「「一神教と多神教」言説を読み解く」、『福音と世界』2014年3月号、10-13頁
はじめに──議論の歴史的経緯
「一神教と多神教」という言葉の組み合わせは比較的新しいものであるが、それが含意するところは長い歴史を持っている。「一神教」という言葉も、日本語は言うに及ばず、西洋語としても比較的新しいものであるが、その実体としてのユダヤ教、キリスト教、イスラームのいずれもが千年以上の歴史を持っている。こうした新しさと古さを合わせ持つ点から考えなければならないのは、「一神教と多神教」を単に現代の問題として取り扱うだけでなく、歴史な経緯の中に位置づけてこそ、言説としてのより正確な意味を取り出せるということである。それゆえ、「一神教」の概念史について後に取りあげるが、最初に、「一神教と多神教」言説が日本の文脈でどのような意味を持ってきたのかを簡単に振り返っておきたい。日本社会にとって一神教は、まずキリスト教として出会うことになった。「一神教と多神教」は、キリスト教と日本的伝統の対立として長い前史を持っている。一言で言うなら、反キリスト教的な感情や思想は、キリシタン時代以降、形を変えて現代に至るまで受け継がれている。江戸時代においては、緻密なキリスト教論駁の思想も見受けられるが、激しいキリシタン弾圧により、キリスト教が日本社会の表舞台から消え去った後、キリスト教は単に反体制的なものの代名詞として言及されることが、もっぱらであった。明治時代になると、キリスト教は「反国家的」あるいは「愛国的」でない宗教として批判されることになる。
その代表的な事例が、井上哲次郎によるキリスト教批判であろう。内村鑑三の不敬事件をきっかけに、井上は『宗教ト教育ノ衝突』(1893年)を著し、その中で次のように記している。「上来論述せるが如く、耶蘇教の東洋の教に異なる要素は四種なり、第一、国家を主とせず、第二、忠孝を重んせず、第三、重きを出世間に置いて世間を軽んず、第四、其博愛は墨子の兼愛の如く、無差別の愛なり、」(125頁)
この時代の日本人キリスト者の多くは「愛国的」要素を多かれ少なかれ有していたが、井上ら、国家主義者からすれば、キリスト教は国家に忠義を示さず、また伝統的な日本の価値観を理解することのできない存在として見られていた。井上のようにドイツで長く西洋哲学を学んで者であっても、キリスト教をかなり単純化して見ていたことがわかる。
「一神教と多神教」言説の単純化作用
得体の知れないもの、直視できない対象に対し、人はしばしば単純なレッテルを貼り、恐怖を低減しようとする。キリスト教はまさにそのような対象であった。「一神教と多神教」言説の第一の機能は、こうした単純化作用である。キリスト教一つをとっても、日本社会の中で十分な理解をされてきたとは言い難いが、それを含めて「一神教」と呼ぶ場合、その多様な内部構造は無視されてしまっている。ただし、問題はキリスト教や一神教を敵視する側にとどまらない。多くのキリスト教宣教師や日本人キリスト者は、日本宗教の多様性に関心を向けることなく、それらを「偶像崇拝」「異教」「多神教」として一括りにして批判してきた。こうした相互の単純化が「一神教と多神教」言説の前史に存在しており、結果的に、双方が向き合うことを疎外してきたと言える。
しかし、この問題が単に宗教的な言説にとどまらず、現実の社会問題の見方にまで影響を及ぼしていることに注意を喚起しておきたい。東日本大震災以降、自然観や宗教にかかわる議論が活発になってきているが、その中にも「一神教と多神教」言説は登場している。その一例を原発問題との関係で取りあげたい。
宗教学者・中沢新一は『日本の大転換』(2011年)において、原子力技術を一神教的な技術として理解し、一神教の神を「抽象そのものの神」「環境世界の外部にいて、そこから世界そのものを創造した神」(32頁)として特徴付け、自然の内的関係を重んじる日本の神々と対比的に描き出す。そして、モーゼの前に「無媒介に」出現した神の前では「生身の人間は心に防護服でも着装しないかぎりは、心の生態系の安定を壊されてしまうだろう」(36頁)と中沢は語る。ここで聖書の神は放射能の恐怖にたとえられている。中沢の一神教批判から学び取るべき認識の一つは、日本社会において、キリスト教を含む一神教は、放射能にも比する存在として見られているということである。中沢の論は単純化の一例であるが、日本の読者の中には少なからず共感を呼び起こすと思われる。
ところが、実質的に批判の対象となっているキリスト教の中には、自らを一神教として理解する感覚が乏しいだけに、このような言説は見過ごされ、同型の議論が今後も再生産されていく可能性が高い。では、そもそも一神教とは何なのか。そのことを次に素描してみたい。
一神教の概念史
