「キリスト教と生命科学――責任概念を中心にして」、『基督教研究』第62巻第1号
- 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
創世記22章9-10節
Ⅰ 問題の所在
Ⅱ 生命科学の特質
Ⅲ 生命科学を取り巻く倫理的指標
Ⅳ キリスト教の責任概念
Ⅴ テスト・ケース
Ⅰ 問題の所在
キリスト教倫理と一般道徳の関係をめぐる問いは、決して新しいものではない。宗教と道徳、あるいは信仰と理性という問題設定の中で、キリスト教的規範が一般社会の規範とどのような点において相違し、また共通するのかという課題は、繰り返し論じられてきている。このような課題に潜む、避けがたいジレンマを描き出した一例として、S・キルケゴール(Soren Kierkegaard)の『おそれとおののき』[1843=1962]をあげることができる。そこではアブラハムのイサク献供の出来事をめぐって、第一に「はたして倫理的なものの目的論的停止というものはありうるか否か」、第二に「神に対する絶対的義務などというものがあるかどうか」、第三に「アブラハムが彼の企図を誰にも語らなかったのは、倫理的に責任を問われるべきことであったか否か」という問いが立てられている。これらの問いからもわかるように、神への忠実を貫くとき、一般的な倫理規範に背くという可能性がつきまとっている。キルケゴールは、アブラハムの物語が倫理的なものの目的論的停止を含んでいると考え、信仰的行為が倫理的行為を越え出ることを指摘しようとした。しかし、現代人の目から見て、神に絶対的に忠実を尽くす「信仰の騎士」としてのアブラハムと、誰の了解もなく――現代の言葉で言うなら、インフォームド・コンセントを完全に無視して――自分の息子イサクを殺そうとする「殺人者」としてのアブラハムとの間にある隔たりに、納得いく論理を見いだすことは容易ではない。宗教の名のもとになされた非倫理的行為に批判が向けられる昨今の事情を省みれば、その隔たりは「狂信」によって飛び越えられていると考えられがちであり、その意味では、今や、宗教は倫理の対局に付置されているとさえ言える。
カルト宗教の犯罪や、エホバの証人の輸血拒否に先鋭化されて見られるような、宗教と倫理をめぐる葛藤は、確かに今日的な側面を多く含んでいるが、同時に、イサク献供の物語にすでに内包されている古典的な、そして根元的な問いを保持し続けている。本論文では、そのような問いに対する包括的な答えを提示することを求めず、むしろ、問題の領域を生命科学とその周辺に限定し、そこから、宗教と倫理の今日的課題を明らかにしていきたい。その際、問題を具体的に考察していくために、キリスト教倫理を中心に据え、特に生命科学との接点として「責任」概念に注目する。後述するように、生命科学をめぐる倫理的課題は、従来の価値規範だけでは対処できない次元を有しており、今後のキリスト教倫理の方向性を考える上でよい試金石となる。
Ⅱ 生命科学の特質
生命科学そのものを考える前に、それが置かれている時代状況を視野に入れておかなければならない。そうすることによって、なぜ生命科学が新しい倫理的次元を要請するのかが見えてくるであろう。本論文のテーマに即して、現代の社会状況を次の二つの点によって特徴づけることができる。一つは道徳意識の多様化であり、もう一つはテクノロジーによる人間の力の急速な拡大である。
道徳意識の多様化が、社会の世俗化と宗教の多元化と連動していることは論をまたない。たとえば、西欧社会では長い間、キリスト教が社会における価値規範に大きな影響を与えてきたが、キリスト教の影響力が低下した結果、現在では、他の宗教や世俗文化を背景とした多様な道徳観が混在している。かつてなら、古典的な有神論に従って、道徳秩序を人格的な神に根拠づけることもできた。しかし、今日の宗教多元的な社会では、もはやそれを前提とすることはできない。つまり、ある特定の宗教が明確な価値規範を示したとしても、それが圧倒的多数によって社会的に共有されるということは望み得ないのである。したがって、もし宗教が社会に対し意味ある規範を示そうとするなら、その宗教の内部への呼びかけだけではなく、むしろ、その宗教の外側にいる人々に対して意味をなす「公共性」の創出が求められる。宗教が自らの信仰や伝統に忠実でありつつ、同時に社会的に理解・適用可能な公共的メッセージを発することができるのかという課題が、道徳意識の多様化の背景にある。
そして、道徳規範が多様化し、共通の土台が見えにくくなるからこそ、逆に、価値中立的な装いをもったテクノロジーが広く社会に受容されていくことになる。確かに、人間の力がテクノロジーを媒介にして拡大することによって、人間は空間的には地球規模の影響を及ぼすことができるようになった。また、時間的には未来の何世代にもわたって影響を与える力を持つようになった。より具体的に言えば、現代人は地球規模で大気・土壌・海洋を汚染し、自然環境を破壊できるだけの力を手に入れたのであり、また、高度産業社会の産出物である合成化学物質や放射性廃棄物などの影響やその処理を、未来世代へ先送りするのである。生命科学の進展次第では、人間の遺伝情報が優生的に改変され、それが未来世代の人間の様態を強く規定する可能性もある。このような状況は、伝統的な倫理学が、限定された社会空間の中で、もっぱら同時代の人間同士の間に成立する規範を前提としてきたのと比べ、大きな変質を遂げていると言わざるを得ない。
