書評「東方敬信著『神の国と経済倫理――キリスト教の生活世界をめざして』」、『日本の神学』第41号
本書は、キリスト教信仰の視点から経済活動を評価し、そのあるべき姿を模索している。著者が青山学院大学の経済学部に所属しているという事情が、本書執筆の動機にある。著者が担当している講義科目「キリスト教経済倫理」の一部が本書のような形で刊行されたのは喜ばしいことである。
キリスト教信仰の視点から経済活動を考察する際、著者が念頭に置いているのは書名に記されているように「神の国」の視点である。冒頭において著者はアウグスティヌスの『神の国』を参照しつつ、「地的な国」に対応する「自己愛」と「天的な国」に対応する「神への愛」を区別する。この区別が、パブリックとプライベート、政治と宗教、国家と教会といった二元論的区別とは異なることに注意を促しながら、著者が示すのは、同じ経済活動が自己愛によってなされる場合もあれば、神の愛によってなされる場合もあるということである。その上で、著者は経済の領域において神の愛、神の救いの光を探求しようとする。
本書は経済倫理に関心を持つ者と社会倫理に関心を持つキリスト者を読者として想定している。経済とキリスト教の結びつきに関して、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を想起する読者もいるだろう。あるいは、キリスト教信仰の精神性に重きを置く者は、キリスト教と俗っぽい経済活動に何の関係があるのかといぶかしがるかもしれない。いずれのタイプの読者も本書を通じて、キリスト教と経済の関係についての見通しと展望を与えられるに違いない。それほどに本書が扱うテーマは多岐に及んでおり、そのすべてを網羅的に紹介することは困難であるが、さしあたり章ごとに特徴ある見解を紹介していきたい。
一章 経済倫理の課題と必然性
著者によれば、経済行為の究極の問いは「人間とは何者なのか」という問題である。そこらか著者は、経済学が前提としている人間理解へと考察を進めていく。その一例としてアダム・スミスが取り上げられている。アダム・スミスは一見、神を前提としない社会を想定しているようであるが、著者はアダム・スミスを正しく理解するためにはキリスト教的な人間観を無視することができないと考える。アダム・スミスが正義、仁愛、自制といった美徳を求めていることを指摘し、著者は経済学を「モラル・サイエンス」としてとらえようとする。それは、経済活動に倫理的視点が不可欠であることを端的に示している。
二章 キリスト教と経済
著者はヴェーバーのアメリカ視察の際のエピソードを紹介することによって、当時のアメリカ社会では商売上の取引のときにも、キリスト教信仰の有無が大きな役割を果たしていたことを示す。そして、宗教的エートスから合理的な経済活動を生じさせた西洋と対比させて、日本の近代化においては、宗教が近代化を推進するエネルギーにはなっておらず、それが結果的に日本の文化的近代化を遅らせたのではないか、と考える。西洋においてプロテスタンティズムが「魔術からの解放」を促進させたのに対し、日本の新宗教や新々宗教は魔術への逆コースになっているという。そうした状況に対し、著者はキリスト教の生活世界の有効性を論じようとする。キリスト教の生活世界とは「聖書に土台を置いている物語世界」であり、そこに家父長制度、血縁関係、社会的タブーから解放してくれる信仰共同体の可能性を見いだそうとしている。
三章 神の国と経済倫理
この章において、著者は経済倫理との関係で神の国の特徴を描写していく。「相互贈与性」を生み出す聖餐式、変革の希望を示す終末論的ヴィジョン、「再分配という政策」としてのヨベルの年、「配慮の倫理」を内包する十分の一の奉献と刈り入れの規定、排他的な民族主義を越え「開かれた共同体」を目指す社会的配慮などが、そこでは語られる。その中でも著者は「神の国」の終末論的特質を強調している。イエスによって弟子たちは希望に満ちた「生活世界」へと招かれたのであり、それを世俗内で実践するよう求められている。そうした聖書の事例を紹介することを通じて、著者は聖書のメッセージが経済倫理に深くかかわっていることを説得力をもって語っている。
