講演「人格と尊厳をめぐる神学的・倫理的考察──古代世界の葛藤から現代の認知症まで」、日本基督教学会第59回学術大会、シンポジウム「生命科学・倫理・キリスト教」、同志社大学
【講演要旨】
我々が日常的に使っている「人格」という概念は長い歴史を持っており、それゆえに多義的である。しかし、医療の現場、とりわけ終末期医療において、人格をどのように理解するかは、患者の延命の仕方にもかかわってくる重要な倫理的次元を有しており、人格およびそれに付随する「尊厳」について問題点を整理することは急務とも言える。特に、この問題が切実となるのは、認知症患者のケアに関してである。本発表では、こうした課題に向き合うための準備作業として、西洋における人格概念の形成を素描し、それを受容した日本社会において(西洋とは異なる)倫理的な問題点がどこにあるのかを考察する。
「人格」は西洋語のpersonの訳語として、日本社会においてすでに定着している。しかし、当の西洋において、この語が人間一般に対して使われるようになったのは、それほど遠い昔のことではない。啓蒙思想の人間中心主義の中で、特にデカルト以降、「人格」概念が広く使われるようになってきたが、それ以前、personと結びつけられてきたのは、もっぱら「神」であった。三位一体をめぐる議論に代表されるように、personとは何かという問いは、高度に神学的な議論に属していた。三位一体のそれぞれの位格(ペルソナ)を実体的にとらえるか、関係論的にとらえるか、という問いもそこに含まれており、これは今日の「人格」理解においても重要な意味を持っている。
西洋社会の近代化・世俗化の中で、「人格」はキリスト教の教義とは切り離され、人間の尊厳の根拠として理解されていく。ただし、「人格」概念は医療技術の発展の中で、その定義を大きく揺さぶられており、人格と人格を持たないものの間の境界設定の議論(パーソン論)は、ヒト胚から認知症患者に至るまで、なおも安定した答えを見いだしていない。
「人格」概念を狭く設定することは、認知症患者の排除につながる。しかし、「人格」概念を無制限に拡大すると、限られた医療資源の中で、一切の延命治療(胃ろうの設置もその一部)が正当化され、促進されることになる。
パーソン論の一部に見られるように、「人格」を合理的な思考ができる自律した人間のみに認めると、認知症患者はその対象から外れていく。確かに、末期における理解力の低下、記憶の喪失は顕著であり、その中で、合理的思考を保持することのできる人格は「実体」としては存在しない。それでも、人間に尊厳があると言えるのは、家族をはじめとする人間社会こそが尊厳という理念を補完することができるからである(人格の関係論的理解)。
ただし、日本の医療現場では家族の論理が優先され、個人の自己決定権が軽視される傾向が強く、それが過剰な胃ろう設置の一因になっているとも言われているので、個人倫理(実体的人格)と家族倫理(関係論的人格)のジレンマについても考える必要がある。
(2011年9月7日)