このような時代状況の中で、特に1960年代から頻繁に、生物学関係の諸分野を総合的に生命科学(life science)と呼ぶようになってきた。その背景には、DNAの二重らせん構造の発見(1953年)を契機とした分子生物学の急速な発展がある。つまり、分子生物学や遺伝子工学の研究成果によって、多くの生命現象が統一的な視点からとらえられるようになってきたのである。また、同じ時期に、生命倫理(bioethics)という言葉が用いられ始める。それは、生命科学や医療技術が著しい発展を遂げることにより、従来の医の倫理では対応できない問題が多数生じてきたことを物語っている。生命に関する考察は、医者や生命科学者などの専門家のみにゆだねられるべきではなく、むしろ、その考察と社会的合意形成に一般市民が主体的にかかわる必要のあることが認識されてきたのである。
そうした生命科学の矛先は、今日、生命の根源にまで立ち入ろうとしている。その動きに拍車をかけているのは、科学的な真理探求心や特許獲得を含む利潤追求欲など様々であろうが、その動機が何であれ、人間の肉体を含む生物学的自然が開拓すべき「フロンティア」と見なされ、そのフロンティア拡大のために膨大な研究資源が投入されているのである。かつてL・ホワイト(Lynn White, Jr.)は「キリスト教は...人が自分のために自然を搾取することが神の意志であると主張したのであった」[1968=1972:87f.]と語ることによって、キリスト教による自然支配の熾烈さを指摘しようとしたが、今や、それ以上の勢いをもって、外的自然にとどまらず内的自然にまでフロンティアは拡大しつつある。確かに、生命科学の目的の一つは、生命現象のメカニズムを解読し、それを制御することにある。しかし、制御しようとする欲求そのものを制御することは必ずしも容易ではない。
他方、生命科学の急速な進展に対し、人間が「神を演じる」(play God)ことは許されない、という批判も繰り返しなされてきた。しかし、科学そのものが反宗教的なわけではない。むしろ、生命を含む自然現象を探求することを、神から人間に与えられた責任として理解する立場もある。その際、人間に付与された特別な責任の神学的根拠として、しばしば「神の像」(imago Dei)が引き合いに出されるが、歴史的に議論されてきたその本質規定は、後述するように今日の「理性」に近接している。
Ⅲ 生命科学を取り巻く倫理的指標
すでに述べたように、生命科学と表裏をなす形で、生命倫理学が形成されてきた。生命倫理学の対象は多岐にわたるが、ここでは、責任概念を中心にして、生命倫理学が通常前提としている倫理的指標を明らかにする。そうすることによって、後に取り上げるキリスト教倫理と一般的な生命倫理との同質性や差異性を際立たせることができるであろう。
一般に責任(responsibility)とは、他者に対する応答(response)を含意している。他者から応答を求められるときに責任が生じる。人は、ある行為を行った(あるいは、行わなかった)結果に対し責任を負うと言うことができるが、過去の行為に言及する、遡及的な(retrospective)責任の範囲がどのように限定されるかについては議論の余地がある。端的に言えば、何に対して責任があるのか、必ずしも一意的に決定されない。たとえば、予測可能な行為結果に対して、また、防ぐことのできた被害を防がなかった場合の実害に対して、どの程度、遡及的に責任を追及されるかは、将来において予期される(prospective)責任をどのように定義するかにかかっていると言える。すなわち、遡及的な責任の範囲を決定するためには、まず予期される責任の範囲を決めなければならないのである。さらに、予期される責任が成立するためには、一般的に、その行為結果が行為者の制御範囲になければならない。別の言い方をすれば、行為者の制御が及ぶ限りにおいて、行為者の帰責能力が問われるのであり、行為者の制御が及ばない過去の出来事や、予期することのできない未来の出来事や偶然の出来事に関しては、通常、免責される。したがって、一般的な責任概念は因果法則を暗黙の前提としていると言える。