四章 産業社会と産業精神
われわれは産業社会の中で生きているが、それは人類に経済的豊かさのみをもたらしてきたわけではない。たとえば、環境破壊、過労死の問題、南北の経済格差などの問題を受けとめていくためには、産業社会の歴史を批判的に検証していく必要がある。著者によれば、産業社会の精神は、隣人愛としてのプロテスタントの職業倫理から、ベンジャミン・フランクリンに代表されるような「成功の哲学」に変えられてしまった。本来のプロテスタント的な倫理から見れば、ヴェーバーの指摘した世俗内的禁欲の精神さえも、信仰の豊かさが失われた不安で孤独な精神であると著者は語る。
五章 グッド・ワーク(良い仕事)とは
産業社会が目指した豊かな消費社会は、皮肉にも、産業社会を成立させた勤勉の倫理を衰退させ、代わりに快楽追求を中心的価値とする「快楽原理」を生み出した。そうした状況に対し、著者が第三の道として提示しようとするのが「グッド・ワーク」である。それは単純に勤勉や快楽に偏ることなく「善く生きる」ことを目指すのであるが、その端緒を著者はキリスト教の職業観(天職)に求める。生産物にのみ目を向けるのではなく、むしろ生産の場における意味と目的を見いだす中で、産業社会の労働環境を人間化していく努力が必要であると論じている。
六章 産業社会の消費文化
消費社会が成立するためには商品が生産される仕組みだけでなく、人々の「消費欲求」を刺激するシステムが不可欠である。それを著者は消費主義、消費文化と呼ぶが、その延長線上に人間の幸福があると考えるのは幻想であるという。しかし、消費者の欲求の増大と、生産者による欲望を刺激する方策とは、そうした幻想を拡大するための「共犯関係」にあり、その点に著者は資本主義の根本的特質の一つを見ている。他方、聖書は貪欲を戒め、また消費欲求が争いを引き起こすことへの警告を発している。そのような聖書的価値観を前提として、著者の関心は、消費生活によって引き起こされた環境危機に応答することのできる神学的基盤の必要性にも向かっていく。
七章 所有の問題
経済活動にとって所有の概念は重要な役割を果たしているが、近代の所有権に根拠を与えた人物としてジョン・ロックがいる。ロックは、身体がその人のものであるという前提に基づき、その身体を使った労働の結果、所有が生じると考えた。また、その所有空間を各人が拡大しようとする結果、競争社会や「所有的個人主義」が成立してきた。著者は、近代の所有概念の背景にキリスト教との関係があることを指摘し、同時に、所有的個人主義は、三位一体の神のもとに人間を社会的存在と理解してきたキリスト教的人間観からの逸脱であると考える。そうした違いを明示するために、著者は「ビブリカル・スタンドード」を提示する。それによれば、世界の一切は「神の賜物」であり、土地も富も権威も神から人間に「受託」されているに過ぎないことを知るべきなのである。
八章 市場経済とキリスト教
アダム・スミスによれば、市場経済は需要と供給が自動的に調整されていく「自然的自由」によって成立しているが、著者は、そうした考え方に対する異論や批判意見を紹介しながら、近代経済学が市場経済をどのように理解してきたかを概観する。私有財産制度、利潤追求の自由、価格システムなどが機能していれば、市場経済は自動的に動き続けるという機械論的な世界像が、今日、その問題を露呈しているからこそ、経済倫理を考えることが必要とされているという。市場システムの中に、倫理を支えるような社会的美徳を育む力が存在しない以上、そうした美徳を育む、より大きな文脈を発見し直さなければならない、と著者は考えるのである。
九章 功利主義とキリスト教
功利主義は、「快」と「不快」のバランスをもとにして、快を最大限増大させること、言い換えれば、効用をもたらす財の生産を極大化することを是とする論理であるが、この考え方が経済学に与えてきた影響力と問題点とを著者は指摘する。特に、アマルティア・センの言説を参照しながら、功利主義やそれに続く社会的ダーウィニズムが前提とする人間観は倫理的に貧困であることを語る。それに対し、著書が考える「キリスト教経済」は、生産と消費と分配とをキリストの生に向かって奉仕するようにするのであり、経済活動を「神の生活世界」という目標に向かわせる。それは単に「盗んではならない」「貪るな」の規範にとどまらず、見返りを求めないで貸す、という愛に満ちた正義にまで及んでいく。
