論文「不在者の倫理──科学技術に対する宗教倫理的批判のために」、『宗教と倫理』第16号、2016年、3-17頁
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(和文要旨)
3.11東日本大震災以降の日本の宗教研究において、宗教と公共性の関係が大きな主題として取りあげられてきた。そこでは主として復興支援における宗教の固有の役割が問われてきたが、同時に、原発に代表される科学技術に対し、宗教が独自の倫理的批判をなし得るのか、という問いも重要な位置を占めた。近代国家における公共性は「現代世代」の「人間」の利益を最大化することを前提とし、科学技術はそのための道具とされてきた。こうした近代的枠組みを批判し、過剰に人間中心的でも、現代世代中心的でもない倫理規範を提示するためには、死者との対話や未来世代への責任意識が欠かせない。これら過去および未来における不在者を記憶・想像することは、現在の存在者である我々に対し、具体的な倫理的責任を喚起させる。本論文では、それを「不在者の倫理」としてとらえ、その基礎付けを行う。それは公共性の中に宗教をいかに位置づけるかではなく、宗教の中に閉じ込められてきた「公共性」を解放する試みとして展開される。その際、宗教一般の可能性を問うだけでなく、キリスト教を事例として取りあげ、科学技術に対する宗教倫理的批判の要点を示す。
(SUMMARY)
Since the March 11 disaster, the relation between religion and publicness has received greater focus from scholars of religion in Japan. The main question asked relates to how religion itself can contribute to the process of reconstruction of the disaster-affected area, while great importance is also placed on the question of whether or not religion can criticize science and technology, especially nuclear power generation, from its own ethical perspective. In modern nations, it has been assumed that publicness brings maximum benefits to "humans" of the "current generation" with science and technology regarded as a tool to this end. If we are to criticize such a modern framework and present an alternative ethical standard that is not too human-centric or current-generation-centric, we need to be able to engage in dialogue with the dead and embrace a sense of responsibility toward future generations. By remembering those gone in the past and envisioning those to come in the future, we, as those living now, are reminded of our specific ethical responsibility. This paper refers to this idea as "Ethics of the Absent" and theorizes it, not by considering how we can position religion in publicness, but by attempting to release publicness that has been confined to religion. In so doing, I will not only discuss the possibility of religion in general, but also focus on Christianity by way of presenting the gist of religious-ethical criticism against science and technology.