このような一般的な責任理解に基づきながら、生命倫理学は、生命科学がもたらした結果に対し、できる限り責任の帰属を明確にするように要求してきた。そうした要求の結実が「自己決定権」の形成と拡大なのである。自己決定権において、ある行為の諸結果は、可能な限り、その行為者の選択・決定に帰責させられる。同時に、その行為は、たとえ当人に対し不幸な結果をもたらすことになったとしても、他人に危害を加えない限り、最大限尊重されるのである。その典型的な例は、尊厳死の選択において見られる。自分の生命をどのように取り扱うかは、自分の制御範囲内の行為であるという責任理解が、そこにはある。脳死・臓器移植の問題に際しては、脳死を人の死とするかどうかという議論も、自己決定権にゆだねられた。どの時点を個体の死とするかは、医学的と言うより文化的な問題であるが、脳死を自らの死として自己決定することができるという前提のもとに、日本でも「臓器移植法」が1997年に成立した2。尊厳死や臓器移植に限らず、今後、先端医療技術において現れるほとんどすべての課題において、自己決定権が中心的な役割を果たしていくことは間違いない。
また、欧米の生命倫理学において自己決定権が論じられる際に、当の「自己」とは何かを規定するために、「人格」概念が再構成されてきた。特に、ヒト(human)であることと人格(person)であることが意識的に区別され、M・トゥーリー(Michael Tooley)やH・T・エンゲルハート(H. Tristram Engelhardt, Jr.)らによって先鞭を付けられた人格をめぐる議論は、「パーソン論」と呼ばれる問題領域を作っている。そこでは、人格は意識や理性によって特徴づけられ、極端な場合、胎児や重度の障害者は生物学的にヒトであったとしても、人格とは見なされない事態が生じる。その一方で、P・シンガー(Peter Singer)のように、動物にも人格を認めるべきだという主張も存在する。理性や意識を、他の動物と人間を区別する指標とする考え方は古代ギリシアの時代から存在し、それはキリスト教思想の中でも「神の像」をめぐる議論としてテーマ化されつつ継承されてきている。しかし、人格とは何か、という古典的な問いが、生物学的規定を強く受け、自己決定する意識主体という枠組みの中で論じられているのが、今日の人格論の特徴であると言える。
Ⅳ キリスト教の責任概念
生命科学や生命倫理の領域において、自己決定権や、それを支える人格論はきわめて大きな影響力を持っているが、それに対し、キリスト教はどのような責任概念を持っているのであろうか3。生命科学が前提とし、社会に要請する責任概念に対し、キリスト教は何らかの積極的相違点を持っているのであろうか。言うまでもなく、一般倫理とキリスト教倫理との関係は二項対立的なものではない。多くの課題や方法論を共有しつつ、キリスト教倫理がその存在価値を公共的に示すことができるとすれば、それは一般倫理から隔絶した特異性を示すことによるのではなく、むしろ、キリスト教倫理の固有性が不可避的に生み出す、一般倫理との差異を丁寧に叙述することによるのである。それによって、既存の倫理的趨勢(たとえば、自己決定権の拡大)を相対化することも可能となる。
今後、ますます当然視され、拡大するであろう自己決定権を一つの極と考えるならば、キリスト教信仰はそこに還元されない責任概念を、自己決定権の対極として有している。それは、自ら決定することのできない「偶有性」(contingency)に起因する責任である。ここでは、さしあたりこの責任概念を「偶有的責任」と呼ぶことにする4。自己決定権が、行為者が自らの行為結果の責任を負う、という意味での因果法則あるいは応報主義に強く規定されているのに対し、偶有的責任は因果法則に拘束されていない。なぜなら偶有的責任は、自己決定に基づく責任とは反対に、自分で選ぶことのできなかった、あるいは決定することのできなかった状況から生ずる責任概念だからである。また、自己決定権においては、行為結果が行為者の制御可能範囲にあるかどうかが一つの論点をなしていたが、それとは対照的に偶有的責任は、行為者の制御可能圏外に起点を有している。
偶有的責任が、信仰体験、とりわけ召命体験と深くかかわっていることは言うまでもない。たとえば、パウロの召命体験とその後の彼の宣教活動において鮮明に物語られているように、自分自身で選ぶことができず、むしろ、偶然に選ばれたという根元的偶有性の体験が、彼の責任意識を成立させている。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、...」(ガラ1:15f.)というパウロの告白に典型的に示されているように、神の「恵み」が注がれるという偶有的体験が、パウロの使徒としての責任の起点を、一気に「母の胎内」にまでさかのぼらせているのである。
そして、この偶有的責任は、キリスト教思想史の中では、J・カルヴァン(Jean Calvin)の予定説によって、もっとも先鋭化されることになる。『キリスト教要綱』第3篇第21章5節には次のように記されている。「われわれが『予定』と呼ぶのは、神の永遠の聖定であり、よってもってそれぞれの人間におこるべく欲したもうたことを、自ら決定したもうもののことである。なぜなら、万人は平等の状態に創造されたのでなく、あるものは永遠の生命に、あるものは永遠の断罪に、あらかじめ定められているからである」[1960=1964 : 191]。永遠の生命に至るか、永遠の断罪に至るかが、あらかじめ神によって定められており、また、そのいずれかを神以外の誰も知ることはできないという予定説は、人間の自己決定を完全に無効にしてしまう。どのような選択と決定をしようとも、人間は救済の確率を高めることはできないからである。しかし、それにもかかわらず、この根元的な偶有性が、人を諦観へと誘うのではなく、逆説的にも、神の前での責任の自覚へと導いていく。その逆説性を、M・ウェーバー(Max Weber)は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において社会的な次元で説明しようと試みた。根元的な偶有性に由来する不安が、能動的かつ合理的な禁欲を生み出し、それが産業資本主義社会を到来させたというのである。