一〇章 環境と産業社会
産業社会の発展が内包する負の側面を、もっとも端的に示す事例が環境破壊の問題である。また、高度消費社会に起因する大量生産と大量消費の行き着く先には、地球資源の枯渇の問題がある。こうした課題に真剣に取り組もうとすれば、従来の高度消費社会を継続することはもはやできないのであり、生活の質的転換をはかっていく必要がある(著者は生活の快適さを「アニメティ」と呼んでいるが「アメニティ」の間違いであると思われる)。そして、聖書の自然観や、ドストエフスキー、現代神学者サリー・マクフェイグの言葉を取り上げながら、著者は、責任ある消費生活と環境的正義を支える神学的基礎は、創造者なる神が人間に必要なものを賜物として与えていることへの感謝から始まると主張する。
一一章 飢餓と解放の神学
食料生産は世界人口を養うのに十分な量がありながら、世界人口の四分の三が飢餓に苦しんでいる。ここには明らかに分配の問題があるが、それを顕在化させ、貧富の差を新しい地球社会の課題として解決していくために、著者は「神の国のヴィジョン」が役立つという。また、そうした問題を考えるために欠くことのできない神学的視点として、解放の神学が取り上げられている。世界と教会とを同じ地平で考えようとするグティエレスに一定の理解を示しつつも、著者は希望の先取りとしての信仰共同体である教会に対し、特にその聖餐式に注意を向ける。なぜなら、著者は、聖餐式に秘められた「相互贈与性」や「生の連鎖」こそが生活の質的転換をもたらし、飢餓の問題の解決につながっていくと考えるからである。
以上、本書が扱っているテーマや論点を概観してきたが、最後に評者が本書を通じて考えさせられ、今後の課題として受けとめている事柄について述べる。
本書における著者の関心事は多岐に渡っているが、全体を通じて、ある種の構図が感じられた。すなわち、著者は一方で、倫理的規範性を失った結果、数々の問題を抱えている資本主義社会・産業社会を見据え、他方では、倫理的規範性を提供する可能性をもったキリスト教に注視している。経済活動においても「キリスト教の生活世界」を求めようとする著者が、このような対比的構図を示しながら、キリスト教的価値観の有用性を説くことは当然理にかなっている。
しかし、本書の中で時折、キリスト教の有用性、あるいは他宗教に対する優位性が過度に強調されているのではないかと感じることもあった。たとえば、日本の宗教性の課題を論じる際に、著者は新宗教あるいは新々宗教は「魔術の園への逆コース」であるとし、対比的にプロテスタンティズムの合理性を賞賛する。このような問題把握が一定の説得力を持っていることは言うまでもない。しかし、「魔術の園への逆コース」が現代社会にあふれていることを断罪したところで、本質的な問題解決にはならないのではないか。むしろ、プロテスタント的な合理性に基づいて形成された社会の閉塞感から何とか逃れ出たいという欲求が、「魔術の園」では吐露されているのであり、その現実を直視すべきであろう。これはハリー・ポッターなどの「魔法もの」が世界中で話題になっていることとも無関係ではない。
同様のことが、祖先崇拝批判についても言える。プロテスタント的合理性からすれば、祖先崇拝と結びついた家族制度は、人格的な自立を妨げる非合理的・前近代的システムとして容易に批判することができる。しかし、アジアやアフリカを中心に、多くの国々では祖先崇拝の影響力は無視できないほど強力である。これを前近代的として切り捨てる行為は欧米の宣教師たちによって繰り返しなされてきた。
しかし、それが結果的に欧米の文化および経済の優位を暗黙の内に押しつける構造を醸成してきたのではなかろうか。こうした問題を乗り越えていくために、著者が提起している、聖餐式のもつ「生の連鎖」の意義を積極的かつ具体的に拡張し、世代間をつなぐ「生の連鎖」にまで視野を広げていくことを、評者としては期待したい。それによって祖先崇拝を踏襲するのではなく、未来世界にふさわしい形でリフォームすることができるなら、その作業は同時に、著者の関心事の一つである環境的正義の実践にも寄与することになるであろう。
