書評「Ian G. Barbour, Nature, Human Nature, and God, Minneapolis: Fortress Press, 2002, 170p.」、『基督教研究』第64巻第2号
西欧、特に米国では、自然科学と宗教の関係を扱う領域が、キリスト教神学の中ですでに一定の位置づけを与えられている。本書の著者イーアン・バーバーは、そうした取り組みに長くかかわり、またその分野の第一人者と見なされている人物である。シカゴ大学で物理学の博士学位を取得し、カラマズー大学で物理学の教授として教鞭をとり始めたバーバーは、次第に宗教に対する関心を深め、神学の研鑽も重ねていく。1960年代から、カールトン大学を舞台として、科学と宗教の関係を主要なテーマとして展開してきた。1989~1991年には、ギフォード講演の講師を務めている。
この分野では、バーバーと同様、もともと自然科学を専門としていた人物が、後に神学研究を本格的に展開していくというケースが少なくない。そのような例として、チャールズ・クールソン(理論化学)、アーサー・ピーコック(分子生物学)、ジョン・ポーキングホーン(理論物理学)、ピエール・テイヤール・ド・シャルダン(古生物学)をあげることができる。彼ら一人ひとりの優れた業績もさることながら、彼らを輩出した西欧キリスト教世界において、科学と宗教とが対立しながらも密接に連関する豊饒な土壌があることを感じざるを得ない。
さて、バーバーの理解を知る上では、アメリカ宗教学会賞やテンプルトン賞を受賞した『宗教と科学――歴史的および現代的諸問題』(Religion and Science: Historical and Contemporary Issues, 1997)は重要な著作であるが、大部であるため、全体を把握するには、それなりの知識と関心が要求される。それに対し、今回書評として取り上げた最新刊『自然、人間の本性、神』は、クローン人間やヒトES細胞研究などの最先端の事例にも触れながら、全体が比較的コンパクトに構成されており、この分野の導入的な書物として読むこともできる。6章から成る本書は、進化論、遺伝学、神経科学、生態学などをテーマとして、現代科学によって提起される知見が、神学とどのように関係していくのか、また神学に対し、どのような問題を投げかけているのかを問いながら、その答えを見いだそうとしている。
第1章「導入」では、本書全体についての方法論的な説明がなされている。最初に、科学と宗教(本書における宗教とは主としてキリスト教のことである)の関係を4つの類型によって整理する。(1)対立:進化論と信仰は対立すると考える聖書直解主義者も、進化論はいかなる有神論とも両立しないと考える無神論的科学者も、この類型に入る。(2)独立:科学は客観的なデータを扱い、宗教は生の意味や価値観を扱う、といった形で、両者の作業領域を区分して、相互の干渉(対立)を防ごうとする類型である。(3)対話:科学と宗教の間に何らかの類似性を見いだし、一方が扱いきれない問題を他方が扱う、という相補的な関係を形成することができる。(4)統合:科学と宗教との間にいっそうの組織的統合を目指す類型である。ここでは、伝統的信仰と科学との両立可能性が模索されつつも、信仰のある部分が、科学的知識によって変革されることもあり得る。バーバーは『科学が宗教と出会うとき』(When Science Meets Religion, 2000)において、この4つの類型のそれぞれが歴史の中で現れてきたことを描写しているが、本書では彼の立場でもある「統合」の類型を基本にして議論が進められていく。
著者は、多くの科学者によって前提とされている唯物論や還元主義的なものの見方の問題性を指摘した上で、全体論(holism)を代案として提示する。そして、その立場を哲学的にもっとも強力に補強してくれるものとして、ホワイトヘッドのプロセス哲学をあげる。ホワイトヘッドに始まり、その後継者たちによって展開されていったプロセス思想・プロセス神学が、著者の方法論の中核にあると言ってよいであろう。実際、本書の各章には、科学的知見とプロセス思想との対話的構造が明瞭に見られる。
