神田健次編『生と死』(講座 現代キリスト教倫理 第1巻)日本基督教団出版局
第2章 人工授精・体外受精
小原 克博
Ⅰ 問題の所在
人工授精と体外受精は、先端医療や生命倫理をめぐる議論の中で、もっとも社会的関心の高いトピックスの一つであろう。その関心は、生殖技術の急速な進展がもたらし得る可能性への期待と、その技術が適用されることによって生じる潜在的影響力を見通すことのできない不安とが、重なり合って形成されている。その意味で、倫理的課題としての人工授精・体外受精は、人間が自ら獲得した自由や選択可能性をどのようにして、また何のために制限しなければならないのか、という問いを絶えず投げかけている。
ところで、この種の議論がなされる際に、しばしば宗教が引き合いに出される。一般的に宗教家は慎重論の代弁者と見なされているので、宗教家を議論に加わえることによって、生殖技術の推進者は、幅広い意見を聞いているという姿勢を対外的に示すことができるのである。しかし、そういった便宜上の役割に限定されることなく、宗教(特にキリスト教)はどのような形で、今日の生殖技術をめぐる諸問題に具体的に、そして批判的に寄与することができるのか、ここでは特に人工授精・体外受精を中心に考察してみたい。
生殖技術の中で、人工授精はもっとも古くからある技術であり、生命倫理をめぐる議論はここから始まったと言える。また、着床前の受精卵遺伝子診断など最先端技術のほとんどは体外受精に関係している。クローン技術をはじめ今後急速に発展する生殖技術も、すべて体外受精の研究で確立された基礎の上に築かれていくのである。もともと不妊治療として開発された体外受精が、今や本来の目的を離れて、生殖遺伝学がもたらす多くの選択肢への足がかりとなっている。
かつて、生殖や出産は人間がどうすることもできない、つまり自然にゆだねるより他なかった領域であった。それゆえ、それは神に祈願すべき、きわめて宗教的な領域であった。その例を聖書の中からあげてみよう。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創一・二八)という言葉は、人間に向けられた祝福の言葉であるが、それが規範的にとらえられるようになると、産めないことは、神の祝福からもれていると考えられることにもつながった。聖書、特にヘブライ語聖書(旧約聖書)では、出産は祝福として、不妊はのろいとして見なされている。サラ(創一七・一五―一九、二一・一―二)、ラケル(創三〇・二二―二三)、ハンナ(サム上一・五、一九―二〇)、エリサベト(ルカ一・二四―二五)、マリア(マタ一・一八―二五、ルカ一・二六―三八)の奇跡的な受胎は、神が大いに関与したことの結果である。年をとっていたサラ、エリサベト、長らく不妊であったラケル、ハンナ、夫を介さないで身ごもったマリアらの身に起こった出来事は、まさに神の大いなる恵みとして語られ、畏敬の念を起こさせる。他方、今日では六〇歳を越えた出産も技術的には可能であり、不妊治療を経た出産も一般化しているが、それらは奇跡によるのではなく、生殖技術による科学的プロセスの結果と見なされる。
このように、生殖技術の進展と共に、生殖や出産は、神が関与する領域から、人間が管理する領域へと急速に変容しつつある。しかし、だからと言って、生殖・出産の領域から祈願や苦悩がなくなってしまったわけではない。それどころか、人間は自らの生殖を管理するにつれ、従来見られなかったような責任と決断の苦しみに直面しつつある。例えば、出生前に胎児の遺伝的問題がわかるようになって生じる、産むべきか、産まざるべきか、という問い、あるいは十分な技術的恩恵を享受しながらも、なぜ妊娠・出産がかなわないのか、という問いは、必ずしも医学的に解決がつくわけではない。
伝統的に「神義論」(なぜ神は悪や不幸から救い出してくれないのか)として問われてきたアポリアは、先端医療においても存続しているのであり、それへの応答はきわめて宗教的・牧会的な意味合いを持っている。最近、先端医療の分野でも、インフォームド・コンセントのみならず、患者に対するカウンセリングの充実が叫ばれている。キリスト教では牧会カウンセリングという形で信徒の悩みを聞き、悩みを分かち合うことがなされてきたが、近年、北米の教会では、不妊治療に対する牧会的配慮も無視できない課題となってきている。