本書には、今日の経済や資本主義社会をキリスト教の倫理によって、とりわけプロテスタント的倫理によって、少しでも健全なものにしたいという情熱が満ちている。そこには、著者と共にわれわれが負っていかなければ課題が示されている。しかし、同時にわたしが思うのは、この情熱をたとえばイスラーム世界の人々はどのように感じるだろうか、ということである。彼らにとって、資本主義の論理もキリスト教的な規範性も、等しく彼らを追いつめ、抑圧するものとして同じ地平に置かれている。グローバル経済の中で、キリスト教の正義を声高に唱えることは可能であろう。目下のグローバル経済は、やはり北側の先進資本主義国家を利するために機能しているからである。
このような状況の中で、自己完結したキリスト教の正義が貫徹されたとしても、一体、何が変わるのだろうか。それは南側の国々を搾取することによってしか繁栄を保ち得ない北側の国々の罪責感をいやしてくれるかもしれない。あるいは、世俗化の荒波の中で自信喪失に陥りがちなプロテスタントに自尊心回復の機会を与えてくれるかもしれない。しかし、どのような正義であっても、キリスト教の文脈の中で自己完結していては、他者の求める正義と邂逅することはあり得ないであろう。
われわれは宗教多元的な世界に生きている。著者もそれを認識している。「もちろん、私たちは、キリスト者とそうでない者との連帯と協力を大いに考えていきたい。しかし、私たちは、希望の先取りとしての信仰共同体である教会の聖餐式の意味を考えてきた」(二二二頁)。ここで、さらにもう一度「しかし」という逆接を入れて反転したときに、どのような「神の国」が見えるのだろうか。その「神の国」はキリスト教の正義だけで満たすことができるのだろうか。
経済の問題は、人間の小賢しい宗教心をあざ笑うかのように、この世の現実を生々しく突きつける。その意味では、著者が本書を通じて取り組もうとしている問題群は、キリスト教が今後直面することを余儀なくされる文明論的な課題を先取りしているとも言える。そうした課題認識へと導きを与えてくれた著者の意欲的な取り組みに対し、あらためて賛辞を呈したい。
キリスト教信仰の視点から経済活動を考察する際、著者が念頭に置いているのは書名に記されているように「神の国」の視点である。冒頭において著者はアウグスティヌスの『神の国』を参照しつつ、「地的な国」に対応する「自己愛」と「天的な国」に対応する「神への愛」を区別する。この区別が、パブリックとプライベート、政治と宗教、国家と教会といった二元論的区別とは異なることに注意を促しながら、著者が示すのは、同じ経済活動が自己愛によってなされる場合もあれば、神の愛によってなされる場合もあるということである。その上で、著者は経済の領域において神の愛、神の救いの光を探求しようとする。
本書は経済倫理に関心を持つ者と社会倫理に関心を持つキリスト者を読者として想定している。経済とキリスト教の結びつきに関して、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を想起する読者もいるだろう。あるいは、キリスト教信仰の精神性に重きを置く者は、キリスト教と俗っぽい経済活動に何の関係があるのかといぶかしがるかもしれない。いずれのタイプの読者も本書を通じて、キリスト教と経済の関係についての見通しと展望を与えられるに違いない。それほどに本書が扱うテーマは多岐に及んでおり、そのすべてを網羅的に紹介することは困難であるが、さしあたり章ごとに特徴ある見解を紹介していきたい。
一章 経済倫理の課題と必然性
著者によれば、経済行為の究極の問いは「人間とは何者なのか」という問題である。そこらか著者は、経済学が前提としている人間理解へと考察を進めていく。その一例としてアダム・スミスが取り上げられている。アダム・スミスは一見、神を前提としない社会を想定しているようであるが、著者はアダム・スミスを正しく理解するためにはキリスト教的な人間観を無視することができないと考える。アダム・スミスが正義、仁愛、自制といった美徳を求めていることを指摘し、著者は経済学を「モラル・サイエンス」としてとらえようとする。それは、経済活動に倫理的視点が不可欠であることを端的に示している。