第2章「神と進化」では、進化論と神との関係に焦点を当てている。ダーウィンの進化論は、生物の突然変異と自然淘汰によって、生物進化の歴史を説明するが、そこではしばしば論争になってきたように、神の介在の機会が存在しないと考えられてきた。しかし、ダーウィン以降の進化論はダーウィンの進化論からは大きく変化してきていることを、著者は自己組織化、非決定論、上位から下位への因果性、情報のコミュニケーションといった点を中心に描写し、それぞれの作用を統合する高次の存在として神を位置づけようとする。しかし、その神は伝統的な意味での超越神ではなく、ジョン・カブやデイヴィッド・グリフィンらプロセス神学者たちの言うように、「創造的・応答的な愛」としての神であり、世界に影響を与えるだけでなく、世界から影響を受ける神であるという。
第3章「進化、遺伝学と人間の本性」では、進化論や遺伝学の成果が、キリスト教の人間理解とどのような関係にあるかが論じられている。生物の進化を、遺伝子の生存競争としてとらえようとする考え方や、遺伝子によって人間の運命が決定してしまうかのような考え方が流布しやすい時流に抗して、著者はキリスト教の人間観の意義を問い直そうとしている。神の似像としての人間、原罪理解、キリストによる贖いなどに注目しながら、それぞれのテーマの固有の価値を再確認し、それを進化の歴史の中に位置づけようとする。日本ではほとんど話題にならないが、米国で関心を引くテーマの一つに、地球外生命体と救済の関係がある。これに対しても、著者はきわめて真面目に応答を試みている。イエス・キリストにおいて働いた霊は、地球外の知的生命体に対しても、神の愛と和解の可能性を伝達するという。こうしたテーマの扱いの適否はともかく、宇宙開発事業に関して、米国と日本との間にある歴然とした格差が、神学的テーマの優先順位にも反映されていることがうかがい知れて興味深い。また、この章ではクローン人間、デザイナー・ベイビー(親の願望に適うように遺伝子操作された子ども)、ヒトES細胞研究についても言及されている。神に似せて創造された人間の尊厳性の視点から、クローン人間やデザイナー・ベイビーは否定されているが、ヒトES細胞研究や遺伝子治療は、難病の治療目的に限定されるのであれば、苦しむ者に対する愛の行為として肯定されるべきであると著者は考えている。
第4章「神経科学、人工知能と人間の本性」では、人間の行為を脳神経の相互作用の結果と見る決定論的な考え方や、脳の内部であれ、コンピュータ内部であれ、知性を情報処理能力と等値しようとする見方に対して、関連する学説の紹介を多彩に交えながら、そうした理解の限界を示し、合わせて、キリスト教の人間観の意義を再解釈しようとしている。キリスト教では、ギリシア思想の影響から心(魂)と体の二元論が影響力を持つようになったが、著者の理解によれば、それは旧約聖書的な人間理解、つまり、知性・理性・感情・肉体などが統合された人間という考えからは隔たっている。そして、聖書的な人間理解の方が、むしろ現代の神経科学の成果に近いということを著者は説明し、さらにそのことをプロセス神学の双極的一元論(dipolar monism)や有機的多元主義(organizational pluralism)の視点から補足している。
第5章「神と自然:プロセスの視点」では、自然との関係を念頭に置きながら、伝統的な神理解の見直しが試みられている。特に、全能、全知、不変、不動といった神の属性に対する問題提起が、自然の統合、悪・苦痛・人間の自由、十字架理解、および父権的な神モデルに対するフェミニストからの批判といった視点からなされている。そうした見直しの結果洞察される神の自己限定は、プロセス神学によれば、神の自発的行為によるのではなく、むしろ形而上学的必然性に由来しているという。そこから、神は他の存在を圧倒的な力で支配・制御するのではなく、かえって、それに力を与え、保護する存在として理解されるのである。この章では、かなり具体的にプロセス思想の考え方が展開されているが、そこで論じられている、脱ヘレニズム的な指向性をもった関係論的な神理解が、思想的な試みとしては評価されるにせよ、信仰上のリアリティとしてどの程度受容されるかについては多少疑問が残る。