このような課題の前で、教会は自らが担うことのできる積極的役割を自問すべきなのは言うまでもない。しかし、同時に考えなければならないのは、キリスト教をはじめ多くの宗教が、長い間、生殖を管理・規制する役割を果たしてきたということである。その際、もっぱら管理の対象とされたのは女性の身体であり、今なお負担を負わされるのは女性である。そのことを誠実に受けとめるなら、宗教は十分にフェミニズム的洞察を踏まえた上で、人工授精・体外受精などが提起する生命倫理的課題に取り組むことが求められるのである。
Ⅱ 人工授精・体外受精をめぐる問題群
日本では子どもを産みたいと希望する夫婦の約一〇パーセントが、外国では約一五パーセントが不妊であると推定されている。不妊のメカニズムが医学的に解明されていなかった時代には、その原因は女性の側にあるとされた。今では不妊の原因は男性側・女性側に同程度にあることがわかっているが、さらに最近の研究では、不妊が増えつつある原因の一つとしてダイオキシンなどの化学物質の影響が指摘されている。人工的に作り出された化学物質が男性の精子の数を減少させ、女性の子宮の機能不全を引き起こすというのである。今後は不妊の予防としても、環境問題への積極的取り組みを欠くことはできない。
こういった実情の中で、有力な不妊治療として用いられてきた人工授精と体外受精の歴史や現況について次に述べる。
1)人工授精
人工授精(Artificial Insemination)は、精子を直接注射器で子宮または卵管に入れ、そこで自然に授精させる不妊治療である。人工授精はもともと、家畜を改良するために研究されていた。人工授精は二〇〇年以上の歴史を持ち、一八世紀末、スコットランドのジョン・ハンターによるものが最初と言われている。一九六〇年代半ばに精子を凍結保存できる技術が確立してから、人工授精は急速に普及した。
人工授精には、夫の精子をつかう配偶者間人工授精(AIH=AI by Husband)と、夫以外の精子をつかう非配偶者間人工授精(AID=AI by Donor)とがある。日本では人工授精については非夫婦間でも適用される(体外受精、凍結胚移植は夫婦間のみ認められる)。生まれた子供は、夫婦間の場合は法律でも実子とされる。非夫婦間の場合は妻の実子であっても夫の実子ではないため、夫が自分の実子として承認した場合でないと、法律的にも実子とはみなされない。日本で最初のAID児は、一九四九年に慶應義塾大学病院で誕生し、ここだけですでに一万人を越えるAID児が生まれている。
AIHが社会的抵抗にあうことはほとんどない。それに対し、AIDは、独身女性やレズビアン・カップルらが利用する可能性に対する反感から、欧米ではしばしば問題なってきた。AIDは、男性の生物学的権利を重要なものと見なす伝統的家庭観を揺り動かす危険性を持っているのである。人工授精は技術的に非常に簡単であり、必要な道具は精子を子宮内に送り込むための注射器だけである。この簡便さから、父親は不要であるが子どもを持ちたいと願う独身女性やレズビアン・カップルが、自分たちだけで授精を試みること(Do-it-yourself-AID)も可能なのである(ただし、法律的にはたいていの場合、医者が処置すべきこととして定められている)。実際、1980年代初めに、ロンドンでレズビアン・フェミニストのグループが「フェミニスト自家授精グループ」(The Feminist Self Insemination Group)を設立した。もっとも、提供された精子の質や安全性を非専門家が判断することはきわめて困難であり、その点で女性がリスクを負わなければならないとすれば、それは看過できない問題である。
しかし、このような事態も変わりつつある。女性が特別のリスクを負うことなくAIDの技術を利用できるように、先進的なフェミニストたちが、すべての女性のため、慎重にスクリーニングされた精子を提供する「カリフォルニア精子バンク」(The Sperm Bank of California)を1982年に設立し、活動を続けている(活動の詳細については https://www.thespermbankofca.org/ を参照)。そのサービスは、結婚暦・性的指向・肉体的障害にかかわらず、すべての女性に対し開かれており、またそこでは精子提供者の詳細なデータが公開されている。
