講演「イスラーム社会におけるインドネシアのキリスト教」
2月13日、ジャカルタ神学大学学長のジャン・S・アリトナン教授による講演会が行われました(神学部・神学研究科とCISMORの共催)。
世界最大のムスリム人口を有するインドネシアには、10パーセントものクリスチャンがいます。イスラームとキリスト教の関係を軸にして、インドネシアの歴史と今日の問題をコンパクトに整理した講演でした。
講演に引き続き、クローズドなワークショップも行い、そこでは活発な質疑応答がなされました。右の写真はワークショップの際のものです。華やかな衣装も印象的でした。
今日も、MacBook Air を会場に持ち込み、がんばってメモしましたので、関心のある方はご覧ください。厳密なものではありませんので、その点はご寛容にお願いします。
■神学部・神学研究科 公開講演会(2009年2月13日、神学館礼拝堂)
ジャン・S・アリトナン「イスラム社会におけるインドネシアのキリスト教」
インドネシア:東西7000キロの広がり、2億4千万人の人口のうち、10パーセントがクリスチャン
1. 歴史的背景
イスラームとキリスト教の出会いを話すとき、少なくとも16世紀の初頭までさかのぼる必要がある。
ネストリア派の教会はすでに7世紀の頃からインドネシアで活動していた。しかし、11〜12世紀のことにその伝統は途絶えている。したがって、16世紀初頭から考える必要がある。
この十年の間、インドネシアにおけるイスラームとキリスト教の衝突が伝えられてきた。なぜ、このような衝突が起こるのか。
1942年から1945年、日本がインドネシアを支配。イスラームとの関係だけでなく、日本のクリスチャンとインドネシアのクリスチャンとの間に特殊な関係があった。
1)ポルトガル、スペインの支配の時代(1511-1799年)
西洋の国々の進出共に、キリスト教の宣教師がインドネシアにやってきた。ヌサンタラ(当時のインドネシア)には、11世紀からムスリムが住んでいた。十字軍の経験は、その雰囲気をインドネシアにまでもたらすことになった。
西洋の帝国主義とイスラームとの関係構築の努力はなされていた。しかし、様々な事件が起こった。
マルクにおける事件(1570年):スルタンが殺される。この事件が今も言及される。
バンダ・ネイラでのムスリム住民の殺害(1621年):オランダ東インド会社によって多数の住民が殺される。この事件の報復として、近年、島の教会が襲われた。
2)オランダ統治下(1800-1942年)
オランダ政府は、宗教に関しては中立的な立場をとると表明していた。しかし、イスラームの王国は、オランダの植民地支配に対し抵抗を示した。特に西スマトラやジャワなどで。オランダは敵と見なされた。
ムスリム以外で、まだキリスト教になっていない人々に対しての布教活動をオランダ政府は支援した。キリスト教化が植民地政策の基盤になると考えた。クリスチャンたちは、ムスリムと比べて、植民地政府に従順であった。植民地政府は、イスラームや現地の言語に関する専門家を政府のアドバイザーとして雇った。イスラーム問題局を作り、これらの専門家を据えた。宗教や文化的な側面を阻害してはならないというアドバイスがなされた。しかし、政治的な活動に関しては制限されなければならないと考えた。この提言に基本的に従ったが、植民地政府は、イスラームが生活のすべてに関わる宗教であることを見逃していたのではないか。
20世紀前半に、様々なイスラーム組織が作られた。キリスト教の中には、オランダ政府に対する支持を続けたものが多かったが、中には、オランダからの独立活動に関わる組織もあった。
3)日本の統治、独立革命(1942-1949年)
当初、日本政府はイスラームを支持する姿勢をとった。同じことは、他の東南アジア諸国においても見られた。1938年、イスラームの会議や博覧会が日本で開催された。大日本回教協会が設立。インドネシアの代表者を日本に招待している。このような準備があったため、日本軍がインドネシアにやってきたときには歓迎された。しかし、1年もたたないうちに、日本の支配がオランダ以上に厳しいことに人々は気づくことになった。クリスチャンの中にも、ムスリムの中にも日本に対し批判的な意見をもった人々はいた。彼らはインドネシアの独立を求めていた。
終戦直前、独立準備調査会が作られた。世俗派、ムスリム、クリスチャンたちが加わっていた。パンチャシラ5原則を制定した。これはジャカルタ憲章に含まれた。ムスリムにはイスラーム法を遵守する義務があるという条文を巡って議論があった。しかし、独立の際、スカルノは、この条文(7号)を削除することをムスリムに求めた。いつかこの条文を回復することをスカルノは約束したが、いまだその約束が果たされていないことを現代のムスリムが批判することもある。
4)旧秩序の時代(1950−1965年)
ダルル・イスラームなど、シャリアーを憲法に入れようとする人々はいる。彼らは、インドネシアをイスラーム国とすることを目指している。
第1回の総選挙は1955年に行われたが、イスラーム政党は勝利することができなかった。世俗政党が勝利。
5)新秩序の時代(1966-1998年):スハルトの時代
少数派であるクリスチャンたちは、世俗派の人々と協力関係を持った。
スハルトは、政府の要職をクリスチャンに与えるなど寛容な政策をとったが、同時にキリスト教の影響力の拡大を制限する政策も採られた。晩年、スハルトはムスリムを積極的に支援する。
教会が破壊されたり、クリスチャンが殺害される事件が頻発するようになり、この混乱がスハルト政権の終わりをもたらすことになった。
6)「革新」の時代(1998-2008年)
相次ぐ政権の交代。多数の紛争。憲法を巡る論争も続く。ジャカルタ憲章に第7号(シャリアーの遵守)を入れるかどうかという議論も続いている。
2.今日の問題
1)教会の建物の破壊について
ムスリムとクリスチャンの衝突を防ぐための新しい規制ができる。新しい宗教施設を作るためには一定の条件を満たす必要がある。インドネシアには324の教会組織があり、それぞれが建築物を建てるため、結果的に、モスクが一つしかないような町に20の教会があるという場合もある。問題の一部はキリスト教が引き起こしていると言える。
2)イスラーム法
インドネシアは世界最大のムスリム国家であるため、インドネシアを憲法のレベルでもイスラーム国家としたいと考える人々は多数いる。
現在の婚姻法では、異なる宗教間の結婚は認められていない。
ポルノグラフィー禁止法:これもイスラーム法からの理解で定義されている。たとえば、ビキニもポルノとされる。フェミニストや、クリスチャンの団体は、ポルノグラフィー禁止法に反対している。政府はプライベートな領域にまで関与すべきではないという反対意見もある。
3)文学・メディアにおける衝突
改宗活動は許容されるべきかどうかという議論がある。
4)社会におけるクリスチャンの役割
5)宗教間対話
結語
イスラームとキリスト教の関係改善の希望は、ある一定の条件の下で可能である。歴史を学び、双方において過ちをみとめる必要がある。「多元主義」の理解を豊かにしなければならない。アジア的な神学のパラダイムは二者択一的なものではなく、双方を生かすことにある。