二章 キリスト教と経済
著者はヴェーバーのアメリカ視察の際のエピソードを紹介することによって、当時のアメリカ社会では商売上の取引のときにも、キリスト教信仰の有無が大きな役割を果たしていたことを示す。そして、宗教的エートスから合理的な経済活動を生じさせた西洋と対比させて、日本の近代化においては、宗教が近代化を推進するエネルギーにはなっておらず、それが結果的に日本の文化的近代化を遅らせたのではないか、と考える。西洋においてプロテスタンティズムが「魔術からの解放」を促進させたのに対し、日本の新宗教や新々宗教は魔術への逆コースになっているという。そうした状況に対し、著者はキリスト教の生活世界の有効性を論じようとする。キリスト教の生活世界とは「聖書に土台を置いている物語世界」であり、そこに家父長制度、血縁関係、社会的タブーから解放してくれる信仰共同体の可能性を見いだそうとしている。
三章 神の国と経済倫理
この章において、著者は経済倫理との関係で神の国の特徴を描写していく。「相互贈与性」を生み出す聖餐式、変革の希望を示す終末論的ヴィジョン、「再分配という政策」としてのヨベルの年、「配慮の倫理」を内包する十分の一の奉献と刈り入れの規定、排他的な民族主義を越え「開かれた共同体」を目指す社会的配慮などが、そこでは語られる。その中でも著者は「神の国」の終末論的特質を強調している。イエスによって弟子たちは希望に満ちた「生活世界」へと招かれたのであり、それを世俗内で実践するよう求められている。そうした聖書の事例を紹介することを通じて、著者は聖書のメッセージが経済倫理に深くかかわっていることを説得力をもって語っている。
四章 産業社会と産業精神
われわれは産業社会の中で生きているが、それは人類に経済的豊かさのみをもたらしてきたわけではない。たとえば、環境破壊、過労死の問題、南北の経済格差などの問題を受けとめていくためには、産業社会の歴史を批判的に検証していく必要がある。著者によれば、産業社会の精神は、隣人愛としてのプロテスタントの職業倫理から、ベンジャミン・フランクリンに代表されるような「成功の哲学」に変えられてしまった。本来のプロテスタント的な倫理から見れば、ヴェーバーの指摘した世俗内的禁欲の精神さえも、信仰の豊かさが失われた不安で孤独な精神であると著者は語る。
五章 グッド・ワーク(良い仕事)とは
産業社会が目指した豊かな消費社会は、皮肉にも、産業社会を成立させた勤勉の倫理を衰退させ、代わりに快楽追求を中心的価値とする「快楽原理」を生み出した。そうした状況に対し、著者が第三の道として提示しようとするのが「グッド・ワーク」である。それは単純に勤勉や快楽に偏ることなく「善く生きる」ことを目指すのであるが、その端緒を著者はキリスト教の職業観(天職)に求める。生産物にのみ目を向けるのではなく、むしろ生産の場における意味と目的を見いだす中で、産業社会の労働環境を人間化していく努力が必要であると論じている。
六章 産業社会の消費文化
消費社会が成立するためには商品が生産される仕組みだけでなく、人々の「消費欲求」を刺激するシステムが不可欠である。それを著者は消費主義、消費文化と呼ぶが、その延長線上に人間の幸福があると考えるのは幻想であるという。しかし、消費者の欲求の増大と、生産者による欲望を刺激する方策とは、そうした幻想を拡大するための「共犯関係」にあり、その点に著者は資本主義の根本的特質の一つを見ている。他方、聖書は貪欲を戒め、また消費欲求が争いを引き起こすことへの警告を発している。そのような聖書的価値観を前提として、著者の関心は、消費生活によって引き起こされた環境危機に応答することのできる神学的基盤の必要性にも向かっていく。
七章 所有の問題