このように人工授精は、その技術を比較的容易に利用できるという点で他の生殖技術の中でも際立っており、とりわけ、次に述べる体外受精――その技術的管理は男性主導的な専門医の手に全面的に委ねられている――と対照的である。
2)体外受精
体外受精(IVF=In Vitro Fertilization)は、精子と卵子を体外で人工的に受精させ、この受精卵をある程度育てた後、再び子宮内に戻して(胚移植)着床させ、妊娠させる不妊治療である。普通は、排卵誘発剤を使い、卵巣に多数の卵子を発育させ、これらを針などを用いて取り出し、培養液に入れ、あらかじめ取っておいた精子を加えて受精させる。着床しやすい八―一六個ぐらいに分裂した受精卵を子宮に戻す。卵管が閉じていたり、狭かったりして卵子が子宮まで出ない女性でも夫の精子で妊娠・出産が期待できるため、体外受精は広く利用されるようになった。しかし、一回で出産にまで至る確率は一〇~一五パーセントと低く、成功するまで治療を繰り返さなければならないことから、女性の精神的・肉体的負担、また経済的負担はかなり大きくなりがちである。
世界ではじめての体外受精児ルイーズ・ブラウンは一九七八年、エドワーズとステプトーの手によって、イギリスで生まれた。日本で最初の体外受精は一九八三年に行われ、その関連技術の助けを借りて生まれた赤ちゃんは、一九九六年までの累計で約二万七千人に上る。この数は世界的に見てもかなり多い部類に入る。治療総数は年々増加しているが、特に最近その数を押し上げている治療法として、顕微授精を指摘することができる。顕微授精は、顕微鏡下の操作で精子を卵子の中に送り込む体外受精技術であり、精子の数が少ないなど、男性の側に不妊の原因がある場合の対策として登場した。
「試験管ベビー」と呼ばれるのは、体外受精と胚移植の過程によって誕生した子どものことである。しかし、この呼び名は、発生・発育の全過程が試験管内で行われるかのような印象を与えるので適切でないという指摘もあり、最近ではあまり用いられていない。
一般的な体外受精・胚移植の他に、卵子と精子を混合させ、授精は確認しないで卵管に移植する配偶子卵管内移植法(ギフト法)など、広義の体外受精にはいくつかのヴァリエーションがある。
3)代理母
人工授精や体外受精の技術が進んだことで、夫婦以外の第三者(代理母)の子宮、卵子、精子を使った出産も可能になっている。アメリカでは女性に報酬を払って代理母を引き受けさせる業者が多数存在している。例えば、「アメリカ代理母センター」(The American Surrogacy Center)では、代理母斡旋会社が数多く紹介されており、アメリカにおける実態を垣間見させてくれる(https://www.surrogacy.com/)。
もっとも、アメリカの多くの州で、商業ベースの代理母利用は違法である。しかし、合衆国憲法では、各州に、結婚・離婚・養子縁組・相続権などに関する法律の決定権が与えられている。それゆえ、代理母を利用したい場合には、それが法的に許可されている州に行けばよい。他方、日本産科婦人科学会は代理母を認めていない。そのため、日本人夫婦がアメリカにいって代理出産を依頼するケースが後を絶たないのである。
体外受精では、しばしば夫婦以外の第三者が生殖に介入する。その結果、三種類の母、すなわち、卵子を提供する遺伝子上の母、子どもを懐胎する母(代理母)、誕生した子どもを育てる社会上の母が出現することになった。そのため、複数の母が、一人の子どもの所有をめぐって法的な問題を引き起こすこともある。代理母と依頼した夫婦の間で子どもの奪い合いが起こり、法廷で争われた「ベビーM事件」は、その典型的な一例である。
しかし、生殖に第三者が介入することになっても、それはやはり「わたしの子」を持つための手段であり、その点では古代からの代理母と大きく変わるわけではない。そもそも、広い意味での代理母は少なくとも三千年の歴史を持っており、その事例を聖書の中に見ることもできる。例えば、ヤコブとの間に子どもができないラケルは、召し使いのビルハによってヤコブの子どもをもうけさせ、その子どもを自分の子にしようとするのである(創三〇・一―五)。