1 はじめに
3.11東日本大震災(以下、3.11とする)以降の日本の宗教研究において、宗教と公共性の関係が大きな主題として取りあげられてきた。もっとも、それ以前から、欧米における世俗化論やポスト世俗化論の中で、宗教と公共性の関係が論じられ、日本でも紹介されてきたので、そのテーマ自体がまったく新しいというわけではない。しかし、復興支援における宗教の固有の役割が問われ、また同時に、原発に代表される科学技術に対し、宗教が独自の倫理的批判をなし得るのかという、3.11以降の状況に対応した新たな問いも現れてきた[1]。こうした課題を踏まえ、今後さらに進展し、影響力を増す科学技術に対し、宗教倫理的な視点から、どのように問題の把握と対応ができるのかを提示することを本稿は目的とする。
近代国家における公共性は「現代世代」の「人間」の利益を最大化することを前提とし、科学技術はそのための道具とされてきた。こうした近代的枠組みを批判し、過剰に人間中心的でも、現代世代中心的でもない倫理規範を提示するためには、死者との対話や未来世代への責任意識が欠かせない。これら過去および未来における不在者を記憶・想像することは、現在の存在者である我々に対し、具体的な倫理的責任を喚起させる。本稿では、それを「不在者の倫理」としてとらえ、その基礎付けを行う。それは公共性の中に宗教をいかに位置づけるかではなく、宗教の中に閉じ込められてきた「公共性」を解放する試みとして展開される。宗教伝統における「公共性」解釈の意義を問うために、本稿では、キリスト教を事例として取りあげ、そこからより広く宗教倫理一般に接続していくことのできる倫理的枠組みを提示する。
2 原発問題への対応
科学技術一般の問題を考える前に、科学技術に対する批判的な応答必要性を喚起した、もっとも最近の事例として3.11を取りあげたい。3.11以降の状況、とりわけ、それが引き起こした原発問題に対し、日本の宗教界からも様々な声明が出された。島薗進(2013)は、それらをまとめ、ドイツの「安全なエネルギー供給のための倫理委員会」との対比を行っている。ここでその細部に立ち入ることはしないが、島薗が次のような問題意識は本稿の目的とも重なるので、簡単に紹介しておきたい。①原発批判の倫理的根拠は何なのか。②日本の宗教界からの原発批判はどのような特徴を持っているのか。③科学技術に対する倫理的批判の根拠は宗教的なものとどう関わるのか(島薗、2013、108)。
3.11直後に招集されたドイツの倫理委員会は報告書「ドイツのエネルギー大転換──未来のための共同事業」をまとめ、2011年6月6日には、原発の全廃(2022年までに)が閣議決定されている。この報告書の倫理的な枠組みは、リスクに対する「絶対的な判断」と「相対的比較衡量」にあるが、島薗によれば、前者はキリスト教的価値観を、後者は世俗的な諸学を代弁している。そして、日本の宗教団体から出された声明と比べ、その報告書には、宗教的な背景をもった倫理的な判断における多様な論点が十分に反映されていないという(同、125)。日本の宗教界から出された声明では、弱い立場の人々が犠牲になるというリスクの質のあり方が問われたり、「豊かさ」の質が問われていた。
その一例を、一般紙においても取りあげられ、広く知られることになった全日本仏教会の宣言文「原子力発電によらない生き方を求めて」(2011年12月、https://www.jbf.ne.jp/news/newsrelease/2395/170.html)から確認しておきたい。要約すれば、そこには次のような仏教に特徴的な視点が含まれており、結論として、原発に対する批判の表明となっている。①原発は人間だけではなく様々な「いのち」を脅かす。②原発は負の遺産を未来に残す。③誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願わない。④個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ぶ。⑤足ることを知り、自然の前で謙虚である生活を実現する。
これらは震災直後の仏教界の考えの一端を知る上で貴重であるが、いずれの論点も数行あるいは一言でまとめられているに過ぎず、また、これ以降、仏教に限らず、日本の宗教界あるいは宗教研究において宗教倫理的な議論が十分に展開されてきたとは言い難い。しかし、そのような課題を有しているとはいえ、島薗が指摘するように、ドイツの倫理委員会報告書には見られない独自の視点を有している点には着目すべきであり、それをさらに展開するための基礎作業の一つを本稿では行いたい。