ところで、予定説の「万人は平等の状態に創造されたのでない」という主張点は、生命科学と特異な共鳴を引き起こす可能性がある。予定説においては、個人がどのような運命を迎えるかは原理的に知り得なかった。つまり、根元的な偶有性が確保されていたために、そこから積極的な責任意識が生まれたのである。それに対し生命科学は、ヒトゲノムに関する膨大な知識と、それを制御する能力を背景にして、すべての人間が同じ状態に造られてはいないということを遺伝子レベルで実証し、偶有性のイメージを貧困にした上で、ある種の運命論・決定論を生み出すのではなかろうか。そして、偶有性を欠いたその運命論は、人の生を容易に諦観と無責任へと引き渡す恐れがある。ヒトゲノムの全容が明らかにされ、高度の遺伝管理社会5が到来する日がそれほど遠くないとすれば、そして、そのような社会の到来を自己決定権が支えるとすれば、自己決定権の限界性や危険性を明示できるような、別種の責任概念を提示するのは、キリスト教倫理の大きな課題の一つであるに違いない。
次に、自己決定権に対し補完的な機能を果たしてきた人格概念について検討したい。生命科学の時代において、人格は主として人間の本質的特徴を規定するものとして理解されるが、キリスト教の歴史の中では、そのような働きを「神の像」が担ってきたと言える。人間と他の被造物とを区別する指標としての神の像をめぐる考察は、かなり早い時期からなされている。たとえば、エイレナイオスは、アダムの堕落後も変わらず存在している神の像を、魂や理性などの精神的特質と考えた。そのような神の像理解は、アレクサンドリアのフィロンにも見られ、またアウグスティヌス、トマス・アクィナスらに継承され、さらに宗教改革やそれ以降の神学においても、ほぼ自明のものとして前提とされてきたのである。その意味では、生命倫理学において人格が理性や意識、思考能力と同一視されている現状を、神の像の解釈史は結果的に補完しているとさえ言える6。
他方、キリスト教の人格概念は歴史的にさかのぼるなら、神の像とも、生命倫理的な人格概念ともかなり異なる様相を呈している。人格(ペルソナ)の翻訳元であるヒュポスタシスは、その用語法のもっとも早期において、つまり、ギリシア初期の自然哲学や医学の中で、液体の中の沈澱物、濃いスープ、膿などを意味していた。それは、流動的なものが固体化するというイメージであり、この基本的イメージはこの言葉が哲学的に用いられるようになっても残り続け、ニカイア公会議以降の神学の中で、三位一体論が一実体で三位格(ヒュポスタシス)と表現される中にも概念的な影響を及ぼしている。それに対し、ペルソナは元来、舞台劇で用いられる仮面の意味を持っており、確かにペルソナも、ヒュポスタシスと同様、交流の中の一結節点としての存在、流動する場の中で形成される個を示している。しかし、ヒュポスタシスに内包される東方的要素を引き受けたはずのペルソナは、西欧の中世から近代の歴史の中では、意味の重層性を失い、単に人間論的な術語として、あるいは端的に個(individuum)を指示する言葉として一般化していくのである。
このような経緯からもわかるように、人格概念はそもそも三位一体論との関係で論じられてきたのであって、決して人間に限定された用語法ではなかった7。また、人格は個的存在の本質規定ではなく、むしろ、濃密な関係概念であった。生命倫理学において人格は、ある対象(出来事)を制御可能な主体を、そしてその限りにおいて責任を負う主体を指示していたが、それに対し、初期のキリスト教的人格概念は、一義的に制御され得ない関係の流動性を主題としており、その流動性――それは今まで用いてきた偶有性の概念に近い――こそが神の絶対的な自由を保証するのである8。
このように三位一体論の基盤となっている人格概念は、近代以降の個人主義的な人格概念とは性格を異にする。それゆえに、キリスト教倫理が自らの伝統の内にある人格概念の豊かさに新たな形を与えることができるなら、それは生命科学時代の自己決定権を支える人格概念を相対化する視座となるであろう。さらに、近未来の事情に即して考えるなら、人格概念の関係論的豊かさを、すでに三位一体論において胚胎されていたように、人間以外の存在にまで拡大することが求められる。なぜなら、第一に、理性的意識主体と見なされない存在にまで及ぶ、人格の関係性を示すことによって、生命科学が前提とする人格概念から批判的に距離を置くことができるからであり、第二に、人間が神の像として被造物を支配・搾取するのではなく、かえって被造物との創造論的関係性を回復することによって、未来世代に対するエコロジカルな責任――それを自己決定権から導き出すことは困難である――を果たす道が開けるからである。三位一体論の場合、まさに神が人格として規定されてきたのであるが、人格が取り持つ関係性を、神と人間の関係に限定せず、すべての被造物にまで拡張することは、決して神の創造の秘儀に反しないであろう。