4)近年の動向
体外受精関連の技術は日進月歩であるが、その反面、安全上の問題、医療倫理上の問題を十分に検討しないままに適用されている場合も少なくない。しかし、今はセンセーショナルな話題となる先端治療が、数年後には、確立された治療法として普及しているかもしれない。それほど技術革新が目覚ましいのが生殖技術の特徴であり、その点を留意した上で、近年の事例をいくつかあげてみたい。
男性が成熟した精子を作ることができない場合、これまでの体外受精技術では対処の方法がなかったが、最近では、精子になりきれない未熟な円形精子細胞を体外で培養し、精子に育ててから受精・妊娠させる新しい不妊治療が国内で行われている(一九九七年以降)。円形精子細胞のままでの利用は日本不妊学会で凍結されているため、この治療法はその禁止コードを巧みに回避する手法の一つと言えるが、その安全性を危惧する声もある。
英国では、三年前に亡くなった夫の冷凍精子を用いて人工授精を行った女性が妊娠・出産した(一九九七年八月)。また、米国では夫の死後に抽出した精子で妻が妊娠したことが報告されている(一九九八年七月)。今後、このような例は増えつづけるであろう。しかし、男性の身体を離れた精子が一体誰に帰属するのかという所有権の問題に対し、まだ明確な法的規制は存在していない。いずれにせよ、死者の「遺物」になお生命の継続を望み見させる先端技術は、死を超えた生命の永続性を期待する、ある種の宗教的感情すら連想させる。
再度、国内の問題に目を移すと、生殖技術にかかわる問題を社会に突きつける役割を果たした出来事として、非配偶者間の体外受精の実施とその公表を忘れることができない(一九九八年六月)。日本産婦人科学会が禁止していた治療法を取ったことにより、実施した医師は学会からの除籍処分を受けることになったが、医師の行為は賛否両論の幅広い議論を生み出すきっかけとなった。国内初の体外受精が行われた一九八三年当時、非配偶者間での体外受精についても激しい議論が起こり、日本産婦人科学会は「日本での宗教観や倫理観にそぐわず、世論の理解が得られない」として慎重な姿勢が多数を占め、それが今日まで継続している。
ここで我々が考えなければならないのは、一体何が「日本での宗教観や倫理観」なのか、ということである。もちろん、ひとくくりにできるような日本の宗教観・倫理観といったものは存在しないが、多くの宗教に共通する特質がここで想定されているとすれば、それは何であろうか。非配偶者間の体外受精によって危険にさらされるのは、伝統的な家庭観である。夫以外の精子を使用した場合には、家父長制において重視される男性の生物学的血統が絶たれることになる。また、妻以外の卵子を使用した場合には、妻に母性的役割を担わせる根拠が希薄になってしまう。いずれにしても、家父長制的家族観――それはしばしば宗教によって担われる――の根幹が揺らいでしまうのであり、その危険性から「日本での宗教観や倫理観にそぐわない」と言っているのではなかろうか。
また、非配偶者間の体外受精をめぐる議論と同時期に、日本産科婦人科学会は、生まれてくる子どもの遺伝病の有無を、体外受精後の受精卵で診断する「受精卵遺伝子診断」を承認した(一九九八年六月)。承認された見解は、診断の対象を重い遺伝病に限定した上で、学会の事前審査や報告を義務付けるなどの条件を付け、安易な診断への歯止めを掛けている。しかし、議論が尽くされていないとして討議の継続を求めていた障がい者団体などから、強い反発が出ている。
着床前の受精卵診断に限らず、母体血清マーカー検査(胎児のダウン症などの障がいの有無の確率を母親の血液から推定する)などを含む出生前診断が、その倫理的な是非を問われている。そこでは、総じて、我々は生命の質を選別すべきなのか、また、選別することができるのか、という生命倫理の根幹にかかわるような問いかけがなされているのである。もしかしたら人間のエゴイズムや異質なものへの敵意が出生前診断の普及を支えているのかもしれない、という内省――それはきわめて宗教的・倫理的な行為である――を含め、十分な議論の積み重ねと、それに基づいた社会的合意の形成が今必要とされている。
Ⅲ 人工授精・体外受精に対する評価