では、そうした作業を行う際に意識すべき事柄は何であろうか。それは、それぞれの宗教伝統から倫理的視座を抽出しながらも、それをその伝統内部で完結させることなく、他の宗教伝統や一般社会へと開かれたものにすべきだ、ということである。個別の宗教伝統の立場から、社会問題に対応することは、部分的にはすでに行われている。しかし、その射程が、個別の伝統が持つ強大な重力圏を越えて、公共空間に達しているかどうかの最初の検証は、異なる宗派・宗教の間で、そのアプローチが了解可能なものになっているかどうかを判断することによって可能となる。この相互検証こそが、宗教倫理という枠組みを要請するのであり、社会の「公共性」、言い換えれば、世俗的な重力圏のただ中において、宗教伝統に内蔵された「公共性」の機動性を確保するのである。
原発を筆頭に、科学技術がもたらすリスクは人類的なものである。宗教の有無、違いにかかわらず、そのリスクを考え、対応できる倫理的通路を多様に見出すために、諸宗教は固有の伝統を活用しつつ、相互に「交響」する宗教倫理的「公共性」を展開すべきであろう。原発問題に関し、筆者も「原発問題の神学的課題」(小原、2011)という論考を著し、主として創造論と終末論の視点から原発問題への批判的応答を試みている。しかし、それは第一義的にはキリスト教内部における倫理的課題の喚起であり、必ずしも、社会一般に届くような汎用的な道筋を示したものではない。本稿では、次章より、キリスト教を事例としながらも、その固有の立場から導出される倫理的視座がいかに、より一般的な地平へとつながっていくのかを模索していくことになる。
3 イエスの食卓の「公共性」
1)共食が示す公共性
科学技術に対する批判的視座を得るために、最初の手がかりとして、イエスの食卓を倫理的基盤とする「公共性」の解釈を試みる。食卓がなぜ科学技術を含む社会批判につながるのかと、いぶかしく思うかもしれない。しかし、イエスが提示した新たな公共性──イエスの言葉では「神の国」──は、当時の社会秩序への挑戦であり、それは後にサクラメント(聖餐)の中に受け継がれていくという意味で、食卓で何が起こったのかは、キリスト教倫理にとってはきわめて重要な意味を含んでいる。また、人類学では、特定の共同体や社会を観察する際、食事の場は「共食」(commensality)と呼ばれ、特別に重視される。なぜなら、食事の作法、つまり、いつ、誰と、何を食べ、何を避けるか、といったことが、社会秩序を如実に反映しているからである。最近の日本では「孤食」という言葉が使われるようになったが、それもまた核家族化し、共働きが当たり前となった日本社会の現状を映している。かつては、家父長を中心に別のタイプの食卓が囲まれていた。一言で言えば、食卓は社会秩序が反映されたミニマムな公共空間であると言えるだろう。
聖書においても同様の事例を見出すことができる。イエス時代の食卓は、言うまでもなく、トーラーの清浄規定(その多くを旧約聖書「レビ記」に見ることができる)の影響を強く受けていた。「ルカによる福音書」7章39節では、イエスが食卓の場で「罪深い女」を受け入れていることが、イエスを食事に招いたファリサイ派の人の心の中で批判されている。当時、罪人と食事を共にすることはタブーであるが、イエスは不注意からではなく、意図的にこうした公的秩序を内破させ、神の国(支配)を開示する新たな公共性を出現させようとしている。「ガラテヤの信徒への手紙」2章11─14節では、ペトロが非難されるのを恐れて、異邦人との食事(これもタブーであった)の場を離れようとしたことをパウロから批判されている。そのペトロが「汚れた物」が天から降りてくる幻を見た後で、ある種の回心をし、ユダヤ人と外国人、清い者と汚れている者といった従来の観念(清浄規定)から自由にさせる神について語っている(使徒言行録10:1-48)。
2)伝統的な公共性を転倒させるイエスの開かれた共食
これらの事例のいずれにおいても、食卓を中心に、当時の社会の支配的な公共性と、その公共性への挑戦が対比的に描かれている。「飲み食い」というもっとも日常的かつ世俗的とも言える場において、既存の秩序を震撼させる新しい宗教性が立ち現れていると言ってもよいだろう。イエスにとって神の国のイメージは、何より「飲み食い」であった(大貫、2003、56-57)。「開かれた共食」としての神の国は、偶像破壊的と映るほど、既存の秩序に対するラディカルな挑戦であった(クロッサン、1998、122-123)。言い換えれば、イエスの食卓の特徴は、徹底的に開かれた共食を通じて、伝統的な公共性を転倒させる点にある。婚宴(大宴会)のたとえ(マタイ22:2-14、ルカ14:16-24)では、婚宴や宴会に招かれた人たちが来なかったので、通りにいる誰でも、すなわち、善人でも悪人でも、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人を招くようにと主人が命じている。このたとえもまた、イエスの食卓のラディカルな開放性を、つまり、神の国の開放性を示している。