Ⅴ テスト・ケース
これまで、一般的な生命倫理を支える思考軸としての自己決定権と人格概念に対比させる形で、キリスト教の責任概念と人格概念について思索を展開してきた。最後に、その対比から見いだされる自己決定権の問題点を指摘することによって、さらに、具体的な事例として脳死・臓器移植の問題を取り上げることによって、これまで考察してきた視点の有効性を確認してみたい。
既存の社会システムの中には様々な抑圧・被抑圧の構造が存在し続けており、そのような状況において、被抑圧者が抑圧者に対峙する場合、自己決定権の主張は大きな有効性を有している。そのことを十分に認めながらも、自己決定権に過度に依拠することによって生じ得る、次のような問題点を見過ごすことはできない。
第一に、先端医療における確率論的な選択肢の前では、自己決定の有効性はあいまいにならざるを得ないという点である。たとえば、今後急速に普及する可能性のある母体血清マーカーテスト9によって、胎児がダウン症あるいは二分脊椎症である確率が60パーセントであるという診断結果が出たとしよう。その結果に対し、十分なインフォームド・コンセントが求められるが、それは、どのような措置を取るべきかについて、専門家も確定的なことは言えないからである。つまり、60パーセントや40パーセントといった確率の前で選択される行為は、自己決定権を形式的に遂行しているに過ぎない。母体血清マーカーテストは確定診断ではないので、さらに羊水診断などの追加検査が必要であるが、いずれにせよ、確率論的な縄目から逃れることはできない。出生前診断に限らず、医療措置の選択の多くは確率論的な問題をはらんでいる。確率に依拠した選択が、望んでいない結果をもたらした場合、自己決定権を行使した者は、それを自らの選択の所産として受けとめることができるであろうか。むしろ、偶発的な不幸が自分の身に降りかかってきたと感じるのではないか。自己決定に基づく責任概念は、選択の偶有性がもたらす悲痛な叫びをかき消すことはできない10。自己決定を純化し、責任の所在を明確にしようとすればするほど、その個人の意志決定に回収しきれない責任の余剰――偶有的責任はその一部を構成している――が生じるというパラドックスが、先端医療の現場に存在するのである。
第二に、一人歩きした自己決定権が、権力者(組織)によって利用される危険性がある。脳死後の臓器移植や遺伝診断、ヒト受精卵の研究利用などは、すべて個人の小さな善意を前提として実施されるが、このような小さな善意の集積が結果的に巨大な社会的ひずみ――たとえば、臓器マーケット、遺伝管理社会、優性主義思想など――を生み出す危険性を看過することはできない。たとえば、フェミニスト運動は性と生殖に関する自己決定権を主張してきたが、自己決定という言葉が、生殖技術の適用を進めようとする人々にとっての「免罪符」になってしまうというジレンマにも直面している。女性の生殖が男性主導の医療によって管理されるところでは、女性の自己決定という自由が皮肉にも、女性に新たな負担を強いることにつながるのである。このような例からも推測されるように、自己決定権は、個的人格に責任の始点と終点を内包させることができると想定するが、その場合、その枠組みから漏れ出る様々な行為結果の集合に対しては、個的人格の制御範囲外として、責任意識が十分に機能しないのが普通である。
第三に、自己決定権の対象から閉め出される責任領域の中には、放置することのできない問題が存在している。その典型的な例は、戦争責任と未来世代に対する責任である。戦争責任に関して、たとえばK・ヤスパース(Karl Jaspers)は「私がそこに居合わせて、そして他の人間が殺された今もなお私が生きながらえているという場合には、私がまだ生きているということが私の罪なのだということを私に知らせる声が心のうちに聞こえるのである」[1946=1998 : 111]という「形而上的な罪」があることを指摘している。罪と責任とは心情的には類縁関係にあるが、ここで「形而上的な罪」と呼ばれているものは、自分がある行為を決定した結果生じているのではない。生きながらえるということを意図的に選んだわけではないのに、他者が死に、「わたし」が生き続けるという不条理に直面することによって、罪の感覚が立ち現れてきている。他者が死んだことは「わたし」の制御範囲外の出来事であり、自己決定権に基づく責任概念に即して考えるなら、その出来事に対し「わたし」は何ら責任を負う必要も、罪を感じる必要もない。それにもかかわらず、生きながらえたことが罪意識を喚起することを、すなわち偶有的責任の生起を、自己決定権に依拠する責任概念は決して説明することができない。同様に、自己決定権の論理に従えば、戦時に生まれていない人間は、戦争に対して何の責任を負う必要もない。また、過去だけでなく、未来の世代に対しても、制御が及ばない以上、免責されていると考えるのは自己決定権の自然な帰結である。現世代の大量消費活動がもたらす負荷を未来世代が引き受けなければならないことは紛れもない事実であるが、自己決定権を行使する個人は、その行為結果を自らが生きる同時代の中に限定しようとするのである。