人工受精・体外授精に関しては、それが実施された当初から、賛否両論があった。ここでは議論の広がりを見通すために、いくつか代表的な見解を紹介する。すでに述べたように、しばしば宗教が、生殖に対する規範的な力を持っていたのであり、生殖技術を生み出した西欧社会において、それはキリスト教であった。しかし、以下に見るように、キリスト教の中でも見解は多様に分かれている。また、生殖技術の適用に際し、主として女性の身体が治療の対象とされてきたことを反映して、いずれの立場においても、フェミニズム的視点が重要な役割を果たしている。
1)肯定的立場
a)自然を制御する人間という視点から
米国の聖公会の神学者・倫理学者ジョセフ・フレッチャー(Joseph Fletcher)は、生殖技術の利用をより人間的な行為として積極的に評価している。彼によれば、制御できることこそが人間的・合理的なのであり、医療倫理の基本は、制御によって人間の苦しみを最小化することにある。したがって、出産を制御することなしに「性のルーレット」によって子どもを産み出すことは無責任な行為であり、また制御可能であるときにそれをしないのは不道徳であるとさえ言う。自然環境を制御することによって人類の歴史が始まったように、生命の質を制御することによって、より人間的な道が開かれると考えるのである。したがって、彼の考えからすれば、人工授精や体外受精による妊娠・出産は、通常の異性間性交に比べ、はるかに人間的である。
一見極論に思えるようなフレッチャーの主張も、生殖技術の推進者たちにとっては、むしろ自然な論理であろう。医者や科学者たちにとって、人間が自然のメカニズムを解明し、それを制御することは当然のことであり、宗教的に言うならば、その能力こそが神から人間に与えられた賜物なのである。人間は「神にかたどって創造された」(創一・二七)以上、神から引き継いだ創造性を発揮しなければならないのである。このような形で世俗化した創造論は、今日の先端技術の中に深く根をおろしている。
b)フェミニストの視点から
男性による女性の支配を拒絶しようとするフェミニストにとって、生殖の過程で男性を排除できるという点で、人工授精は望ましいものである。また、十分な安全策を講じれば、身体的に搾取されずに体外受精を利用することができる。体外受精のために、一人の女性が別の女性の卵子を必要とする場合にも、そこで形成される関係は、一方が他方を搾取しているというより、むしろ、一人の女性が別の女性の手助けをしていると見なすこともできる。
フェミニストの立場から生殖技術を積極的に評価した先駆的代表者としてシュラミス・ファイアストーン(Shulamith Firestone)をあげることができる。彼女は性における不平等を生物学的理由から説明し、それを克服するために生殖技術を最大限利用しようとした(『性の弁証法』評論社、一九七三年)。彼女の主張の前提には、女性が担わされてきた妊娠・出産・授乳・育児などの性的役割分業こそが、政治的・経済的・文化的な両性の不平等を生み出してきたという理解がある。したがって、そういった不平等から女性が解放されるためには、生殖にかかわる役割を男女平等に割り当てるために完全な体外生殖を実現する必要がある、というのである。
彼女の主張は当時のフェミニズム運動にも大きな影響を及ぼした。しかし、その後、体外受精が現実のものとなると、ファイアストーンの主張は体外受精の推進者たちによって利用されることになった。それに呼応して、フェミニストの側からも安易な技術信奉に対する批判が出されるようになってきた。ファイアストーンにおいては看過されていた、女性の根源的力としての生殖の尊厳性に目が向けられるようになったのである。
2)否定的立場
a)宗教的視点から
ⅰ)ローマ・カトリック
ローマ・カトリックにとって、性の働きは、夫婦の愛の交わりと生殖という二重の目的を持っており、それらを別々にすることは神の創造の意図に反する(この点から、人工避妊・マスターベーションも原則的に禁止される)。それゆえ、カトリックは、自然の性行為以外の生殖を基本的に否定する。同時に、生殖は神聖な領域であり、生命を人為的に操作することは許されないという立場を取る。