こうしたイエスの食卓がアジアの文脈でどのように受けとめられたのかも一瞥しておこう。韓国の「民衆の神学」を代表する人物・安炳茂(アン・ビョンム)は「食べることを蔑視する者たちは飽食者のみです。物(食べること)の重要性を認めなければ、聖書の中心は発見できないはずです」(安、1992、363)と語り、韓国語で「家族」を意味するもう一つの言葉として「食口」(シック)があることを紹介した上で、次のように「食膳共同体」の重要性を説明する。
「食口という言葉は、単に食べるだけの意味を越えた宗教的な背景があります。日本でもそういう伝統があるかは分かりませんが、韓国では亡くなったご先祖を示す位牌を抱え、食事の時ごとに先にご先祖様の前に食べ物を供養してから、後にそれを取り降ろして家族みんなが分かちあって食べます。ここで重要なことは、単に飯を食うことではなく、ご先祖とともに食べるということです。同じ所に献げた食べ物を分けて食べること、それで食口なのです。」(同、364)
先祖との「共食」はアジアでは伝統文化の一部であるが、西洋のキリスト教がそれを迷信として破壊していったことを安は批判している。先祖との関係は本稿が提示しようとする「不在者の倫理」においても重要なので、後にあらためて扱うことにする。ここでは、キリスト教の共同体形成を考える際、非西洋の文脈では、先祖との関係も安易に迷信として破棄できない倫理的特質を有している点だけ留意しておきたい。
3)ケノーシス、万物の交流の場としての最後の晩餐(サクラメント)
イエスの食卓の最後のものは「最後の晩餐」として知られている。最後の晩餐の意義は、それ以前のイエスの食卓とのつながりなしに理解することはできないが、それと同時に重要なのは、最後の晩餐が、イエス自らの「体」と「血」が分け与えられる(コリント一11:23-26)ケノーシス(自己無化)的な給仕の場となっている点である。そして、イエスのケノーシスの終局がイエスの十字架であった。では、なぜイエスは十字架へと追いやられたのか。所有や支配を強く望む人々は、所有しているもの、支配しているものによって自らが影響を受けないように絶対的な所有関係、すなわち、人を死に追いやるという道を時として選ぶ。イエスの死もその一つであった。しかし、イエスの十字架上の死は、その絶対的な所有欲に先行する形で、自らの「体」の所有を放棄する行為(ケノーシス)であった。それゆえ、イエスの体は「所有」の束縛から逃れ、その体が失われたときに、かえって新たな「存在」として弟子たちの前に立ち現れたのである(ただし、その認識には時間がかかった)。自らの身体の「所有」が完全に放棄された、十字架というケノーシスの到着点において、イエスの「存在」がどんな所有によっても侵食することのできない確かさをもって立ち現れてくるという、この逆説を理解する必要がある(小原、2002、166-167)。以上の点をまとめれば、最後の晩餐は、イエスの食卓(平等な分有と交流)と十字架のケノーシス(所有から存在への反転)をつなぐ役割をしていると言うことができる。イエスの「不在」が弟子たちによる新たな共同体の「存在」理由と、負うべき「責任」を指し示しているのである。
さらに、最後の晩餐を「記念」(コリント一11:24-25)するサクラメントを、イエスと弟子たちとの命の分かち合いの場としてだけでなく、万物の交流の場としても見ることができる。サクラメントにおいて、パンとぶどう酒といった自然物が神と人間の間を仲介して新たな共同性(公共性)を開示している。それは自然を聖化したり、自然を物神化するのではなく、聖礼典化する(sacramentalize)。このような態度は『リマ文書』(1982年)以降の聖餐に関する議論の中で展開されてきた、聖餐の生態論的理解にも対応関係を見いだすことができる。そこでは、世界が自然のいのちを包含する被造世界であることが重要視されている(神田、1997、267-270)。
サクラメントおよびイエスの食卓を万物の交流の場、新たな公共性の出発点として見ているもう一つの事例として宮本久雄の「食卓協働態」をあげることができる(宮本、2002、228-245)。宮本は、全生態系の食物連鎖や森羅万象の交流を視野に入れながら、食の解釈学を展開し、イエスの「食卓協働態」をイエスの「神の国」運動の基盤に位置づけようとしている。また、イエスによって与えられたパンとぶどう酒を記憶・記念することは、イエスの愛の現在化であると同時に、「未来世代の食卓協働態を希望しつつ今に先取りする」(同、241)働きでもある。
