉領事の選定をゆだねることになる。イギリスとの繊維摩擦を解消したいという思いもあった。5ヶ月後、イギリスはイギリス国籍のビジネスマンを名誉領事として推薦。1935年4月、日本の外務省は、イギリスから推薦された人物ジョリー(当時30歳)を名誉領事として承認する。
こうした模索の中には、戦後のアラブ・イスラエル紛争に対する、なるべく中立を保とうとする日本の立場の原型を見ることができる。
ジョリーがどのような仕事をしたのか、という点については、ほとんど記録が残っていない。ジョリー選定に対しては、ユダヤ人からの反発もあった。ユダヤ人は外交上の代表権を行使することができないという法律論をあげて、イギリス委任統治政府は、ユダヤ人からの名誉総領事自薦の提案を断っている。
日本にとっては、対欧米政策の補強策として、パレスチナへの対応があった。国際的に孤立していく中でも、英米との決定的な破局を避けたかったため、イギリス委任統治政府に対し友好的な態度を示した。