このような事態は生命科学がもたらし得る次のような例に関しても当てはまるであろう。ハンチントン舞踏病の親を持つ兄弟は、その病気に関連する遺伝子を親から受け継ぐ可能性がある。病気の発症の可能性は遺伝子診断によって知ることができるが、兄は問題が無く、弟だけに悪い結果が出るという場合が当然考えられる。しかし、その結果は、兄にしても弟にしても、自分の行為の結果としてもたらされたわけではなく、そもそも当人の制御範囲外の事柄であるから、誰に対しても罪責感を持つ必要はないはずである。しかし、自己決定権によっては説明されない責任の意識を兄が弟に対して持つことは十分にあり得る。その場合、自己決定権に基づく無罪証明は、自分だけが生き延びてしまうことへの罪責感を一寸たりとも和らげてはくれない。
最後に、近年、多くの宗教を巻き込んで議論されてきた脳死・臓器移植の問題について触れる。ここでは、その問題の全体を描写することはせず、責任の表出がどのようになされるべきかに注目するが、脳死・臓器移植問題に対するキリスト教的応答の一例として、東方の論文「脳死と臓器移植」[1999]を取り上げたい。東方は、生命倫理学のパーソン論を批判するが、その際の批判的視点として「物語的人間観」を導入している。人間が様々な存在とのつながりの中で生きていることを教える物語人間観の立場から、東方は、パーソン論の原子論的な人間理解や、他者との相互作用を考慮しない静的人間観や、自己意識という精神的要素のみを強調する人間観を批判している。そして、パーソン論に対峙できる物語的人間観こそが、キリスト教倫理の人間観であると主張するのである。このように、既存の生命倫理学的価値観との相対的な距離を十分に意識しながら、キリスト教倫理の特異性を示そうとする東方の姿勢は、本論文の趣旨からも、十分評価できるものである。しかし、東方は物語的人間観の叙述の後に、「さらに付け加えなければならないのは、『神の大きな物語』の中で人間の物語を理解することである」[1999 : 134]と言う。確かに、はっきりとした始点と終点を備えた「神の大きな物語」を個人の人生の中に写し取ることができるなら、そのような言説も成り立つかもしれない。しかし、先に指摘したように、始点と終点が完結した責任の物語が破綻しているところに、自己決定権では収拾することのできない先端医療のジレンマがあったのであり、そのような個々人に向かって、いきおい「神の大きな物語」を語ることは、一見、キリスト教的な公共性を提示するかのようであるが、実際には、自己決定権がはらむ、先に指摘したような問題性を隠蔽することになりかねない。先端医療の場において、われわれに必要なのは、神の大きな物語の中で人間の物語を理解することではなく、逆に、人間の小さな物語――それは断片的であるが具体的である――の中で、それらをつなぎとめる神の物語を見いだすことではなかろうか11。
物語の神学を積極的に展開している人物の一人に、C・S・ソン(Choan-Seng Song)がいるが、彼の物語理解はある意味で、東方の理解とは正反対である。ソンはThe Believing Heartの中で、「神の語り」(God-talk)よりも「人間の語り」(human talk)を優先させ[1999 : 27-30]、さらに、マタイ福音書6章26―27節から「鳥の語り」(bird-talk)「ゆりの語り」(lily-talk)の重要性を導き出しながら、イエスのような「自然神学者」になること呼びかけている[1999 : 36]。啓示神学が前提としてきたとも言える「神の大きな物語」に徹底して対峙していく中に、ソンはイエスの語りの本質を見いだそうとしているのであり、この視点は、生命科学とキリスト教の関係を考えていく上で、非常に興味深い示唆を与えてくれる。