このように、サクラメントに秘められた生物学的次元や未来世代への視線を認識することは、現代の諸問題に対する批判的な倫理的視座を探る上で重要である。西洋では身体は人間の占有物として考えられてきた。しかし、サクラメントを身体理解のためのアナロジーとして理解すれば、サクラメントにおいて、イエスと信仰者の間には新しい身体性としてキリストの身体が形成されると言える。キリストの身体は後に教会(見えない教会)にまで拡大されていくが、それは誰かが、キリストの身体を持つということではない。身体の所有ではなく、キリストと信仰者との間、信仰者と信仰者の間に生起するものとして身体を理解することができる。そして、万物の交流の場としてサクラメントを見れば、生命圏へと拡張されるサクラメント解釈の可能性を示すことも可能である。人間中心的でもなく、現代世代中心的でもない間身体的認識をそこから導き出すことができるだろう。
4 「公共性」変革のトポスとしての宗教倫理
イエスの食卓を中心とした以上の考察は、キリスト教における伝統的な思考を再解釈することを促すが、それがさらにキリスト教を越えて、他の宗教伝統や世俗社会とつながり、相互影響をもたらすインターフェースとなるための倫理的枠組みを次に示したい。本稿の冒頭で述べたように、近代国家における公共性は「現代世代」の「人間」の利益を最大化することを前提とする。科学技術はそのための道具とされる。それゆえ、科学技術に対する批判的視座を構築するためには、こうした近代的枠組みを批判できる「公共性」概念が必要であり、その手掛かりとして、イエスの食卓、その記憶としてのサクラメントが公共性を変革するトポス(場)として機能していたことを確認した。このトポスをさらに拡張していく上で、重要な視点の一つが、現代世代の所有欲を相対化することのできる未来世代に対する責任意識である。
この点に関して先駆的な役割を果たしたハンス・ヨナスの提言は今なお意義深いと思われるので、少し長くなるが『責任という原理──科学技術文明のための倫理学の試み』(原著1979年)から引用し、現代の我々が引き受けるべき課題を抽出したい。
「まず言っておかなければならないが、われわれの原理にわれわれが要求するはずのものは、権利と義務についての伝統的な考え方からは出てこない。伝統的な考え方は、相互性に基づいている。(中略)というのも、権利を持つのは、権利要求を掲げるもの、すなわち、すでに存在しているものだけに限られるからである。あらゆる生命は生きる権利を要求する。そしておそらく、これは尊重しなければならない権利だろう。現に存在していないものは、権利要求を掲げない。そのために、その権利を侵害されることもない。存在するようになれば、権利を持つかもしれない。だが、いつか存在するようになるだろうという可能性だけに依拠して権利を認められることはない。そもそも、実際に存在する以前には、存在する権利などない。存在を要求する権利は、存在するようになって初めて生じる。だが、こうしたまだ存在していないものにこそ、われわれの求める倫理学はかかわっている。この倫理学の責任原理は、権利という観念から、同時に相互性という観念からも完全に自由でなければならない。」(ヨナス、2000、69)
我々が通常考える権利や責任は、権利要求をかかげる当事者同士の相互関係に立脚している。その枠組みにとどまる限り、権利要求することのできない未来世代に対して、我々が責任を感じる必要はないということになる。だからこそ、ヨナスは未来世代への責任を考える際には「相互性」という観念に拘束されるべきではないと主張するのである。また、「あらゆる生命は生きる権利を要求する」というヨナスの指摘も、多くの生命を犠牲にすることを厭わず、過剰に人間中心的となっていることへの自覚すら持つことのない現代世代にとっては、考えるべきポイントの一つとなるはずである。
こうしたヨナスの問いかけに対し、宗教倫理はどのように応答することができるだろうか。先述した、イエスの食卓・サクラメントが開示する倫理的要請を再編成することによって、一般的な宗教倫理へと接続可能な、次のような三つの倫理的枠組みを導き出すことができるだろう。
1)食の倫理
食卓が示す関係性、「共食」は公共性の原点であるが、同時に、イエスの食卓において見たように、利害関係を共有する集団(in-group)と、それ以外の倫理的配慮の対象とならない集団(out-group)の境界線がもっとも明瞭に現れるのも、食の場であった。それゆえ、in-groupとout-groupの境界線を無効化する「公共性」変革のトポスを、イエスは「飲み食い」の場(「神の国」)において出現させた。
