KOHARA BLOG

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リベラル・デモクラシーとイスラミック・デモクラシー

 10月に行われたCISMOR国際ワークショップの校正があがってきたので、自分の発言をあらためて確認することができました。この国際ワークショップの報告書は、英語、日本語、アラビア語で半年後くらいに刊行されることになりますが、ちょっと気になったポイントの一部をここでは紹介しておきたいと思います。
 第2セッションでヴァーエズィ先生(イラン)がリベラル・デモクラシーイスラミック・デモクラシーを対比的に説明されたのですが、それに対する私の質問は以下のようなものでした(ちょっと長い!)。

第2セッション「アメリカの対イラン外交を検証する」

(小原) ヴァーエズィ先生のお話の中で、一貫してリベラル・デモクラシーとイスラミック・デモクラシーが対比されてきたと思います。もちろん、両者の共通項が認識された上で、両者に大きな違いがあるということだったと思います。
 Islamic fundamental rules and valuesといった表現も繰り返し出てきたのですが、私の問いの一つは、そのようにファンダメンタルなバリューというものが、イスラーム世界の中でどの程度、本当に共有できているのかということです。具体的に言えば、シーア派とスンナ派の間で本当に共有できるようなイスラミックバリューというものが、確かな形で存在するのかどうかということを確認したいと思います。
 なぜこういうことを問うかというと、これまでイスラミックバリューが特にアメリカのリベラル・デモクラシーを意識して語られてきましたが、私はそういう文脈で語るより、むしろイスラーム内部の問題を解決するためのメカニズムとしてイスラミック・デモクラシーが考えられないだろうかと思うからです。現在、イラクでスンナ派とシーア派のグループが戦っています。これはかつてヨーロッパで、プロテスタントとカトリックが互いに激しく敵対したことに似ています。ヨーロッパ社会はそうした戦いの果てに、寛容や政教分離という考え方を獲得していきました。同じようなことをイスラームはできるのかということです。これはまさに世界の人々が注目している事柄です。スンナ派とシーア派の戦いを収めることができるようなイスラミック・デモクラシーの原理が見つかれば、それは本当に意味があると思います。ですから、見るべきなのはアメリカのリベラル・デモクラシーではなくて、イスラーム自体の内部の問題を解決するようなイスラミック・デモクラシーではないでしょうか。これが、私が一番問いたいことの一つです。
 イスラミック・デモクラシーをイランや中東において語ることには一定の意味があると思います。つまり、イスラーム教徒がマジョリティである国々でそれを語ることには、統合原理として意味があります。しかし、同じことをヨーロッパで主張すると、違う意味を持つことになります。ヨーロッパにおいて、今、イスラームはキリスト教に次ぐ第二の宗教ですが、まだマイノリティです。そのような状況の中で、西洋のデモクラシーと違うものとしてイスラミック・デモクラシーがあるのだと強く主張してしまうと、問題を解決するどころか、今あるさまざまな問題をさらに悪化させてしまう火種にもなりかねません。したがって、イスラミック・デモクラシーがどのような文脈の中で語られるのか、中東で語られるのか、ヨーロッパで語られるのかによって、それが果たす意味は非常に大きく変わるということです。この点を、私たちは注意しなければならないと思います。

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