第6章「神学、倫理、環境」では、環境問題に対する宗教と科学のかかわりについて論じられている。キリスト教に対して、環境問題に関する原因追及をなしたリン・ホワイトの主張から、二つの批判軸、すなわち、神と自然の二元論および人間と自然の二元論の問題性を取り上げ、それらに対するプロセス神学からの代案を提起している。プロセス神学によれば、すべての存在は神に対し固有の価値を有しているが、それらはまったく同じ価値を持っているわけではない。プロセス思想は存在の階層性を前提にしており、その意味で、生命中心的な全体論と動物権利論に見られるような個別主義との間に位置していると言える。生態系の価値を優先するか、個別の生命の価値を優先するかは、環境倫理学で論争されてきたテーマであるが、プロセス思想は中庸を選ぼうとしていると言える。この章で著者は、環境問題に関連する世界の諸問題に言及しながら、科学と宗教が、より適正で持続可能な社会を形成するために、共に貢献し得ることを強く主張している。
以上、本書の概略を述べてきたが、いずれの章においても、現代科学の諸説が幅広く紹介され、また、それに対応するキリスト教の思想や歴史的背景が簡潔に紹介されている。その意味で本書は、現代における科学の課題と神学の課題とを同時に学び、考えることのできる機会を提供していると言えるであろう。また、科学と宗教の関係を扱う研究領域における到達点の一つを、この書において典型的な形で見ることもできる。プロセス思想が方法論として用いられるという特徴は、他の類書でもしばしば見受けられる。別の視点から見ると、プロセス思想を媒介としなければ、科学と宗教の積極的関係は説明され得ないのか、という疑問も出てくる。
本書の骨格は、西欧型のキリスト教世界を前提としているが、同じテーマを日本で扱う場合、本書はどのように位置づけられるであろうか。ポーキングホーンらの邦訳は比較的多く出版されてはいるものの、日本では、科学と宗教をテーマとした学際的研究は社会的に認知されているとは言い難い状況にある。おそらく、宗教的日常世界から見るなら、自然科学の問題設定はきわめて抽象的で現実味のないものとして映っているに違いない。実際、本書で扱われた進化論をめぐる議論などは、米国では1世紀に及ぶ歴史的テーマであっても、日本でそのリアリティを同じように共有することは困難であろう。科学をめぐる関心事は文化によって規定されている部分がかなりあるので、関心のずれがあるのは、ある意味で当然である。しかし、その一方で、現代人が抱えている苦悩には、科学、特に生命科学と結びついているものが少なくないという事実を見過ごすことはできない。不妊治療やアルツハイマーの治療に典型的に見られるように、科学や医学の成果を待ちながらも、なお解決できない苦悩は無数に存在している。そこには、医療技術の進展によって新たに生み出されつつある苦悩もある。つまり、現代社会の苦悩を真摯に見据えようとするなら、そこには科学と不可分の領域が多数存在しているのであり、その意味で宗教は、もはや単純に「科学嫌い」ではあることはできない。したがって、そうした課題を少しでも積極的に受けとめようとするなら、本書に含まれているような課題を、それぞれの文化圏で引き受けていく必要がある。
また、比較的、われわれの身近に感じられることとして、科学と宗教のねじれた結合関係がある。オウム真理教の例をあげるまでもなく、現代日本の新興宗教は、しばしば科学的な装いをセールス・ポイントとする傾向がある。オウムの場合、麻原のDNAが特別な力を持つものとして喧伝されていた。地下鉄サリン事件(1995年)以降、なぜ高度な科学教育を受けた者たちが、カルト宗教などに魅了されてしまったのか、といった疑問が繰り返し出されてきた。その問いに答えることは本書評の目的ではないが、多くの人が示した対応策の一つは、科学教育をもっときちんとすべきだ、という類のものであった。科学教育が徹底していれば、空中浮遊などの非科学的現象に惑わされることもない、というのである。果たしてそうであろうか。
科学教育を徹底した果てに、宗教的な関心事を駆逐できると思いこんでしまうとすれば、再度大きな過ちが起こりかねない。本書で試みられていたような形で、科学と宗教が統合的な地平を見いだすことができるかどうかは、われわれ自身の文化的文脈に即して考えてみる必要がある。その点で本書は、われわれが考えるべき問題設定の一つのモデルを示してくれていると言える。