経済活動にとって所有の概念は重要な役割を果たしているが、近代の所有権に根拠を与えた人物としてジョン・ロックがいる。ロックは、身体がその人のものであるという前提に基づき、その身体を使った労働の結果、所有が生じると考えた。また、その所有空間を各人が拡大しようとする結果、競争社会や「所有的個人主義」が成立してきた。著者は、近代の所有概念の背景にキリスト教との関係があることを指摘し、同時に、所有的個人主義は、三位一体の神のもとに人間を社会的存在と理解してきたキリスト教的人間観からの逸脱であると考える。そうした違いを明示するために、著者は「ビブリカル・スタンドード」を提示する。それによれば、世界の一切は「神の賜物」であり、土地も富も権威も神から人間に「受託」されているに過ぎないことを知るべきなのである。
八章 市場経済とキリスト教
アダム・スミスによれば、市場経済は需要と供給が自動的に調整されていく「自然的自由」によって成立しているが、著者は、そうした考え方に対する異論や批判意見を紹介しながら、近代経済学が市場経済をどのように理解してきたかを概観する。私有財産制度、利潤追求の自由、価格システムなどが機能していれば、市場経済は自動的に動き続けるという機械論的な世界像が、今日、その問題を露呈しているからこそ、経済倫理を考えることが必要とされているという。市場システムの中に、倫理を支えるような社会的美徳を育む力が存在しない以上、そうした美徳を育む、より大きな文脈を発見し直さなければならない、と著者は考えるのである。
九章 功利主義とキリスト教
功利主義は、「快」と「不快」のバランスをもとにして、快を最大限増大させること、言い換えれば、効用をもたらす財の生産を極大化することを是とする論理であるが、この考え方が経済学に与えてきた影響力と問題点とを著者は指摘する。特に、アマルティア・センの言説を参照しながら、功利主義やそれに続く社会的ダーウィニズムが前提とする人間観は倫理的に貧困であることを語る。それに対し、著書が考える「キリスト教経済」は、生産と消費と分配とをキリストの生に向かって奉仕するようにするのであり、経済活動を「神の生活世界」という目標に向かわせる。それは単に「盗んではならない」「貪るな」の規範にとどまらず、見返りを求めないで貸す、という愛に満ちた正義にまで及んでいく。
一〇章 環境と産業社会
産業社会の発展が内包する負の側面を、もっとも端的に示す事例が環境破壊の問題である。また、高度消費社会に起因する大量生産と大量消費の行き着く先には、地球資源の枯渇の問題がある。こうした課題に真剣に取り組もうとすれば、従来の高度消費社会を継続することはもはやできないのであり、生活の質的転換をはかっていく必要がある(著者は生活の快適さを「アニメティ」と呼んでいるが「アメニティ」の間違いであると思われる)。そして、聖書の自然観や、ドストエフスキー、現代神学者サリー・マクフェイグの言葉を取り上げながら、著者は、責任ある消費生活と環境的正義を支える神学的基礎は、創造者なる神が人間に必要なものを賜物として与えていることへの感謝から始まると主張する。
一一章 飢餓と解放の神学
食料生産は世界人口を養うのに十分な量がありながら、世界人口の四分の三が飢餓に苦しんでいる。ここには明らかに分配の問題があるが、それを顕在化させ、貧富の差を新しい地球社会の課題として解決していくために、著者は「神の国のヴィジョン」が役立つという。また、そうした問題を考えるために欠くことのできない神学的視点として、解放の神学が取り上げられている。世界と教会とを同じ地平で考えようとするグティエレスに一定の理解を示しつつも、著者は希望の先取りとしての信仰共同体である教会に対し、特にその聖餐式に注意を向ける。なぜなら、著者は、聖餐式に秘められた「相互贈与性」や「生の連鎖」こそが生活の質的転換をもたらし、飢餓の問題の解決につながっていくと考えるからである。
以上、本書が扱っているテーマや論点を概観してきたが、最後に評者が本書を通じて考えさせられ、今後の課題として受けとめている事柄について述べる。
本書における著者の関心事は多岐に渡っているが、全体を通じて、ある種の構図が感じられた。すなわち、著者は一方で、倫理的規範性を失った結果、数々の問題を抱えている資本主義社会・産業社会を見据え、他方では、倫理的規範性を提供する可能性をもったキリスト教に注視している。経済活動においても「キリスト教の生活世界」を求めようとする著者が、このような対比的構図を示しながら、キリスト教的価値観の有用性を説くことは当然理にかなっている。
