講演「宗教と教育の危険な関係」、日本仏教教育学会 第20回学術大会シンポジウム「仏教と教育と臨床──改めてつながり・縁を問う」、大谷大学
1.はじめに──臨床とは
「臨床」という言葉は多義的であり、臨床を冠した言葉の中には単に「臨床ブーム」に便乗しているだけのものも少なくない。「臨床」という視座によって何が変わるのか、どのような方法論的特徴があるのか。「臨床教育学」も同様の課題を負っている。ここでは「臨床」という言葉を思弁的に振り回すことをせず、「歴史的・社会的な現場」として位置づけ、宗教と教育の関係について考えてみたい。
2.歴史的な現場──宗教と教育
宗教と教育の関係を考える際、両者が歴史的にどのような関係にあったのか、を踏まえておくことが重要である。ここでは、近代日本における「教育と宗教の衝突」論争を一例として取り上げたい。各界に飛び火した、この論争は、内村鑑三の不敬事件(1891年)を契機として始まり、国家主義的道徳主義のイデオローグであった井上哲次郎(東京帝国大学 哲学教授)が中心となって、キリスト教批判の論陣を張った。井上は、普遍的な愛を説くキリスト教は国家への忠誠を尽くすことができないと批判した。国家道徳を至上の価値とする井上にとっては、キリスト教だけでなく仏教もまた不要な存在であり、道徳こそがすべての宗教の上に立つ「理想教」であった。好む好まずとにかかわらず、ほとんどすべての宗教が国家道徳の一部となって戦争協力の道を歩むことになった。
戦後の教育では、戦前の国家と宗教(国家神道)の強い結びつきへの反省から、公教育から宗教教育は一掃されることになる。そして、宗教性を排除した新しい道徳教育が公教育の中で制度化されていった。このような歴史的経緯を踏まえ、宗教と教育の関係、仏教と教育の関係を考えていく必要がある。仏教は公教育が抱えている諸問題にどのような貢献ができるのか。あるいは、「臨床」の場を仏教関係学校に自己限定すべきなのだろうか。宗教と教育のもたれ合い的「つながり」ではなく、批判的な相互関係が求められる。
3.社会的な現場──グローバル化・宗教の多元化が進む社会の中で
日本仏教は社会的現実をどの程度、またどれくらいの範囲で視野に入れているだろうか。若者たちがグローバル社会で生きていくためには、宗教であれ、教育であれ、国際社会を無視することはできない。身近に安住の場を求める若者たちに対し、国内外の猥雑な、しかし、生きた「現場」に向かわせる動機付けを、宗教や教育はどのように提供することができるのだろうか。
国際社会は宗教多元化が進行している場でもある。宗教多元社会に対応した仏教教育は、どのような形でなされているのだろうか。日本文化の核にある日本の幅広い宗教伝統を学ぶことも、自らの宗教的・文化的アイデンティティの形成には必要であろう。
(2011年10月29日)