小原克博『一神教とは何か──キリスト教、ユダヤ教、イスラームを知るために』平凡社新書、2018年
目 次
はじめに
第一章 日本文化論としての一神教批判
1 日本は寛容なのか
2 日本文化から見た一神教
3 「大きな物語」としての一神教
第二章 一神教の起源と展開 ── グローバル・アクターとしての一神教
1 「一神教」とは何か
2 多神教世界における一神教の誕生
3 一神教の文明論的系譜
4 現代における一神教の広がり
第三章 一神教の基本的な考え ── 何が同じで、何が違うのか
1 創造論
2 終末論
3 偶像崇拝の禁止
第四章 一神教世界における戦争 ── 戦争は不寛容の結果か
1 戦争論の類型
2 絶対平和主義
3 正戦論
4 聖戦論
5 宗教多元社会における正義の模索
第五章 現代世界における課題 ── 不寛容をいかに抑制するか
1 世俗主義と原理主義
2 政教分離
3 犠牲の論理
おわりに──「寛容の文化」を育てていくために
はじめに
一神教は不寛容か。この問いを投げかけられたとき、あなたはどのように答えるだろうか。相次ぐテロのニュースを耳にする近年、「そうだ、一神教は不寛容だ」と答える声が大きくなっているかもしれない。通常、「一神教」が直接ニュースになることはない。ユダヤ教、キリスト教、イスラームという個別の宗教があり、さらにそれぞれの中には多様なグループが存在している。しかし、日本では、それらをひとまとめにして「一神教」と呼び、論評することが好まれてきた。そして多くの場合、一神教は多神教とセットにして語られる。なぜだろうか。
こうした問いに答えるために、本書では、日本社会で繰り返されてきた一神教批判そして多神教礼賛といった言説に潜む日本文化論の特質に対しても光を当て、異質な他者と向き合う作法を考えていく。日本が自己満足的・排他的ではない仕方で自らの価値観や伝統を語るために、一神教理解は不可欠である。また、現代世界が直面している各種のテロや紛争・戦争を正しく洞察していく上でも、一神教が持つ論理や価値観、その歴史についての知識は重要である。グローバル・アクターとしての一神教の平和・戦争理解を参照しながら、日本の平和主義が負うべき課題も考えたい。
ヘイト・スピーチに代表される不寛容は日本社会でも拡大する可能性がある。異なる価値観や背景を持つ者同士が敵対的な関係になることは、人類史上、何度も繰り返されてきた。これは未完の課題と言えるが、西洋社会や一神教の伝統において不寛容の抑制やコントロールがどのようになされてきたのか、あるいは、どのような失敗をしてきたのかを知ることは、近未来の日本社会に多くの教訓を与えてくれるだろう。日本社会は、自らにとって異質な宗教、一神教を理解しながら、寛容な文化を構築することができるだろうか。対テロ対策や安全保障が強化される時代の中で、互いに対する疑心暗鬼を増大させるだけでなく、むしろそうした息苦しさと距離を置くことのできる他者理解と自己理解が今求められているのである。
本書では、一神教としてユダヤ教、キリスト教、イスラームを取り扱う。これまで、それぞれの宗教についての入門書や専門書は数え切れないほど著されてきた。したがって、それら個別の宗教について知りたい場合には、既刊の文献が大いに役立つ。では、類書にない本書の特徴はどこにあるのか。それは「間」を見ることにある。一神教相互の「間」、一神教と現実社会との「間」、一神教と日本社会との「間」である。それぞれの「間」は、緩衝地帯によって緩やかにつながっている場合もあれば、大きな緊張を伴っている場合もある。
三つの一神教の教義や聖典の相違点・共通点に関心がある読者もいるだろう。もちろん、本書は教義や聖典の重要な事柄を対象とするが、それらを網羅的に扱うことはしない。ユダヤ教とキリスト教の関係に関しては、すでに十分な量の論考が著されてきた。また、それと比べればまだ少ないとはいえ、キリスト教とイスラームの教義や聖典レベルでの比較についても、よい翻訳書が現れてきている(L・ハーゲマン『キリスト教とイスラーム──対話への歩み』、J・グルニカ『聖書とコーラン──どこが同じで、どこが違うか』)。たとえば、ユダヤ教とイスラームが堅持する唯一神信仰と、同じく唯一神信仰を主張するキリスト教の三位一体論の関係は、教義レベルでは論じる価値があるが、一神教と現実社会の「間」に目を向けようとするとき、この議論は必ずしも最優先すべき事柄ではない。
つまり、本書では、狭い意味での「神学論争」に拘泥するのではなく、むしろ、我々が生きている社会に直接・間接に影響を与えるテーマに積極的に目を向けたいと考えている。その作業の中で、それぞれの一神教の聖典に言及することになるが、本書で使う表記について確認しておきたい。一般によく知られているのは、キリスト教が使う「旧約聖書」「新約聖書」であろう。「旧約聖書」はユダヤ教の聖典に対応するが、ユダヤ教にとって「聖書」は端的に「聖書」であり、旧も新も存在しない。本書ではそれを明確にするために、ユダヤ教の聖典を「旧約聖書」ではなく「ヘブライ語聖書」と呼ぶ。この呼び方は、学問の世界でも近年、一般的になっている。本書で「聖書」を引用する際には、日本聖書協会『聖書──新共同訳』を用いている。コーラン(クルアーン)はアラビア語で記されており、アラビア語原典が唯一正統性を持つが、本書では、ムスリムの間で比較的広く用いられている日本ムスリム協会『日亜対訳注解聖クルアーン』を用いている。
「間」から何が見えるだろうか。そこから見える光景は、現代社会が抱える様々な問題を映し出している。「間」から見える光景が、必ずしも平和と寛容にあふれたものでないとすれば、なぜ平和や寛容が損なわれてきたのかを歴史的にたどりながら、同時に近未来社会において、それを少しでも実現していくために、どのような視点が必要なのかを考えていく必要があるだろう。大きな課題ではあるが、本書を通じて、この課題を共に考えていただければ望外の喜びである。
【書 評】
◎『同志社時報』No.146、2018年10月、93頁
◎『京都新聞』2018年4月8日、朝刊
◎『信徒の友』(日本基督教団出版局)2018年5月号