書評「深井智朗『アポロゲティークと終末論――近代におけるキリスト教批判とその諸問題』」、『宗教研究』324号
本書は、近代のキリスト教思想を、アポロゲティークと終末論という切り口から叙述、分析することを試みている。一般に弁証論(学)と訳されているアポロゲティークは、キリスト教の初期の頃から、その働きを認めることのできる、きわめて歴史性豊かな思考態度であると言える。そもそも、初期の弁証家たちは、キリスト教の真理性を、いかにして当時のギリシア・ローマ世界に対して説得的に語ることができるかについて思索を重ねてきたのだが、その営みは時代や地域を越えて、後のキリスト教の基本的関心の一部を形成することになった。著者の言葉を借りれば、「キリスト教神学はその開始以来、変わることのないキリスト教の福音(Evangelium)の本質を記述することと、その不変の本質をそれぞれの時代の状況や思想の中で表現することという二つの営みを続けてきた」(一二頁)のであり、後者の営みをアポロゲティークと呼ぶのである。
ただし、アポロゲティークに対する評価は、時代によって様々であり、そのことは著者が注目しようとしている近代西欧社会においても例外ではない。アルブレヒト・リッチュルやアドルフ・フォン・ハルナックのように、キリスト教のギリシア精神への適合を、本来のキリスト教精神の歪曲と考える理解が一方にはあり、それはカール・バルトら、今世紀を代表するような神学者にも影響を及ぼしている。他方、エルンスト・トレルチやパウル・ティリッヒのように、キリスト教と時代精神との関係に対して積極的な価値評価を与えていった人物も存在する。そのような矛盾葛藤が近代においては、他のどの時代にも増して顕著になってきたのであり、本書では、キリスト教と近代精神との関係をめぐって苦闘した六名の思想家たちに光が当てられている。
すなわち、(一)セーレン・キェルケゴール、(二)F・W・ニーチェ、(三)フランツ・オーファーベック、(四)カール・レーヴィット、(五)ルードヴィッヒ・フォイエルバッハ、(六)ハンス・ブルーメンベルクらが取り上げられ、著者の関心のもとにそれぞれの思想が有機的なつながりをもって語られている。いずれの人物に関しても、著者は、各人が生きた時代背景や思想史的前後関係などを丁寧に叙述しており、当該人物に対する予備知識を持たない者でも、さほど難解な思いを抱くことなく読み進めていくことができるであろう。
近代におけるアポロゲティークは、古代や中世のように異文化や他宗教に対するキリスト教の弁証ではなく、いったん成立したキリスト教世界が世俗化していくプロセスの中で生じるキリスト教批判に対する弁証というスタイルをもっぱら取っている。本書で取り上げられている思想家たちは、そのような意味でのアポロゲティークによって横断的につなぎとめられているのであるが、そこにおいて不可避的に現れてくるもう一つの視点が終末論なのである。そのことを説明するためにも、著者が六名の思想家を語る際に、共通して持っている視点と問題意識について触れておくことは有益であろう。
第一の視点は、近代世界はどんなにキリスト教批判にさらされようとも、キリスト教的な、とりわけプロテスタント的な深層構造を持っているのではないか、という点である。第二の視点は、アポロゲティークと終末論の関係である。イエスのラディカルな終末論に従えば、神の国が地上のすべての秩序を更新してしまうのであるから、アポロゲティークは必要とされない。しかし、終末が遅延することによって、教会や、キリスト教文化、キリスト教国家などが生まれてきたのであり、また、それらのキリスト教的諸形態が近代のキリスト教批判の対象とされているのである。第三の視点は、日本精神に対する弁証という、日本におけるアポロゲティークへの関心である。著者は、日本社会もその深層構造においてはプロテスタンティズムを採用していると
いう。
本書の論旨に直接に反映されているのは第二の視点であり、また著者が「いずれも終末論の問題が最終的な課題となっている」(一六頁)と述べていることから、以下においては、叙述されている思想家を特に終末論の視点から概観してみたい(実際には、本書では終末論に限定されない思索も展開されている)。なお、本書では先の(一)から(四)の思想家においてキリスト教文化批判の問題を、(五)において無神論の問題を、(六)において世俗化の問題を主として扱っており、それに応じて、「Ⅰ 文化と終末論」「Ⅱ 無神論と宗教批判」「Ⅲ 近代世界とキリスト教」という三つの区分が与えられている。