貧富の格差、様々な差別、食とエネルギーの大量消費を前提とする現代世界に対し、「食の倫理」は批判的な貢献をすることができる。先述の「食べることを蔑視する者たちは飽食者のみです」という安の言葉に明瞭に現れているように、通常、我々は食に対する繊細な配慮をすることのない「飽食者」の側に立っている。飽食者と食べることのできない人々の間の圧倒的な食の不均衡は、言うまでもなく、世界経済における富の不均衡に連動している。世界の富は公平な形で分配されているとは言い難い。人類という視点で見るならば、「開かれた共食」はまったく存在していない。貧困問題に取り組んでいるNGOオックスファムの最新の報告によれば、わずか62人の富豪が、最貧困の35億人分と同じだけの富を所有しているという(https://www.oxfam.org/en/pressroom/pressreleases/2016-01-18/62-people-own-same-half-world-reveals-oxfam-davos-report)。様々な国際的な努力により、極度の貧困に苦しむ人々の数は減少しているが、貧富の格差は拡大を続けている。
飽食という言葉は、第一義的には食べ物の節度のない消費を意味するが、現代において、我々はエネルギーの大量消費とそれを前提とする社会システムを視野に入れて「食の倫理」を考えるべきであろう。日本仏教会の宣言文「原子力発電によらない生き方を求めて」にある「過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし」という文言も、こうした広い意味での「飽食」に対する戒めとして理解してよいだろう。
食の倫理においては、未来世代への責任が問われる。現代世代が未来世代に残されるべき様々な資産(食・エネルギー・自然環境)を先食いしている現状、言い換えれば、「負の遺産」を未来に残している現状は、倫理的に正当化されるだろうか。権利要求することのない未来世代(未来の不在者)の声は、どのように聞かれるのだろうか。これは未踏の領域ではあるが、手掛かりとなる宗教的リソースは存在している。たとえば、日本宗教の場合、世代間の権利関係を超えて、生者と死者の関係、生命・非生命の関係にまで議論を広げることのできるポテンシャルを有している。死者を生者の世界から排除しようとする現代人が、死者との穏やかな共存を再現することはもはやできない。しかし、そうした時代がかつてあったことを自覚することによって、我々が立脚する現在の地平を相対化することはできる(佐藤、2015、173-174, 177)。そして、そうした自覚は日本だけでなく、先に安を通じて、韓国の「食膳共同体」における先祖との「共食」の重要性を見たように、東アジアや他の地域でも同様に重要であろう。
2)犠牲の倫理
最後の晩餐におけるイエスのケノーシス的給仕や十字架をクライマックスとするイエスの生涯は自己犠牲の範例と見なされてきた。また、犠牲や自己犠牲の観念はキリスト教に限らず、多くの宗教で重要な役割を果たしてきた。動物供犠や犠牲は人類史的に見れば、宗教的行為の中核を占めていた。キリスト教は非供犠的な宗教として出発したが、犠牲の観念は引き継がれ、それはイエスの言動・生涯(特にイエスの十字架)の解釈において重要な役割を果たしてきた[2]。 確かにキリスト教は、動物の犠牲を捧げることを拒否したが、人間が信仰のために自らを犠牲とすることは殉教として積極的に容認された。
尊い目的のための自己犠牲という観念は、19世紀から20世紀のナショナリズムの高まりの中で、近代国家がより緻密な形でシステム化していった。近代国家は伝統的な「犠牲」の観念を迷信として破棄したのではなく、「犠牲のシステム」としてアップグレードしたと言ってもよい。その時代、多くのクリスチャンにとって、国のために戦って死ぬこととは決して信仰と矛盾しなかった。なぜなら、そこでは尊い目的のために命を差し出すことが模範的な自己犠牲として称賛され、殉国と殉教はほぼ同義となったからである。そのことはマーク・ユルゲンスマイヤーによる次のような指摘にも明確に現れている。
〔世俗的ナショナリズムと宗教は(引用者注)〕包括的な道徳秩序の枠組み、すなわちそれに所属する人々に究極的な忠誠を命じる枠組みを与えるという、倫理的な機能を果たす。(中略)ナショナリズムと宗教がもつ、殉教と暴力に道徳的許可を与える力ほどに、明確に忠誠の共通様式が現れているものは、他のどこにも存在しない。(ユルゲンスマイヤー、1995、28-29)
集団の秩序維持のために特定の人(人々)を犠牲にすることを「スケープゴート」と呼び、それが太古の昔から続いてきたこと、そして、広く宗教と暴力の関係は、ルネ・ジラールの『暴力と聖なるもの』(ジラール、1982)(原著1972年)以降、人類学や宗教学においても重要な主題とされてきたが、ジラールの言う「犠牲のシステム」は今なお形を変えて存在し続けている。特定の人々や特定の地域に犠牲を強いることによって成り立っている社会構造やエネルギー供給(特に原発)に対して宗教倫理的な視座からの問題提起が可能である。「犠牲」の観念は宗教伝統に深く埋め込まれているが、それを健全に保ち、また、国家的価値やナショナリズムに先導される「犠牲のシステム」と批判的な距離を確保するためには、犠牲の観念に対し精緻な議論を促す「犠牲の倫理」が必要である。日本仏教会の宣言文「原子力発電によらない生き方を求めて」にある「誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく」という文言も、こうした犠牲の倫理につながるものとして理解することができる。