精緻な科学教育を行ったとしても、宗教教育(宗教知識教育)がまったく欠落していたとするなら、ある種の宗教が人間の満たされぬ欲望を幻惑の内に肥大化させる悪魔的な装置として、現代人の心の隙間に入り込んでくることを容易なことであろう。また、宗教に深く関与していたとしても、科学がもたらすリアリティの変化に鈍感であれば、人々の苦悩や構造的な悪の問題に背を向けることになりかねない。科学と宗教の理解が一筋縄にはいかないことを本書は雄弁に語っているが、まずはその端的な事実に目を向けていくべきではなかろうか。
この分野では、バーバーと同様、もともと自然科学を専門としていた人物が、後に神学研究を本格的に展開していくというケースが少なくない。そのような例として、チャールズ・クールソン(理論化学)、アーサー・ピーコック(分子生物学)、ジョン・ポーキングホーン(理論物理学)、ピエール・テイヤール・ド・シャルダン(古生物学)をあげることができる。彼ら一人ひとりの優れた業績もさることながら、彼らを輩出した西欧キリスト教世界において、科学と宗教とが対立しながらも密接に連関する豊饒な土壌があることを感じざるを得ない。
さて、バーバーの理解を知る上では、アメリカ宗教学会賞やテンプルトン賞を受賞した『宗教と科学――歴史的および現代的諸問題』(Religion and Science: Historical and Contemporary Issues, 1997)は重要な著作であるが、大部であるため、全体を把握するには、それなりの知識と関心が要求される。それに対し、今回書評として取り上げた最新刊『自然、人間の本性、神』は、クローン人間やヒトES細胞研究などの最先端の事例にも触れながら、全体が比較的コンパクトに構成されており、この分野の導入的な書物として読むこともできる。6章から成る本書は、進化論、遺伝学、神経科学、生態学などをテーマとして、現代科学によって提起される知見が、神学とどのように関係していくのか、また神学に対し、どのような問題を投げかけているのかを問いながら、その答えを見いだそうとしている。
第1章「導入」では、本書全体についての方法論的な説明がなされている。最初に、科学と宗教(本書における宗教とは主としてキリスト教のことである)の関係を4つの類型によって整理する。(1)対立:進化論と信仰は対立すると考える聖書直解主義者も、進化論はいかなる有神論とも両立しないと考える無神論的科学者も、この類型に入る。(2)独立:科学は客観的なデータを扱い、宗教は生の意味や価値観を扱う、といった形で、両者の作業領域を区分して、相互の干渉(対立)を防ごうとする類型である。(3)対話:科学と宗教の間に何らかの類似性を見いだし、一方が扱いきれない問題を他方が扱う、という相補的な関係を形成することができる。(4)統合:科学と宗教との間にいっそうの組織的統合を目指す類型である。ここでは、伝統的信仰と科学との両立可能性が模索されつつも、信仰のある部分が、科学的知識によって変革されることもあり得る。バーバーは『科学が宗教と出会うとき』(When Science Meets Religion, 2000)において、この4つの類型のそれぞれが歴史の中で現れてきたことを描写しているが、本書では彼の立場でもある「統合」の類型を基本にして議論が進められていく。
著者は、多くの科学者によって前提とされている唯物論や還元主義的なものの見方の問題性を指摘した上で、全体論(holism)を代案として提示する。そして、その立場を哲学的にもっとも強力に補強してくれるものとして、ホワイトヘッドのプロセス哲学をあげる。ホワイトヘッドに始まり、その後継者たちによって展開されていったプロセス思想・プロセス神学が、著者の方法論の中核にあると言ってよいであろう。実際、本書の各章には、科学的知見とプロセス思想との対話的構造が明瞭に見られる。
第2章「神と進化」では、進化論と神との関係に焦点を当てている。ダーウィンの進化論は、生物の突然変異と自然淘汰によって、生物進化の歴史を説明するが、そこではしばしば論争になってきたように、神の介在の機会が存在しないと考えられてきた。しかし、ダーウィン以降の進化論はダーウィンの進化論からは大きく変化してきていることを、著者は自己組織化、非決定論、上位から下位への因果性、情報のコミュニケーションといった点を中心に描写し、それぞれの作用を統合する高次の存在として神を位置づけようとする。しかし、その神は伝統的な意味での超越神ではなく、ジョン・カブやデイヴィッド・グリフィンらプロセス神学者たちの言うように、「創造的・応答的な愛」としての神であり、世界に影響を与えるだけでなく、世界から影響を受ける神であるという。