興味深いのは、これらの主張が、しばしば伝統的な自然法(natural law)思想によって根拠付けられてきた、ということである。自然法に基づく方法論は演繹的であるが、この方法論がカトリック内部でも問題にされてきた。自然法的な解釈に対する批判者たちは、もっと個人的・個別的な問題に注目すべきだと主張し、帰納的な方法論を重視しようとする。
このように、今日のカトリック内部の見解はきわめて多様化しているが、生殖技術に対するバチカンの公式な見解は、例えば教皇庁教理省による『生命のはじまりに関する教書――人間の生命のはじまりに対する尊重と生殖過程の尊厳に関する現代のいくつかの疑問に答えて』(一九八七年)において示されている(英語での全文はhttps://listserv.american.edu/catholic/church/vatican/giftlife.doc)。ここでは、非配偶者間の人工授精や体外受精は、夫婦の一体性を損なう、という理由から認められていない。
ⅱ)プロテスタント
プロテスタントの側で、生殖技術に対し批判的態度を示した代表的人物としてポール・ラムジー(Paul Ramsey)をあげることができる。彼の主張によれば、生殖を愛の行為から切り離してしまうことには、予期できない人格的・社会的な危険が潜んでいる。また、生殖技術は人間を自然の支配者にすることを約束するが、それは少数者による多数の支配だけをもたらすのである。
「われわれは人間であることを学ぶ前に、そして人間であることを学んでいるときに、神を演じたいとは思わない」(Fabricated Man, Yale University Press, 1970, p.151)という主張は、神と人間との厳格な区別を前提にし、生殖技術を神の領域への侵犯としてとらえている。また、自然環境と人間の身体的自然とを重ね合わせることによって、次のようにも語る。「人間の地球の略奪(rape)と神から委託された環境の管理に関して行っているさまざまな愚行を見るにつけても、人間が今や自己自身の種を修正し得る統治権に到達していると信じるに足るいかなる理由も見出すことはできない」(同書一二四頁)。
プロテスタントの場合、バチカンのような統一的な見解があるわけではないが、ラムジーの場合のように、責任倫理が重視される傾向がある。
b)フェミニストの視点から
新しい生殖技術が女性の自己決定権を拡大するかもしれないという熱狂的期待が過ぎ去った後、生殖技術そのものの意義に対する批判的問いかけが、フェミニストたちによってなされるようになった。女性の生殖が男性主導の医療によって管理されるところでは、女性の自己決定という自由も、結局、女性に新たな責任と負担を強いることになるのではないか、という疑問が出されてきたのである。自己決定という言葉が、技術の適用を進めようとする人々にとっての「免罪符」となってしまう危険性も指摘されている。
また、生殖技術が、女性を生物学的なパーツの寄せ集めに還元してしまうことへの不安や批判が出てきている。新しい技術は、生殖に対する父権的支配や女性の抑圧を永続させるかもしれない。このような視点から、技術が女性に不利益をもたらす可能性を徹底して糾弾するグループの一つとして「フィンレージ」をあげることができる。フィンレージ、すなわち「生殖と遺伝子の操作に抵抗するフェミニスト国際ネットワーク」(FINRRAGE=Feminist International Network of Resistance to Reproductive and Genetic Engineering)は、1985年7月にスウェーデンで緊急会議を開き、次のような宣言をしたのである。「女性のからだは、生命をつくり出すという固有の能力を持っているので、科学技術による人間生産のための原料として奪われ、切り裂かれている。このような科学技術の開発は、私たち女性にとっても、自然にとっても、世界の搾取されている人々にとっても、宣戦布告である。遺伝子工学と生殖工学は、からだに対する女性の自己決定権を奪うものである」(L・タトル『フェミニズム事典』明石書店、一九九一年、一二一頁)。
