研究活動

研究活動

金城学院大学キリスト教文化研究所編『宗教・科学・いのち――新しい対話の道を求めて』

book200608.JPG目 次

第1部 宗教の見る現実・科学の見る現実(シンポジウム:宗教の見る現実・科学の見る現実
 意味と現実―無限の神秘を前にした人間の思考(ハインリッヒ・オット)
 オット教授の講演を聴いて(小野知洋、横山輝雄)
 近さと隔たり―シンポジウムに関する覚書(竹田純郎)

神学と科学―私たちは何処にいるのか(テッド・ペータース)
キリスト教と進化論(芦名定道)
「宗教と科学」に見る近代化の諸相―進化論を中心にして(小原克博)
生命との対話―人体標本が示すもの(小林身哉)

第2部 差別・差異の克服としての信仰
「いのち」の教育―ターミナルケアの視点から(柏木哲夫)
難病患者の心理・社会的問題―ソーシャルワークの視点から(浅野正嗣)
ハンセン病文学とキリスト教(森田進)
同性愛とキリスト教―アメリカ長老教会のゲイ按手礼問題を中心に(藤井 創)
フォースターは見た、言った、聞いた―「訪れ」を待ちながら(ドライデンいずみ)
差別される性―日本古代・中世逸話における女・蛇と仏教(筒井早苗)
宗教における生と死(横井征彦)



「宗教と科学」に見る近代化の諸相―進化論を中心にして

小原克博

1.はじめに――宗教と科学が語られる文脈への問い
 「宗教と科学」を書名に含んでいる文献、あるいは宗教と科学の関係をテーマとして扱う文献の数は、驚くほど多い(特に英語圏において顕著である)。なぜ、宗教と科学の関係は、人々の関心を喚起し続けるのであろうか。互いに相反する要素を持ったもの同士を関連づける、ある種の快楽のようなものが、そこでは作用しているのであろうか。この分野に関して数え切れないほどの文献が存在するものの、宗教と科学の関連づけについては、いくつかの類型を見いだすことができる。
 もっとも代表的な類型は、宗教と科学は互いに異なる領域であるが、相補的な関係にある、というものである。すなわち、両者を敵対的な関係に置かず、むしろ、宗教は科学に、科学は宗教に学ぶことができる、という調和的な立場である。ジョン・ポーキングホーン(物理学)、イアン・G・バーバー(物理学)、アーサー・ピーコック(生物学)、チャールズ・A・クールソン(化学)らは、それぞれ土台にしている科学の専門分野は異なるものの、いずれも、宗教と科学の共通項や相補的関係を見いだそうとする、この種の類型の代表的人物である。
 また別の類型として、宗教と科学の相違点を強調することによって、相互に干渉すべきではないという主張がある。宗教と科学は、真理探究の方法論や目的がそもそも異なるのであるから、無理な関係づけをせず、すみ分ける方がよい、という考え方である。これは、米国における進化論論争や、その現代版であるインテリジェント・デザイン(多様で緻密な生命種の誕生には知的な設計者がかかわった、という説)論争をめぐる宗教右派とリベラル派の対立にうんざりした科学者たちから、しばしば発せられる声でもある。この立場から見れば、聖書の創造物語(創造説)やインテリジェント・デザイン論が宗教の時間に教えられることは何ら問題ではないが、それを科学の時間に教えることは、科学への不当な干渉ということになる。宗教と科学を厳格に区別することは、科学の独立性や自立性を守るために重要であるだけでなく、「政教分離の原則」に適ったことだと考えるのである。
19世紀後半から20世紀前半にかけては、自然科学の立場からの積極的な宗教批判も見受けられたが、今日では、宗教を非科学的として露骨に批判する例はあまり多くない。科学が宗教の引力圏から十分に脱した今日、進化論論争などの例外をのぞけば、科学が宗教を積極的に批判するメリットはほとんどないからであろう。
 では、宗教の側から科学へと積極的にアプローチしようとする理由はどこにあるのだろうか。宗教と科学を相補的に考えようとする最初にあげた類型においては、まさにこの積極的アプローチが明確に現れている。科学の側が宗教に対し関心を示し、それに宗教が応じているのではない。科学の宗教に対する関心の有無にかかわらず、宗教が科学に対し一方的とも言える情熱を向けるのはなぜか。
 その理由の一つとして、科学が持つ普遍性・公共性への憧れをあげることができるだろう。科学は、言語、文化、エスニシティの違いをものともせず、それを修得する者に対し、普遍的な適用可能性を提供する。この普遍性は、かつて宗教が誇っていた属性の一つであった。宗教にとって、真理が真理として成り立つ要件の一つは普遍性であった。場所や時代が変わったとしても、真理は変わらず妥当するはずだという信念がそこにはある。ところが、啓蒙主義時代以降、こうした宗教的真理の普遍性はもはや自明のものとはされなくなる。むしろ進化論を筆頭に近代科学の成果は、宗教の伝統的な教えを根底から揺さぶることになった。こうした近代主義との葛藤の中で、自ら抱え込んだ科学コンプレックスを解消するためにも、また、科学的な真理の普遍性に対し、対等な立場を示すためにも、宗教から科学への多様なアプローチが試みられてきたのである。
 こうした経緯を視野に入れたとき、これまで特に限定することなく使ってきた「宗教」という言葉の正体がはっきりしてくる。宗教と科学という問題設定の中で語られる宗教とは、圧倒的に「キリスト教」を指している。「宗教と科学」というきわめて一般化された表現は、そこで実際に問われているのが、近代化に成功した世界(西洋キリスト教世界)における「宗教と科学」である、という特殊事情を暗黙の内に隠してしまうことがある。問題点をさらにはっきりさせるために、そのことを言い換えれば、キリスト教以外の宗教は近代科学の対にはならない、という暗黙の前提が存在しているということである。
 宗教と科学の相補的な関係を問うことは、知的好奇心を鼓舞する魅力的なテーマである。しかし、その組み合わせが繰り返し語られる前提には、科学分野における西欧キリスト教世界の圧倒的な勝利宣言があるということを認識すべきであろう。この自己省察を欠いたまま、宗教と科学の関係を問うことは、結果的に、キリスト教こそ、他のすべての宗教に先立ち、またそれらを代表して、近代科学と対になり得る唯一の宗教であるという優越感と、他の宗教や文化に対する差別感情を増長させることになりかねない。
 この課題をより自覚的に受けとめていくために、本稿では宗教と科学の関係を批判的に問う事例として進化論を取り上げることにする。また、進化論に焦点を当てるのには次のような理由も関係している。第一に、進化論は、宗教と科学の決定的な分離を促す役割を果たしたからである。第二に、宗教と科学という専門性の高い研究領域において、狭い意味での学問を超えて、広く一般社会において論じられてきたテーマが、進化論だからである。第三に、キリスト教の暗黙の優越性を分析していくために、ダーウィンの進化論(ダーウィニズム)から派生した「社会ダーウィニズム」との関係を見過ごすことができないからである。第四に、キリスト教が近代化と対決した際、聖書批評学(高等批評)と並んで、近代主義の先兵と見なされたのが進化論だったからである。すなわち、進化論の問題は、単に宗教と科学の関係だけでなく、宗教と近代社会の関係を問うという意味で、我々が見るべき歴史的文脈を顕在化させてくれるのである。以上のような点に留意しながら、次に進化論を素材として、近現代における宗教と科学の関係を考察する。

(以下は本書をご覧ください)