第3章「進化、遺伝学と人間の本性」では、進化論や遺伝学の成果が、キリスト教の人間理解とどのような関係にあるかが論じられている。生物の進化を、遺伝子の生存競争としてとらえようとする考え方や、遺伝子によって人間の運命が決定してしまうかのような考え方が流布しやすい時流に抗して、著者はキリスト教の人間観の意義を問い直そうとしている。神の似像としての人間、原罪理解、キリストによる贖いなどに注目しながら、それぞれのテーマの固有の価値を再確認し、それを進化の歴史の中に位置づけようとする。日本ではほとんど話題にならないが、米国で関心を引くテーマの一つに、地球外生命体と救済の関係がある。これに対しても、著者はきわめて真面目に応答を試みている。イエス・キリストにおいて働いた霊は、地球外の知的生命体に対しても、神の愛と和解の可能性を伝達するという。こうしたテーマの扱いの適否はともかく、宇宙開発事業に関して、米国と日本との間にある歴然とした格差が、神学的テーマの優先順位にも反映されていることがうかがい知れて興味深い。また、この章ではクローン人間、デザイナー・ベイビー(親の願望に適うように遺伝子操作された子ども)、ヒトES細胞研究についても言及されている。神に似せて創造された人間の尊厳性の視点から、クローン人間やデザイナー・ベイビーは否定されているが、ヒトES細胞研究や遺伝子治療は、難病の治療目的に限定されるのであれば、苦しむ者に対する愛の行為として肯定されるべきであると著者は考えている。
第4章「神経科学、人工知能と人間の本性」では、人間の行為を脳神経の相互作用の結果と見る決定論的な考え方や、脳の内部であれ、コンピュータ内部であれ、知性を情報処理能力と等値しようとする見方に対して、関連する学説の紹介を多彩に交えながら、そうした理解の限界を示し、合わせて、キリスト教の人間観の意義を再解釈しようとしている。キリスト教では、ギリシア思想の影響から心(魂)と体の二元論が影響力を持つようになったが、著者の理解によれば、それは旧約聖書的な人間理解、つまり、知性・理性・感情・肉体などが統合された人間という考えからは隔たっている。そして、聖書的な人間理解の方が、むしろ現代の神経科学の成果に近いということを著者は説明し、さらにそのことをプロセス神学の双極的一元論(dipolar monism)や有機的多元主義(organizational pluralism)の視点から補足している。
第5章「神と自然:プロセスの視点」では、自然との関係を念頭に置きながら、伝統的な神理解の見直しが試みられている。特に、全能、全知、不変、不動といった神の属性に対する問題提起が、自然の統合、悪・苦痛・人間の自由、十字架理解、および父権的な神モデルに対するフェミニストからの批判といった視点からなされている。そうした見直しの結果洞察される神の自己限定は、プロセス神学によれば、神の自発的行為によるのではなく、むしろ形而上学的必然性に由来しているという。そこから、神は他の存在を圧倒的な力で支配・制御するのではなく、かえって、それに力を与え、保護する存在として理解されるのである。この章では、かなり具体的にプロセス思想の考え方が展開されているが、そこで論じられている、脱ヘレニズム的な指向性をもった関係論的な神理解が、思想的な試みとしては評価されるにせよ、信仰上のリアリティとしてどの程度受容されるかについては多少疑問が残る。
第6章「神学、倫理、環境」では、環境問題に対する宗教と科学のかかわりについて論じられている。キリスト教に対して、環境問題に関する原因追及をなしたリン・ホワイトの主張から、二つの批判軸、すなわち、神と自然の二元論および人間と自然の二元論の問題性を取り上げ、それらに対するプロセス神学からの代案を提起している。プロセス神学によれば、すべての存在は神に対し固有の価値を有しているが、それらはまったく同じ価値を持っているわけではない。プロセス思想は存在の階層性を前提にしており、その意味で、生命中心的な全体論と動物権利論に見られるような個別主義との間に位置していると言える。生態系の価値を優先するか、個別の生命の価値を優先するかは、環境倫理学で論争されてきたテーマであるが、プロセス思想は中庸を選ぼうとしていると言える。この章で著者は、環境問題に関連する世界の諸問題に言及しながら、科学と宗教が、より適正で持続可能な社会を形成するために、共に貢献し得ることを強く主張している。