(一)キェルケゴールにおいて、著者は、一八四八年前後を境とするキリスト教理解の変化に光を当てている。すなわち、一九四八年以前、キェルケゴールの課題は信仰と市民生活の関係にあり、それ以降、彼の課題は教会や国家を含む現世否定へと移ってゆく。後者の態度の中で、彼は神と人の間の中間物の存在を否定し、「同時性」の概念を導入していくことになる。著者は、キェルケゴールのこの変化を、終末論における二類型の間の変化としてとらえる。つまり、終末は「未だ」到来していないと考えるラディカルな終末待望は、あらゆる現世的なものを否定するのに対し、終末は「すでに」教会等の形で成就したと考える終末理解は、神の国の世界内的建設を目的とするのであり、キェルケゴールの場合、後者から前者のタイプへと移行したと、著者は指摘する。しかし、教会はこの二つの終末論の類型がはらむ緊張関係の中で、いまだに終末は到来していないが、それを先取り的に経験する中で、その緊張を統合してきたのであり、そのような現実理解を持ち得なかった点に、著者はキェルケゴールの終末理解の一面性を見ている。
(二)ニーチェにおける終末論的特質を考える際に重要なのは、著者が指摘しているとおり、ニーチェがイエスとキリスト教を区別したという点であろう。ニーチェは、そのキリスト教が、プラトン的形而上学と共に、ヨーロッパ社会の「背後世界」となってしまったことに批判の刃を向けている。つまり、キリスト教的に規定された反自然的な道徳(それはディオニュソスと対置される)を転倒させることに、彼は情熱を注いだのである。道徳としてのキリスト教が、イエス本来の態度とは異なるという認識を、ニーチェは同時代のイエス伝研究から得ている。史的イエスをめぐる実像と虚像の振幅は、ニーチェの時代以降、さらに大きくなっていくが、この振幅の幅が、当然視されてきた世界理解に対し、別様の視点を与える契機の一つとなっていった点は等閑視すべきではなかろう(現代の問題に関しては最後に触れる)。また著者は、ニーチェが目指そうとするコスモス的な世界循環の主張の中にも、キリスト教的伝統が残存していると指摘することによって、ニーチェのようなラディカルな批判者であっても、キリスト教の枠内から逃れ出られないことを示唆しようとしている。
(三)オーファーベックの主張を、著者は「近代神学から文化を解放すること」と「キリスト教の終焉」という二つの論点から描き出している。いずれの主張点も、オーファーベックの終末論に大きく依拠している。オーファーベックは、初期キリスト教における終末意識を現世否定的なものとしてとらえ、この意識の退廃はキリスト教的なものの退廃に他ならないと考える。その意味で、彼が真にキリスト教的であろうとするとき、その時代のキリスト教的な文化や道徳化した神学に対し、ラディカルな否定の態度を取らざるを得ない。また、オーファーベックは、ラディカルな終末論と結びついた現世否定的な福音を「原歴史」と呼び、それによって歴史と結びついたキリスト教を否定する。彼にとって、キリスト教の歴史化は、福音の生命の終わり、キリスト教の終焉を意味するのである。オーファーベックが初期キリスト教に見いだした切迫した終末待望に対し、著者はその妥当性を認める。しかし、初期キリスト教が決して現世否定的な面だけを持ったのではなかったことを説明するために、著者は受肉論を引き合いに出す。受肉論は「この世」を重要なテーマとしているのであり、オーファーベックには受肉論が欠如しているというのが、著者の彼に対する批判点となっている。別の言い方をすれば、著者は、終末論と受肉論を合わせて考えることによって、初期キリスト教の世界理解にバランスを与えようとしている。
(四)レーヴィットは、キリスト教の歴史観と古代ギリシアのコスモスとを対比させる。彼にとって、キリスト教の歴史は救済の出来事を意味し、それは救済の最終的な目標である終末論と不可分に結びついている。しかし、彼の理解によれば、初期キリスト教の切迫した終末意識はそもそも非歴史的であり、「この世から来るべきあの世」への超越を求めていたのに対し、近代の人間は「来るべきあの世」を「歴史の彼方」へと移し替えてしまった。この経緯をレーヴィットは「終末論の世俗化」と呼ぶのであるが、それによって彼が指摘しようとするのは、世界が世俗化しても、なおキリスト教的なものが残存していること、近代自然科学でさえキリスト教的な世界観の影響から抜け出ていないことである。そして、そのことのゆえに彼は、キリスト教的な残滓を徹底して否定し、その後にギリシア的なコスモスの現実へと導こうとするのである。著者はキリスト教神学の側からのレーヴィット批判を取り上げているが、最終的に著者がレーヴィットに対し感じている最大の問題点は、彼が終末と時間、あるいは終末と歴史をあまりにも対立的に考え過ぎているという点である。著者によれば、初期キリスト教は終末の「すでに」という側面と「いまだ」という側面とを調停させることによって、終末遅延の問題に答えようとしたのであり、そのような調停を重視した別の証拠として、オーファーベックのときと同様、受肉論を引き合いに出すのである。