ここで、あらためてアブラハムのイサク献供の物語が、現在の先端医療、とりわけ2000年秋に改正が予定されている臓器移植法に対し、投げかけている問題を考えてみる。イサク献供の物語の主人公は伝統的には明らかにアブラハムであり、その物語の中心的主題は、神の命令に対するアブラハムの信仰的決断や神の主権であった。そしてその限りでは、イサクは神とアブラハムによって織りなされる大きな物語を演出するための、いわば小道具のような存在に過ぎない。祭壇の上に無言のまま横たわるイサクは、あたかも臓器摘出手術のためにベッドに横たえられている脳死患者のようである。ドナーカードによって臓器提供の意思表示をした者は、そのような状態を自己決定の結果として選択したのであり、父の行為に応答する言葉すら与えられていないイサクとは事情が異なる。しかし、今後、臓器移植法の改正によって、15歳未満の子どもからの臓器提供が親の同意によって可能となったり、あるいは、臓器提供をしないという意思表示をしていない者からは、家族の同意さえあれば、年齢にかかわらず、脳死後の臓器摘出が認められるようになると、ベッドに横たえられた脳死患者は、限りなくイサクの状況に近づいていく。いったん祭壇に供えられた者は、父の権威に服し、神の大きな物語を遂行しなければならないように、脳死判定のためにベッドに横たえられた者は、親(家族)の所有物、社会の公共財として、現代医療における神的存在としての医師に対し、自らの死の判定から臓器の摘出までをゆだねなければならない。それは自己決定権の拡大がもたらす必然的な結果であると同時に、自己決定権が他者の身体にまで浸食し得ることを示している。
アブラハムのイサク献供物語において、アブラハムの苦悩と神の主権は重要な神学的主題として、豊穣な解釈の歴史を生み出してきた。しかし、もしG・フォン・ラート(Gerhard von Rad)が言うように「このような物語は基本的にはあらゆる解釈に対して開かれているのであり、読者がそこからどのような考えに導かれようと、語り手は決してそれを妨げようとはしないのである」[1972=1993 : 432]とすれば、われわれは生命科学時代にあって、とりわけイサクの視点を想像力豊かに回復しなければならないであろう。結果として、神の主権や神の物語を表出していくにせよ、まず「人間の語り」――それはしばしば声にならない――に十分耳を傾けていくことが求められるのであり、そのためには、キリスト教的な責任概念や人格理解に対し、今後、具体的な肉付けをしていく必要がある。自己決定権を徹底した結果、臓器提供のためにベッドに横たえられている患者と、自己決定権を失効し、偶有的に――アブラハムにとって必然的であるにせよ、イサクにとっては偶有的に違いない――祭壇に横たえられているイサクとは、出来事の現象面は近似しているが、それぞれを出来事として成り立たせている責任概念はきわめて対照的である。その差異を語り得る言葉を見いだすことができるかどうかが、キリスト教倫理の独自性と公共性を同時に問う試金石となるのである。
注
1 本論文は、2000年3月に開催された日本基督教学会近畿支部会での研究発表に加筆・訂正をしたものである。
2 小松[2000]は、臓器移植法の成立に至る議論の変遷の中で何が論点とされてきたのかを整理し、またその背景に一貫して自己決定権の思想があったことを論じている。
3 Schweiker[1995]は、キリスト教倫理における責任概念の理論的背景を丁寧に叙述している。
4 本論文では、偶有的責任を主としてキリスト教との関係において考察するが、それは偶有的責任をキリスト教が排他的に占有しているということを意味しない。たとえば、後に偶有的責任の一例として取り上げるカルヴァンの予定説と非常に類似した考え方は、イスラム教の中にも見受けられる。また、親鸞の「悪人正機説」(『歎異抄』第三条)も同様の方向性を備えていると言える。
5 近未来において遺伝管理社会の到来が予想されるだけでなく、過去においてすでにその根が張られてきたことを、米本[1991]はナチズムとそれに前後する時代精神の中に潜在していた優生政策を通じて、明らかにしている。
6 「神の像」の解釈学的問題と、その伝統的解釈が現代において露呈している問題点については、小原[1998]を参照。
7 坂口[1996]は、本来、三位一体論のために用いられた人格概念が、人間の人格概念や個の形成に影響を及ぼすようになっていった歴史過程を描き出している。
8 たとえば、W・パネンベルク(Wolfhart Pannenberg)は、神の「人格」との出会いの特質を、人間の「意のままになり得ない」(unverfugbar)力による具体的な要求の中に見ている[1967=1984 : 314-318]。人間の意のままになり得る人格概念は、近代の宗教批判に耐えることができない。つまり、神の人格性は人間の人格性から導き出されたのではなく、逆に、人間の人格性の起源は「神の侵すことのできない尊厳性に対する人間の参与」[1967=1984 : 316]という宗教経験にあることを、パネンベルクは指摘する。本論文中で用いられている「偶有性」「流動性」という概念は、パネンベルクが神の人格を特徴づけるために用いている「意のままになり得ないこと」(Unverfugbarkeit)という概念と類縁関係にあると言える。
9 母胎血清マーカーテストは、妊娠女性の血中に混入する胎児特有のαプロテインというタンパク質などに注目した胎児診断であり、αプロテインの値が標準より高いと胎児が二分脊椎症である確率が高く、その値が低いとダウン症である確率が高いと診断される。
