コルモス基調講演2:稲垣恭子「師弟教育の現在──人生の師と学校の先生と」
稲垣恭子先生(京都大学大学院・教育学研究科教授)による講演「師弟教育の現在──人生の師と学校の先生と」のメモを以下につけておきます。師弟関係の変化について語っておられます。普段、あまり意識しませんが、学生との関係も、歴史的に見れば大きく変わってきたのだな、ということを再認識させられました。「三尺下がって師の影を踏まず」といった伝統は、もはや神話の世界に属しているかのような激変ぶりです。
1.教師から教員へ
「師」の消失。自動車教習所の教官に対して人生相談をしないように、学校での先生からは知識を学ぶだけ。
悩み事を相談する相手:日本では友達、母親が多い。先生に相談する人は少ない。
「教師」という呼び方から「教員へ」。1870年代の後半くらいから。高校への進学率がほぼ100パーセントとなった時代。教育の大衆化の時代となってから、教師も教育サービスに従事する教員となっていく。
新しい人生の師を求める。カリスマ〜等、メディアに出てくる人々を追いかける。インターネットのブログやツイッターを介して接触することができる。直接会うことはないが、返事をもらうことができる。様々なメディアを通じて、新しい人生の師を求める傾向は大きくなっているのではないか。それに対して、学校の先生との関係はツール的なものになっており、こうした二極化を現代の師弟関係の特徴と考えることができる。
2.「ツール」教員と「ツール」学生
教育の大衆化に伴い、師弟関係が崩れ、役割関係が強化されていく。
市場原理が学校教育の現場に入り込み、役割関係すら揺らいでいる。個人が必要なものを必要に応じて購入する。そのサービスを学校が提供する。役割関係が崩れ、お互いを「ツール」として利用するドライな関係になっていく。
役割関係が成り立っている間は、いやだけれども従わなければならないという規範意識がある。しかし、市場化、個人化が進んでいくと、必要なものをお互い要求する関係になっていく。「顧客」である学生に対して、サービスを効率的に提供する教師という関係に。
看護師やフライト・アテンダントのように心地よいサービスを提供する「感情労働者」のような役割を、現代の教師は負っている。
3.私淑と人生の師
メディアを通じてあこがれる人を尊敬する。身近な指導教授を尊敬する人は、ほとんどいない。昔のスタイル言えば「私淑」。
孟子が(すでに亡くなった)孔子に学ぶ。一方向的な師弟関係を「私淑」と呼ぶようになった。
『私の履歴書』(日経新聞)の中にどれくらい「人生の師」が出てきているかを調査した。学校の先生については平均5名、人生の師は一名。宗教者は「人生の師」の2割程度を占める。直接的な場合もあれば、間接的にものもある。
私淑のスタイル
・タイプⅠ:疑似師弟関係としての私淑
例:夏目漱石『こころ』の「先生」と「私」、小島政次郎と永井荷風(小島は永井の講義を聞くために慶応に入学したが、永井は慶応を去り、すれ違う)
・タイプⅡ:積極的選択としての私淑
師事しようと思えばできるが、あえて私淑を選ぶような例。
例:阿部次郎『三太郎の日記』:読書を通じた私淑のすすめ。当時の教養主義の中心的な著作。読書による人格形成。阿部は内村鑑三に心酔したが、あえて内村のもとでは学ぼうとしなかった。私淑であれば、師の世界を自分に引き寄せて、安全圏を確保することができる。
・タイプⅢ:ニューメディアとシシュク
バーチャルな師弟関係、シシュク共同体
おもしろさ、新しさ、わかりやすさが、一般のアカデミズムよりも重視される。1980年代以降、タイプⅢの私淑層が拡大していく。簡単に先生と並ぶことができるという浮上感がある。短期に知的最先端に自分を位置づけることができる。
双方向性も魅力の一つ。私淑といっても半ば公化している(公淑?)。
4.師弟関係の4類型
師弟関係の「原型」が「ツール」と「私淑」に二極化しているのではないか。
5.アカデミック・コミュニティのゆくえ
「我話題になる、ゆえに我あり」(Z. バウマン『個人化社会』2008年)
6.現代における「人生の師」
メディアを通じて現れる有名人が「人生の師」とされる。「人生の師」を求めたいという志向性は現代においても存在している。
メディアにおけるカリスマは短命である傾向がある。便利で居心地のよい関係である一方、延々と、それを消費していかなければならない。