ただし、フェミニストの言う女性の視点が、必ずしもすべての女性を包括していないという矛盾も近年指摘され始めている。例えば、フェミニストは「産め」という社会的圧力に懸命に抵抗してきた結果、「産みたいのに産めない」女性の気持ちを十分に汲み取ってこれず、不妊女性たちを孤立させてしまったのではないか、という自己批判がなされている。こういった洞察のもとに、今後、生殖技術に対するフェミニストの見解は、ますます多元的な主張を包括していくであろう。
Ⅴ 課題と展望
これまでの考察からもわかるように、生殖技術は、単に医療の問題にとどまらず、人間理解全般に及ぶ影響を及ぼしつつある。つまり、これまでの生命理解や家族理解、また性理解や男女理解を大きく変えていく可能性を持っているのである。それだけに、技術の進展に対応する形で、医療現場の改善(インフォームド・コンセントおよびカウンセリングの充実)や法的整備(親子法の再検討)が急がれるのは言うまでもない。しかし、医療や法律によって生殖技術に付随するすべての問題が解決するわけではない。むしろ、生命の営みの中に人為的に介入することによって生じる根源的な問いの前で、多くの人々は狼狽せざるを得ないのであり、それゆえ、生命にかかわる根源的な課題に対し、宗教は何らかの形で貢献することを今求められているのである。
最後に、そういった要請に応えるために、キリスト教(あるいは宗教一般)が取り組むべき課題を指摘してみたい。
1)宗教的言説の再検討
ほとんどの宗教は、女性の生殖を管理するための社会的機能を果たしてきた。言葉を変えれば、伝統的な宗教的言説は、少なからず女性の自己決定権を阻害する要素を持っている。したがって、新しい生殖技術に対し適切な距離を取るためには、まず自らの宗教的言説を分析し、それをあらたに解釈する必要がある。そうでなければ、女性の自己決定権を宗教的にサポートすることは到底できないであろう。
例えば、キリスト教では、男性を霊的・理性的存在と見なし、女性を肉体的・性的・非理性的・感情的存在と見なす性的二元論が様々な教えの中に反映されている。これがそのままであれば、キリスト教は男性主導の医療技術を理論的に補完することしかできない。
2)テクノロジーに対する批判的洞察
価値中立的な技術は存在しない。一見中立であるようでも、何らかのバイアスがかかっている。そのバイアスのかかり方が、特定の社会集団の利益となるように誘導されていないかどうか、その公正さを吟味できる視点を宗教は持っていなければならない。その意味で、宗教は単に技術嫌悪(technophobia)であることはもはやできないのである。
生殖技術は生殖の様々な可能性を生み出していったが、今のところ、それらはもっぱら伝統的な家族観・男女観に基づいてのみ実施が認められているのが現状である。つまり、新しい技術は、皮肉にも旧来の家族イデオロギーを強化する働きをしており、新しいぶどう酒は古い皮袋に入れられている(マコ二・二二参照)。このような実情の中で、キリスト教は「古い革袋」と「新しい革袋」のいずれを提供することができるであろうか。
3)公共的にアクセス可能な表現・方法の提供
生殖医療がもたらす生命倫理的課題に対し社会的意義のある応答をしようとするなら、宗教は公共的にアクセス可能な(publicly accessible)表現と方法を示さなければならない。ペンテコステ派のいやしや、クリスチャン・サイエンスの実践(彼らは医療行為を拒否する)が効果的であり、エホバの証人の輸血拒否が説得的であったとしても、それは公共的な基盤になり得ない。いずれも、彼ら独自の信仰理解に基づいた治療であり、社会的に共有することが困難だからである。信仰への誠実が自己充足になるのではなく、公共性へと広がっていく言葉と実践を、われわれは求められているのである。
4)身体共同体のモデル作り
フェミニストたちは、生殖医療の現場において女性の身体が部品化されることに抵抗し、身体の全体性を主張した。さらに言えば、身体的人間はただ孤立するのではなく、互いに支えあう身体共同体を必要としている。身体共同体は、病気や老いや障がいを排除することによって健康や健全さを獲得するのではなく、むしろ病気・老い・障がいと折り合い、共存していく中にこそ、生の重層的・神秘的な意味を開示していく。教会は、そのような意味での身体共同体を形成し、モデルとして示すよう求められているのである。
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