さらに言えば、同宣言文が「広範囲に拡散した放射性物質が、日本だけでなく地球規模で自然環境、生態系に影響を与え、人間だけでなく様々な「いのち」を脅かす可能性は否めません」と語るとき、「犠牲」の射程が人間以外の「いのち」をも包含していることに注意を向けるべきだろう。キリスト教における倫理的試論として、サクラメントを万物の交流の場としてとらえようとしたことは先述の通りであるが、拡散した放射性物質の生態系へのリスクは言うまでもなく、人間以外の生命を人間のための必要な犠牲として正当化する経済システムへの批判的洞察も必要となる[3]。 人の飽食や欲望を満たすための工場畜産や動物実験も、すべて科学的合理性のもとに行われている。科学技術によって駆り立てられている人間の消費行動が、どのような犠牲のもとに成り立っているのかを直視するために、「いのち」を意識した倫理的眼差しを向けることも宗教倫理の役割であろう。
3)記憶の倫理
サクラメントはパンとぶどう酒といった自然物を媒介にしてイエスを記念する身体的な記憶の行為である。そして、それは記憶の身体性、すなわち、生きた身体が世代を超えて記憶を継承する必要性を示している。環境問題やエネルギー問題は、世代間倫理なしに対処された場合、未来世代に対し圧倒的な不利益をもたらす可能性がある。科学技術に促され、人間の「所有」願望を充足させる方向へと過剰に進むのではなく、人間・自然・動物の関係史を顧みながら、むしろ間身体的な(キリスト教的な意味ではサクラメンタルな)世界観と、それを支える「記憶の倫理」が必要とされる。
記念・記憶をめぐる同様の課題は、キリスト教にとどまらず、他の多くの宗教においても担われてきた。膨大な情報に取り囲まれながら、しかしそれゆえに「記憶喪失」に陥りやすい現代社会において、世代を超えて、場合によっては何世紀にもわたって、出来事や記憶を継承する宗教的作法・儀礼は、潜在的に貴重な価値を有している。これは宗教固有の力であり、どの宗教もそれぞれの「記憶の倫理」を持っている。3.11とそれ以降の社会の変化、そして急速に冷えていく関心に対し、世の常として傍観するのではなく、また、結論を急ぎ過ぎるのでもなく、問題を考え、逡巡し続けるためのエネルギーを供給するためにも、歴史の風化に抵抗できる「記憶の倫理」が必要なのである。そして、過去の出来事、過去の不在者を記憶し、同時にそれらを現在化する作法を通じてこそ、未来社会への想像力と未来の不在者への責任意識を喚起することができるだろう。歴史的教訓を顧みない健忘症的な情報化社会、未来世代に対する無責任社会に対して、宗教倫理が貢献できる固有の領域がここにも存在している。
5 おわりに──不在者の倫理に向けて
以上、イエスの食卓から、宗教倫理一般に展開可能な三つの倫理的基軸、すなわち、食の倫理、犠牲の倫理、記憶の倫理を導き出したが、これらは上述の内容からも推測されるように、他の宗教、とりわけ日本宗教からも接続可能なインターフェースを備えている。また、いずれにおいても、未来世代への責任が重要な役割を果たしている。しかし現実には、科学技術によってもたらされる短期的なコストベネフィットの誘惑に現代世代は引き込まれやすい。近代社会は現代世代の人間の利益を最大化することを当然としてきたので、過去に対しても、未来に対しても倫理的な射程はきわめて限られている。科学技術に対する有効な批判とは、遠回りに見えたとしても、こうした倫理的閉塞に対する挑戦でなければならないだろう。
急速に失われつつあるとはいえ、伝統宗教の多くは「過去の不在者」との対話の作法を有している。ヨナスが示すように地球規模の持続可能性を考えるためには未来世代への責任原理、言い換えれば、「未来の不在者」に対する倫理的責任を欠くことはできない。これら過去と未来に向けられた別々の倫理的ベクトルを統合し、相補的に強化する視点として「不在者の倫理」(Ethics of the Absent)を考えたい。本稿はその予備的考察をなしたに過ぎないが、それは「過去の不在者」と「未来の不在者」を統合的に見、その中間存在としての「現在の存在者」(我々)を倫理的に止揚する倫理である。また、それは先にあげた食の倫理、犠牲の倫理、記憶の倫理を統合するプラットフォームでもある。