一神教とは唯一の神を信じる宗教に対する総称であり、広い意味では、古代エジプトのアトン信仰や古代インドのヴェーダの宗教などを一神教に分類する場合もあるが、一般的には、中東生まれの一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラームを指す。一神教という言葉は、近代の西洋において考案された。文献的には17世紀、ケンブリッジのプラトン主義者ヘンリー・モアによって、キリスト教に独自な神論として導入されたことが確認される。近代になり、交易の拡大と共に、様々な世界の宗教についての知識が流入していく中で、他の宗教と比較して、キリスト教の独自性や優位性を説明する言葉が一神教であった。しかし、歴史的には兄弟宗教と言えるユダヤ教・イスラームに対し、西洋キリスト教が一神教的連帯意識を持つことはなかった。むしろ、近代言語学の発展と共に、キリスト教は自らをヘレニズム的あるいはアーリア的(脱セム的)存在として位置づけ、ユダヤ教・イスラームに対しセム的イメージを与え、自らの優位性を高めようとした。こうした傾向の帰結の一つとして、ナチスの反ユダヤ主義(人種優性政策)をあげることができる。
ちなみに、ユダヤ教やイスラームの立場からすれば、イエスに神性を認め、三位一体という神理解を持つキリスト教は一神教的伝統からの逸脱として見られる。しかし同時に、イスラームはユダヤ教とキリスト教を「経典の民」、同じ神に連なる一神教徒として理解している。つまり、西洋キリスト教の場合と異なり、イスラームは一神教的連帯意識を持ってきた。ただし、その連帯意識も、十字軍や、西洋列強による植民地化により、大きく傷つけられてきたことは言うまでもない。
宗教間対話の場から見た「一神教と多神教」
一神教を概念として整理してきたが、次に、それが実際の一神教同士の接触や対話の中で、どのように理解されているのか、また、多神教がどのように見られているのかを、私自身の宗教間対話の経験を交えて考えてみたい。私は一神教学際研究センター長として、数々の宗教間対話の集会や国際会議に参加し、また、自らもそれを企画・主催してきた。サウジアラビアやカタールが主導する、宗教間対話のための大規模な国際会議があるが、そこで語られる「宗教」は、仏教やヒンドゥー教などが表現として言及されるものの、実質的には「一神教」と同義として理解されている。さすがに、こうした会合では仏教などを「偶像崇拝」「異教」と呼ぶことはないが、多神教は「一神教」のカテゴリーに入らない、宗教の外縁に位置する「文化的存在」と見られていることが多い。こうした実情を考慮すると、国際的な舞台においても一神教と多神教との間には、宗教学的な中立性とは異なる、微妙なギャップがあることがわかる。しかしそれは、すでに見てきた日本における言説のように、必ずしも対立的・敵対的なものではなく、むしろ概念的な棲み分けによって対立を回避している面がある。
イスラーム主導の宗教間対話の場においては、一神教的連帯はしばしば強調され、唯一なる神への信仰が至高の価値とされる。イエスはイスラームにとって偉大な預言者であり、絶大な敬意をもって見られているので、イエスについて語ることは、まったく問題はない。しかし、イエスを三位一体の一位格として、すなわち、神として強調することは、通常、宗教間対話の場ではタブーの一つである。
神学的な課題
では、キリスト教はどのような意味で一神教なのだろうか。三位一体論は、そのような問いの中で形成されてきた。キリスト教の神理解が三位一体論を中心に伝承されてきた結果、一神教であるという自己理解が希薄であるだけでなく、それが批判されることもある。たとえば、ユルゲン・モルトマンは『三位一体と神の国』(1990年)の中で「唯一神論と専制君主制とは、同じ事柄の二つの面に過ぎない」(218頁)と語り、積極的に唯一神論への批判を展開する中で、三位一体の重要性を説いている。モルトマンにとっては、三位一体は「開かれ、さし招き、統合を可能とするような一性」(247頁)として理解されており、ただの唯一神論は排他性の象徴と見なされる。
確かに、このような理解は、キリスト教の歴史を振り返るときには、重要な自己批判として機能するだろう。しかし、ユダヤ教やイスラームを交えた対話の場では、このような主張が、その意に反して、過剰なまでの排他性を帯びてしまうことに注意すべきであろう。
おわりに
日本の例で見てきたように、問題を「一神教」に押しつけ、問題を外部化しながら、自文化を賛美することは、健全な言論とは言えない。同時に、「多神教」や「一神教」を優越的な視点から単純化したり、外部化してきた歴史をキリスト教が持つとするなら、そこにも類似した問題があると考えるべきである。他者と向き合うことは、いつの時代も困難である。そのチャレンジングな課題が、深い歴史的な根を持つことを「一神教と多神教」をめぐる言説は教えてくれている。(同志社大学 神学部 教授)
【参考文献】
・小原克博『宗教のポリティクス──日本社会と一神教世界の邂逅』晃洋書房、2010年(特に第4章)。
・小原克博「原発問題の神学的課題」、新教出版社編集部編『原発とキリスト教──私たちはこう考える』新教出版社、2011年、104-114頁。