しかし、本書の中で時折、キリスト教の有用性、あるいは他宗教に対する優位性が過度に強調されているのではないかと感じることもあった。たとえば、日本の宗教性の課題を論じる際に、著者は新宗教あるいは新々宗教は「魔術の園への逆コース」であるとし、対比的にプロテスタンティズムの合理性を賞賛する。このような問題把握が一定の説得力を持っていることは言うまでもない。しかし、「魔術の園への逆コース」が現代社会にあふれていることを断罪したところで、本質的な問題解決にはならないのではないか。むしろ、プロテスタント的な合理性に基づいて形成された社会の閉塞感から何とか逃れ出たいという欲求が、「魔術の園」では吐露されているのであり、その現実を直視すべきであろう。これはハリー・ポッターなどの「魔法もの」が世界中で話題になっていることとも無関係ではない。
同様のことが、祖先崇拝批判についても言える。プロテスタント的合理性からすれば、祖先崇拝と結びついた家族制度は、人格的な自立を妨げる非合理的・前近代的システムとして容易に批判することができる。しかし、アジアやアフリカを中心に、多くの国々では祖先崇拝の影響力は無視できないほど強力である。これを前近代的として切り捨てる行為は欧米の宣教師たちによって繰り返しなされてきた。
しかし、それが結果的に欧米の文化および経済の優位を暗黙の内に押しつける構造を醸成してきたのではなかろうか。こうした問題を乗り越えていくために、著者が提起している、聖餐式のもつ「生の連鎖」の意義を積極的かつ具体的に拡張し、世代間をつなぐ「生の連鎖」にまで視野を広げていくことを、評者としては期待したい。それによって祖先崇拝を踏襲するのではなく、未来世界にふさわしい形でリフォームすることができるなら、その作業は同時に、著者の関心事の一つである環境的正義の実践にも寄与することになるであろう。
本書には、今日の経済や資本主義社会をキリスト教の倫理によって、とりわけプロテスタント的倫理によって、少しでも健全なものにしたいという情熱が満ちている。そこには、著者と共にわれわれが負っていかなければ課題が示されている。しかし、同時にわたしが思うのは、この情熱をたとえばイスラーム世界の人々はどのように感じるだろうか、ということである。彼らにとって、資本主義の論理もキリスト教的な規範性も、等しく彼らを追いつめ、抑圧するものとして同じ地平に置かれている。グローバル経済の中で、キリスト教の正義を声高に唱えることは可能であろう。目下のグローバル経済は、やはり北側の先進資本主義国家を利するために機能しているからである。
このような状況の中で、自己完結したキリスト教の正義が貫徹されたとしても、一体、何が変わるのだろうか。それは南側の国々を搾取することによってしか繁栄を保ち得ない北側の国々の罪責感をいやしてくれるかもしれない。あるいは、世俗化の荒波の中で自信喪失に陥りがちなプロテスタントに自尊心回復の機会を与えてくれるかもしれない。しかし、どのような正義であっても、キリスト教の文脈の中で自己完結していては、他者の求める正義と邂逅することはあり得ないであろう。
われわれは宗教多元的な世界に生きている。著者もそれを認識している。「もちろん、私たちは、キリスト者とそうでない者との連帯と協力を大いに考えていきたい。しかし、私たちは、希望の先取りとしての信仰共同体である教会の聖餐式の意味を考えてきた」(二二二頁)。ここで、さらにもう一度「しかし」という逆接を入れて反転したときに、どのような「神の国」が見えるのだろうか。その「神の国」はキリスト教の正義だけで満たすことができるのだろうか。
経済の問題は、人間の小賢しい宗教心をあざ笑うかのように、この世の現実を生々しく突きつける。その意味では、著者が本書を通じて取り組もうとしている問題群は、キリスト教が今後直面することを余儀なくされる文明論的な課題を先取りしているとも言える。そうした課題認識へと導きを与えてくれた著者の意欲的な取り組みに対し、あらためて賛辞を呈したい。