(五)フォイエルバッハに関して、著者は無神論と宗教批判というテーマのもとに論を進めており、終末論に直接言及する箇所は見られない。しかし、終末論が現世的なものと現世否定的なものの間の緊張関係を語ってきたのと平行するように、フォイエルバッハは、自然的なものとその神格化の関係を問題にしており、その意味で、フォイエルバッハの宗教批判は、これまで述べてきた思想家たちの歴史批判と類似した側面があると言える。著者は、フォイエルバッハの宗教批判に対し、バルト、パネンベルク、ティリッヒらの反論を紹介している。
(六)ブルーメンベルクの近代理解を叙述する際、著者は彼の世俗化理解に注目している。そして、ブルーメンベルクの主張点を際立たせるために、レーヴィットの世俗化論と対比させる。レーヴィットは、先に見たように、終末論を近代の進歩的歴史観と結びつけ、後者を前者の世俗化として理解したが、ブルーメンベルクはこの理解に反論する。彼によれば、終末論は歴史を否定する考え方であり、それに対し、進歩の概念は歴史内の発展や到達段階のことであり、両者はまったく異なるものである。レーヴィットもブルーメンベルクも、共にキリスト教的な近代思想を批判するのであるが、その際、方法論として用いられている世俗化理解が異なっている。レーヴィットは、キリスト教の歴史全体を批判するために、中世と近代の連続性を世俗化によって説明するのであり、ブルーメンベルクは、近代を中世から自立させるために、レーヴィットのような世俗化理解を否定するのである。なお、著者は、神の像という聖書的な人間理解なしには、人間が神のように自由になるという近代思想は成立しなかった、というレーヴィットからブルーメンベルクに対する反論も紹介している。また、終末論に関しても、ブルーメンベルクはレーヴィットと異なる主張を展開する。彼は、初期キリスト教のラディカルな終末待望をグノーシスの二元論と対応させ、同時に、中世神学がグノーシスを拒否したとき、中世は自ら安定性を再構成する努力(すなわち世俗化)を始めることになったと理解する。言い換えるなら、ブルーメンベルクは、レーヴィットのような「終末論の世俗化」ではなく、「終末論による世俗化」を主張するのである。
以上、多岐にわたる本書の内容を、特に終末論を中心的な切り口にして紹介してきたが、最後に若干の疑問を述べ、今後の終末論研究の課題を描写してみたい。
著者が取り上げる思想家たち、そして著者自身が共に前提にしているのは、初期キリスト教はラディカルな終末待望を有していたということである。しかし、ラディカルな終末待望の内容が何であったのかについては、「現世否定的」などの言葉によって特徴づけられる以外、ほとんど具体的な説明は見られない。時として、著者は受肉論をラディカルな終末論と対置させることによって、教会の世界観にバランスを与えようとしているが、そもそも初期教会の終末論はそれほど圧倒的に現世否定的、超歴史的な性格を持っていたのであろうか。と言うのも、昨今の(特に北米における)聖書学の研究成果によれば、イエス自身がそのような終末思想を持っていたという従来のコンセンサスはほぼ解体し、初期の教会においても終末理解は一様ではなかったことが明らかにされつつあるからである。確かに、かつて長い時代にわたって、イエスを終末論的預言者と理解する見方は一般的であり、本書で取り上げられている思想家たちも、ほとんど例外なく、そのような見方を共有している。しかし、今日、その見方に強烈な疑義が差し挟まれ、むしろイエスを「知恵の教師」等の類型の内にとらえようとする見解が少なからず影響力を持ち始めている。そのような状況下では、たとえば「現世否定的」という、本書でごく当たり前に用いられている言葉も、非常に幅広い解釈が可能なのである。無論、イエス研究や初期キリスト教研究における終末理解はまだ流動的であり、その意味では何ら確定的なことは言えないが、少なくとも、かつて当然視されていたラディカルな終末論とイエスおよび教会との関係については、より慎重な考察が求められているのである。
何をキリスト教にとってより始源的と見なすかは、時代によって様々であるが、少なくとも、本書で取り上げられた思想家たちはそれをラディカルな終末論と見なし、それを批判軸として同時代のキリスト教への論駁を試みたのであった。そういったキリスト教批判に対し、著者はアポロゲティークを展開しているのであるから、彼らが前提とする近代思想の枠組みに準拠する限り、著者の主張が十分な妥当性を持つことは言うまでもない。ただし、その枠組みが、現在、大きく揺らいでいることは、もはや看過できない事柄である。
また、著者がラディカルな終末論と対置させている受肉論は、ギリシア的な思想背景のもとに形成されているが、それを初期キリスト教の合意事項とすることにも慎重でなければならない。むしろ、受肉論はイエス理解の一つとして理解した方がよいと思われる。確かに、教会の組織化が進展するにつれて、「いまだ」と「すでに」の緊張関係の現実的調整に教会が苦慮してきたことは、著者の指摘するとおりである。しかし、そのようなバランス感覚が、イエスと初期教会の終末理解の主要関心事であったかどうかは別問題である。