なぜ翻訳したのか
『新約聖書への神学的入門』送付のやり取りの中で、いくつか質問をいただきました。その一つに、なぜ組織神学者のわたしが、聖書学の本を翻訳したのか、というものがありました。
神学になじみのない人にとっては「組織神学」という言葉自体がわかりにくと思います。神学は長い歴史を持っており、その中で、当然、体系化されたり、細分化されたりしてきました。プロテスタント神学の場合、ドイツで形作られた学問体系が現在に至るまで、影響を与えています。聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学といった分類もその名残です。
組織神学は、簡単に言えば、キリスト教の思想や教義を扱う分野になります。
神学の内容が細分化され、それが日本でも受容されてきましたので、それぞれの分野が独立性を持ってきました。それは専門性の高さを保証すると同時に、「たこ壺」化してきた側面もあります。つまり、専門分野間の連携が失われてきた、ということです。
欧米であれば、それでも十分に学問市場が成り立ちますが、キリスト教や神学ということすら十分に理解されていない日本で、専門性に閉じこもるのは、あまり意味がないとわたしは考えています。
そういう思いから、わたしは組織神学をベースにしながらも、あまり専門性の違いを気にすることなく研究をしてきました。聖書学関係の本をたくさん読み、それに関心を持ち続けてきたことも、わたしにとっては「越境的」遊び心の表れです。
遊び心ですから、本当の専門家ほど、専門的知識は持っていません。しかし、あれこれの領域を飛び歩く中で、お宝を発見する醍醐味もあります。
そういうわけで、本来わたしの直接的な専門ではない聖書学の分野で、非常に気に入った本、その意味では、できるだけ多くの人にも読んでもらいたいと思った本に出会ったので、専門違いにもかかわらず翻訳することになった次第です。
最初にドイツ語の原書を読んだときは、わかりやすい本だ、と思い、これなら翻訳もそれほど苦労しないだろう、と思いました。ところが、わかりやすい日本語にするためには、想像以上の苦労があり、またその分野を専門としない自信のなさもあって、結果的には、かなり(!)苦労しました。
というわけで、『新約聖書への神学的入門』がわたしにとって、「最初」の翻訳にして、おそらく「最後」の翻訳となったのです。(^_^;)