10 米国では、出生前診断などの遺伝子診断に際して、遺伝カウンセラーが患者の悩みを受けとめるシステムが確立しているが、生命の選別に直面することによって生じる深遠な苦悩は、信仰的課題として牧会の現場に持ち込まれることがある。Cole-Turner; Waters[1996]は、そういった実情に神学的に応答することの必要性を、具体的事例に即して説いている。また、Shannon[2000]は、遺伝子工学に関連する諸問題に対し、キリスト教界がどのような反応を示してきたかを網羅的に叙述し、キリスト教倫理の視点から考察を加えている。なお、小原[1999]は、人工授精・体外受精の問題を取り上げながら、キリスト教が生殖技術をはじめとする生命科学の進展に対し、どのような課題を有しているかを提示している。
11 J・バートン(John Barton)によれば、物語という枠組みから問題を一般化するのではなく、一般化できない個別性に注目することが旧約聖書的なのである。そのような主張をバートンは、S・E・ハワーワス(Stanley E. Hauerwas)の物語論と対比させている[1998 : 19-36]。東方の物語理解はハワーワスに依拠する部分がきわめて大きく、バートンのハワーワスに対する問題点の指摘は、そのまま東方にも当てはまると思われる。
参考文献
Barton, John 1998 Ethics and the Old Testament, Harrisburg: Trinity Press International.
Calvin, Jean 1960 Institution de la Religion Chrestienne, Paris: Librairie Philosophique J. Vrin : 245-496=1964 渡辺信夫訳『キリスト教綱要』Ⅲ/2、新教出版社。
Cole-Turner, Roland; Waters, Brent 1996 Pastoral Genetics: Theology and Care at the Beginning of Life, Cleveland: The Pilgrim Press.
Jaspers, Karl 1946 Die Schuldfrage, Heidelberg: Lambert Schneider=1998 橋本文夫訳『戦争の罪を問う』平凡社。
Kierkegaard, Soren 1843 Frygt og Baven: Dialektisk Lyrik, Copenhagen=1962 桝田啓三郎訳「おそれとおののき」、『キルケゴール著作集』第5巻:7-202。
小原克博 1998 「『神の像』に関する一考察――フェミニズムとエコロジーへの応答」、『日本の神学』第37号:33-54。
―――― 1999 「人工授精・体外受精」、神田健次編『生と死』(講座・現代キリスト教倫理1)日本基督教団出版局:55-76。
小松美彦 2000 「『自己決定権』の道ゆき――『死の義務』の登場(上)」、『思想』2000年2月号:124-153。
Pannenberg, Wolfhart 1967 Grundfragen systematischer Theologie: Gesammelte Aufsatze, Gottingen: Vandenhoeck & Ruprecht=1984 近藤勝彦、芳賀力訳『組織神学の根本問題』日本基督教団出版局(原著の部分訳)。
von Rad, Gerhard 1972 Das erste Buch Mose: Genesis, 10., Durchgesehne Auflage, Gottingen: Vandenhoeck & Ruprecht=1993 山我哲雄訳『創世記――私訳と註解』ATD・NTD聖書註解刊行会。
坂口ふみ 1996 『〈個〉の誕生――キリスト教教理をつくった人びと』岩波書店。
Schweiker, William 1995 Responsibility and Christian Ethics, New York: Cambridge University Press.
Shannon, Thomas A. 2000 Made in Whose Image?: Genetic Engineering and Christian Ethics, New York: Humanity Books.
Song, Choan-Seng 1999 The Believing Heart: An Invitation to Story Theology, Minneapolis: Fortress Press.
東方敬信 1999 「脳死と臓器移植」、神田健次編『生と死』(講座・現代キリスト教倫理1)日本基督教団出版局:121-146。
White, Lynn, Jr. 1968 Machina Ex Deo: Essays in the Dynamism of Western Culture, Massachusetts: The MIT Press=1972 青木靖三訳『機械と神――生態学的危機の歴史的源泉』みすず書房。
米本昌平 1991 『遺伝管理社会――ナチスと近未来』弘文堂。