Haiti and Theodicy
ハイチの地震とその被害の大きさについては、世界的に報道されていますが、アメリカでも大きな関心が向けられ、また、政府レベルでの積極的な支援対策が講じられています。
先週土曜日に、私が所属する The Orfalea Center for Global & International Studies が主催した Latin America にフォーカスした国際ワークショップがありましたが、そこでも Haiti に直接に関わっている NGOや研究者の方々が参加していて、実に生々しい報告を聞くことになりました。
アメリカで話題になったニュースの一つにTelevangelist のパット・ロバートソン氏の天罰発言がありました。以下、AFPニュース記事冒頭からの引用。
過激な発言で知られる米テレビ伝道師パット・ロバートソン(Pat Robertson)師(80)が、ハイチで12日起きた大地震について、「悪魔と契約したことに対する神罰だ」と発言し、物議を醸している。ホワイトハウス(Whitehouse)は14日、発言について「まったくバカげている」とのコメントを出した。
ロバートソン師は13日、自身が運営する米キリスト教系テレビ局「クリスチャン・ブロードキャスティング・ネットワーク(Christian Broadcasting Network、CBN)」の番組で、「ハイチはかつて、フランスに支配されていた。そこで人びとは悪魔と契約したのだ」と述べた。
詳しくは、次のリンクをご覧ください(日本語記事)。
地震などの自然災害を「神の罰」と考えることは、昔はどの世界にもありました。落雷を恐れた人々は、それを天上における神々の喧嘩と考えたり、地震も神の怒りの表現として受けとめたわけです。大気中の放電の論理や、地層のプレートテクトニクスを知っている現代人は、通常、そうした自然現象(天災)を神の仕業と考えることはしません。
しかし同時に、どんなに科学が発達した時代であっても、人の不幸や悪の問題が存在しています。神が存在するなら、なぜ地上に、こんな不幸や悪が許されるのか、という問いは、大昔から存在しており、ヘブライ語聖書(旧約聖書)でも、ヨブ記などにおいて、その問題が典型的に扱われています。
こうしたテーマを神学の世界では「神義論(theodicy)」と呼びます。先のパット・ロバートソン氏の天罰発言も、現代の神義論解釈の(悪しき)一例と言ってよいでしょう。もっとも、ロバートソン氏が特別におかしいわけではなく、彼に共感する人々が少なからず存在するということを考えるなら、神義論の問題は決して一部の人々だけの問題ではなくなります。
神義論を単純化して考えると、悪い奴は相応の罰を受けて当然だ、ということになります。これは、現在進行中の「テロに対する戦い」を正当化する論理にもなりますし、また、米国や日本で現存する死刑制度の擁護にもつながっていきます。
というわけで、パット・ロバートソン氏の発言を深読みしていくと、いろいろと考えさせられることがあるのですが、こうした問題が出てきたときに、私の頭にいつも思い浮かぶのは、ドイツの神学者ディートリヒ・ボンヘッファーの次の言葉です。長くなりますが、引用しておきます(『ボンヘッファー獄中書簡集』より)。ロバートソン氏とのコントラストを味わってみてください。
宗教的な人間は、人間の認識が(しばしば考えることをなまけるために)行きづまるか、人間の諸能力が役立たなくなると、神について語る。――しかしそれは、もともといつも、急場を救う機械仕掛ノ神(deus ex machina)だ。それを彼らは解決しがたい問題の見せかけの解決のためか、もしくは、人間が失敗した時の力として、したがって常に人間の弱さを食いものにしながら、つまり人間の限界の所で登場させる。したがって、そういうことが必要であり続けるのは、ただ人間が自分の力で限界をさらにいくらか押し広げて、機械仕掛ノ神が余計なものとなるまでに限る。だが、およそ人間の限界について語ることが、僕には疑問になってきたのだ。(人間は、今日もうほとんど死を恐れなくなったし、罪もほとんど理解しなくなった。だとすれば、死や罪はなお真の限界であろうか。)われわれは、そうすることによってびくびくしながら神のための場所をあけておこうとしていたにすぎないように、僕には思われてならない。――僕は、限界においてではなく真唯中において、弱さにおいてではなくて力において、したがって死や罪を契機にしてではなく生において、また人間の善において神について語りたいのだ。限界にぶつかった時は沈黙して、解決し難いことは未解決のままにして置くことがずっと良いように思われる。