過去の不在者と未来の不在者は対称的な関係にはない。過去の不在者から我々は様々な影響を受けるが、通常、我々の行為が過去の不在者に影響を及ぼすことはない(もちろん、影響を及ぼすという宗教的理解もある)。他方、我々の行為は未来の不在者の利害に直接的に関与する。現代世代が選択したエネルギー政策や消費行動は、未来世代の住環境や食のあり方に大きな影響を及ぼす。
「現在の存在者」の利益を最大化するために用いられる科学技術を、ただ現代世代の利害関係、現代世代の公共性の内部において批判するだけでは十分ではない。宗教倫理においてなし得る固有の働きは、「過去の不在者」にかかわる豊穣なリソースを活用し、同時に「未来の不在者」に対する想像力を活性化することを通じて、過去と未来に対する倫理的射程を拡大し、それによって現代世代に課せられた責任を喚起することであろう。既存の公共性を転倒させるキリスト教的例示を本稿は行ったが、同様の試みは、他の宗教においても可能であるに違いない。注意すべきは、それが自宗教にのみ適用可能な言説にとどまらず、他の宗教伝統や世俗社会へとつながるものでなければ、科学技術への有効な批判とはなりにくいということである。本稿が示した「不在者の倫理」とそれを構成する三つの倫理的基軸は、まだ萌芽的段階に過ぎないが、今後、それぞれの細部を具体的に考察していくことによって、宗教倫理の視点から科学技術に対する建設的かつ批判的な提言をなすための基盤形成を目指したい。
【参考文献】
Dunnill, John 2013 Sacrifice and the Body: Biblical Anthropology and Christian Self-understanding, Ashgate.
Heim, Mark S. 2006 Saved from Sacrifice: A Theology of the Cross, Eerdmans.
McFague, Sallie 2013 Blessed Are the Consumers Climate Change and the Practice of Restraint, Fortress Press.
安 炳茂 1992 『民衆神学を語る』(趙容來、桂川潤訳)新教出版社。
大貫 隆 2003 『イエスという経験』岩波書店。
神田健次 1997 『現代の聖餐論──エキュメニカル運動の軌跡から』日本基督教団出版局。
クロッサン、ジョン・ドミニク 1998 『イエス──あるユダヤ人貧農の革命的生涯』(太田修司訳)新教出版社。
小原克博 2002 『神のドラマトゥルギー ──自然・宗教・歴史・身体を舞台として』教文館。
──── 2011 「原発問題の神学的課題」、新教出版社編集部編『原発とキリスト教──私たちはこう考える』新教出版社、104-114頁。
佐藤弘夫 2015 『死者の花嫁──葬送と追想の列島史』幻戯書房。
島薗 進 2013 「福島原発災害後の宗教界の原発批判──科学・技術を批判する倫理的根拠」、『宗教研究』87-2、107-127頁。
ジラール、ルネ 1982 『暴力と聖なるもの』(古田幸男訳)法政大学出版局。
宮本久雄 2002 『存在の季節──ハヤトロギア(ヘブライ的存在論)の誕生』知泉書館。
ユルゲンスマイヤー、マーク 1995 『ナショナリズムの世俗性と宗教性』(阿部美哉訳)玉川大学出版部。
ヨナス、ハンス 2000 『責任という原理──科学技術文明のための倫理学の試み』(加藤尚武監訳)東信堂。
キーワード:宗教倫理、科学技術、公共性、3.11東日本大震災、不在者
Keywords: Religious Ethics, Science and Technology, The Publicness, The 3.11 East Japan Disaster, The Absent
注
[1] 原発への直接的な批判の他に、日本の宗教界では、これまで十分な関心が注がれこなかったエネルギー問題、とりわけ自然エネルギーへの取り組みが、3.11以降の新たな課題をとして現れてきた。「生長の家」によるメガソーラー施設の建設(2015年)のような大規模なものはまだ多くはないが、宗教施設などに積極的に太陽光パネルを設置する動きは広がりつつある。
[2] 人類史における供犠の意義・働き、および、キリスト教における供犠の位置づけについてはDunnill(2013)が詳しい。また、先行する無数の供犠・犠牲との比較において、イエスの十字架の意義を問い、伝統的な贖罪理解の再考を促すものとしてHeim(2006)の論は示唆的である。
[3] 現況の経済システムがもたらした環境問題、消費至上主義の文化に対抗する倫理的基盤として、サリー・マクフェイグはケノーシス(self-sacrifice, self-emptying)を中心に据えた論を展開している(McFague, 2013)。