研究発表「公共性の原点としての食卓(サクラメント)─ 科学技術に対する倫理的批判の基礎付け」、日本基督教学会 近畿支部会、同志社女子大学 今出川キャンパス、2016年3月28日
同志社大学 神学部 小原克博
【要旨】3.11以降の日本の宗教研究において、宗教と公共性の関係が大きな主題として取りあげられてきた。そこでは主として復興支援における宗教の固有の役割が問われてきたが、同時に、原発に代表される科学技術に対し、宗教が独自の倫理的批判をなし得るのか、という問いも重要な位置を占めた。本研究発表では、キリスト教神学の立場から、イエスの食卓(サクラメント)を倫理的基盤とする「公共性」の解釈を試みる。そこから、エネルギー問題や環境問題を論じる際に必要となる倫理的視座を抽出すると共に、日本の宗教文化とも対話できる倫理的枠組みを提示する。それは公共性の中に宗教をいかに位置づけるかではなく、宗教の中に閉じ込められている「公共性」を解放する試みとして展開される。
1.議論の前提
1)3.11以降の原発批判および宗教と公共性をめぐる議論
日本の宗教界からの原発に対する応答については以下の論考を参照。島薗進「福島原発災害後の宗教界の原発批判──科学・技術を批判する倫理的根拠」、『宗教研究』87-2、2013年、107-127頁。小原克博「原発問題の神学的課題」、新教出版社編集部編『原発とキリスト教──私たちはこう考える』新教出版社、2011年、104-114頁。
2)食卓の「公共性」:食卓は社会秩序が反映されたミニマムな公共空間
例:トーラーの清浄規定。食卓における「罪人」(ルカ7:39)、ペトロと異邦人との食卓(ガラ2:11-14)、ペトロの回心(使徒10:1-48)。
2.イエスの食卓(サクラメント)における倫理的視座
1)開かれた共食:「飲み食い」の場に現れる「神の国」
最後の晩餐(開かれた食卓の伝統、命を与えるイエス)、饗宴の譬え(マタ22:2-14、ルカ14:16-24)
2)万物の交流:聖餐(サクラメント)は、パンとぶどう酒といった自然物が神と人間の間を仲介して新たな共同性(公共性)を開示すると同時に、イエスのケノーシス(自己無化)を想起・現在化させる。
→ サクラメントの生態論的次元の認識(神田健次『現代の聖餐論―エキュメニカル運動の軌跡から』日本基督教団出版局、1997年、267-270頁)。人間中心的ではない間身体的認識。
3.結論──「公共性」変革のトポスとしてのイエスの食卓
近代国家における「公共性」は「現代世代」の「人間」の利益を最大化することを前提とする。科学技術はそのための道具とされる。こうした近代的枠組みを批判できる「公共性」概念が必要。
1) 食の倫理(徹底した解放と平等)
食やエネルギーの大量消費、貧富の格差を前提とする世界に対して
2)犠牲の倫理(ケノーシス、犠牲の終わり)
特定の人々(地域、生態系)の犠牲により成り立っている社会構造(エネルギー供給)に対して
3)記憶の倫理(身体的な記憶、記憶の身体性、世代間コミュニティ)
歴史的教訓を顧みない健忘症的な情報化社会、未来世代に対する無責任社会に対して