以上、本書の概略を述べてきたが、いずれの章においても、現代科学の諸説が幅広く紹介され、また、それに対応するキリスト教の思想や歴史的背景が簡潔に紹介されている。その意味で本書は、現代における科学の課題と神学の課題とを同時に学び、考えることのできる機会を提供していると言えるであろう。また、科学と宗教の関係を扱う研究領域における到達点の一つを、この書において典型的な形で見ることもできる。プロセス思想が方法論として用いられるという特徴は、他の類書でもしばしば見受けられる。別の視点から見ると、プロセス思想を媒介としなければ、科学と宗教の積極的関係は説明され得ないのか、という疑問も出てくる。
本書の骨格は、西欧型のキリスト教世界を前提としているが、同じテーマを日本で扱う場合、本書はどのように位置づけられるであろうか。ポーキングホーンらの邦訳は比較的多く出版されてはいるものの、日本では、科学と宗教をテーマとした学際的研究は社会的に認知されているとは言い難い状況にある。おそらく、宗教的日常世界から見るなら、自然科学の問題設定はきわめて抽象的で現実味のないものとして映っているに違いない。実際、本書で扱われた進化論をめぐる議論などは、米国では1世紀に及ぶ歴史的テーマであっても、日本でそのリアリティを同じように共有することは困難であろう。科学をめぐる関心事は文化によって規定されている部分がかなりあるので、関心のずれがあるのは、ある意味で当然である。しかし、その一方で、現代人が抱えている苦悩には、科学、特に生命科学と結びついているものが少なくないという事実を見過ごすことはできない。不妊治療やアルツハイマーの治療に典型的に見られるように、科学や医学の成果を待ちながらも、なお解決できない苦悩は無数に存在している。そこには、医療技術の進展によって新たに生み出されつつある苦悩もある。つまり、現代社会の苦悩を真摯に見据えようとするなら、そこには科学と不可分の領域が多数存在しているのであり、その意味で宗教は、もはや単純に「科学嫌い」ではあることはできない。したがって、そうした課題を少しでも積極的に受けとめようとするなら、本書に含まれているような課題を、それぞれの文化圏で引き受けていく必要がある。
また、比較的、われわれの身近に感じられることとして、科学と宗教のねじれた結合関係がある。オウム真理教の例をあげるまでもなく、現代日本の新興宗教は、しばしば科学的な装いをセールス・ポイントとする傾向がある。オウムの場合、麻原のDNAが特別な力を持つものとして喧伝されていた。地下鉄サリン事件(1995年)以降、なぜ高度な科学教育を受けた者たちが、カルト宗教などに魅了されてしまったのか、といった疑問が繰り返し出されてきた。その問いに答えることは本書評の目的ではないが、多くの人が示した対応策の一つは、科学教育をもっときちんとすべきだ、という類のものであった。科学教育が徹底していれば、空中浮遊などの非科学的現象に惑わされることもない、というのである。果たしてそうであろうか。
科学教育を徹底した果てに、宗教的な関心事を駆逐できると思いこんでしまうとすれば、再度大きな過ちが起こりかねない。本書で試みられていたような形で、科学と宗教が統合的な地平を見いだすことができるかどうかは、われわれ自身の文化的文脈に即して考えてみる必要がある。その点で本書は、われわれが考えるべき問題設定の一つのモデルを示してくれていると言える。
精緻な科学教育を行ったとしても、宗教教育(宗教知識教育)がまったく欠落していたとするなら、ある種の宗教が人間の満たされぬ欲望を幻惑の内に肥大化させる悪魔的な装置として、現代人の心の隙間に入り込んでくることを容易なことであろう。また、宗教に深く関与していたとしても、科学がもたらすリアリティの変化に鈍感であれば、人々の苦悩や構造的な悪の問題に背を向けることになりかねない。科学と宗教の理解が一筋縄にはいかないことを本書は雄弁に語っているが、まずはその端的な事実に目を向けていくべきではなかろうか。