書評「Roland Cole-Turner; Brent Waters, Pastoral Genetics: Theology and Care at the Beginning of Life, Cleveland: The Pilgrim Press, 1996, 170p.」、『基督教研究』第60巻第1号
生殖技術は米国・英国・オーストラリアなどを中心に急速に発展し、時としてセンセーショナルな事件を引き起こしながら、今や世界中に影響を及ぼしている。しかも、その影響は医療の領域を越えて、広く一般社会に及び、伝統的な生命観・家庭観・男女観を揺さぶっているのである。また、生殖技術を語る上でキーワードとなる「遺伝子」や「DNA」といった言葉は、今や社会的言説としての位置を獲得し、それゆえ、様々な俗説や神話をも生み出している。
日本でも、1998年6月、非配偶者間の体外受精(日本産科婦人科学会では禁止されている)が一人の医師によって実施されていた事実が明らかにされて以来、生殖技術の倫理的是非をめぐる議論が高まってきた。同学会はこの医師を除籍処分にしたが、他方、同学会は、それと同じ時期、多くの障がい者団体から出された批判に十分に答えないまま、「受精卵遺伝子診断」の実施を承認した。受精卵遺伝子診断に限らず、今日普及しつつある出生前診断をめぐり、われわれに「生命の選別」は可能なのか、そもそもそれは許されるのか、という問いが突きつけられている。
これら一連の出来事の中で端的に認識させられるのは、先端医療の進展をただ傍観することは、倫理的に正しくない、ということである。では、キリスト教倫理という視点から、きわめて現代的なこれらの問題群に対し、どのような取り組みを始めることができるのであろうか。この問いに対し、米国での実情を踏まえながら、実践的な洞察を示しているのが、ここでとりあげている書物である。
"Pastoral Genetics"(牧会的遺伝学)という主タイトルから推測されるように、本書は牧会的な目的を持っている。現代人にとって生殖医療は決して特殊な事柄ではなく、むしろ身近な、そして同時に切実な問題として存在している。著者によれば、本書は、そういった現状に牧会者が積極的に参与するための招きの書である。
本書の各章の冒頭では、牧会カウンセリングの現場で起こり得る、生殖・受胎・出産をめぐる事例が具体的に記されている。出生前診断の結果が胎児の遺伝的異常の可能性を示した場合、どのような夫婦もその可能性の前に狼狽する。産むべきか、産まざるべきか。遺伝カウンセラーは夫婦が自己決定するために必要な情報を提供するが、それによって彼・彼女の苦悩が解決するわけではない。とりわけ信仰者にとって、生命の選別を迫られる苦悩、あるいは産みたくても産めない苦悩は、神への切実な問いかけとなることが多い。米国における牧会の現場では、そういった問いかけが決して見過ごしにできないほど存在感を増しつつあることを、本書の随所から感じさせられる。
では、牧会者にできることは何か。相談者の悩みを、ただ同情的に聞くだけでは不十分である。たとえ明快な答えがなくとも、神学的に応答する責任のあることを著者は力説する。それは抽象的な神学論議を準備することではない。むしろ、不安と苦痛のただ中で神の臨在を共に探求し、神がどこにも見出せないような絶望にあっては長い沈黙を共にする、そういった共同の営みを支え得るような神学的基礎付けが求められているのである。
もっとも、この場合、神学的応答がより的を得たものとなるために、牧会者が今日の生殖技術の基本的な知識を、多少なりとも身につけていることが必要であろう。そのために、本書では一つの章が遺伝学や遺伝子診断の基礎的解説として当てられている。また、著者は、牧会者と遺伝カウンセラーが相互に補完的な役割を果たすことを認めた上で、牧会者に固有の働きがあることを示す。遺伝カウンセラーは「非指示の原則」にしたがって、患者に対し、ある特定の選択を促すことはしない。しかし、当の女性あるいは夫婦に委ねられた自己決定の自由は、かえって彼らの苦悩を増すことが少なくない。それゆえ、牧会者には、彼らの信仰的心情を十分に尊重した上で、「非指示の原則」ではカバーしきれない、決断への道のりを共に歩むことが求められるのである。
ところで、生殖技術の現状に関心を寄せるのと同様に、あるいはそれ以上に重要な作業がある。それは、伝統的なキリスト教の生命観の再検討である。そのために、著者は特に創造論・キリスト論・復活論に注目しながら、伝統的価値観の再解釈を試みている。その際、現代神学の諸成果が積極的に用いられていることは言うまでもない。とりわけ、S・ハワーワス、J・モルトマン、W・パネンベルクらの主張を、著者はしばしば論拠として引用している。
まず、著者が強調しているのは、神学的テーマとして「創造」の重要性を回復することであり、その上で、生殖という個人的な領域においても創造者なる神が働いていることの意義を展開していくことである。確かに教会は伝統的に、神を天と地の創造者として告白してきた。しかし、すべての被造物を貫徹する神の力の普遍性が、今日生殖医療が扱う生命発生の微細なプロセスにおいて、十分な慰めと導きになってはこなかった。それどころか、著者が正しく指摘しているように、女性の身体(母体)は男性の管理下に置かれ、神の名のもとに、そういった支配・従属の関係が正当化されてきたのである。このような不当な伝統を正すためにも、「創造」に対し、より適切な神学的位置付けを与えることが求められるのである。
幸いにも、聖書における創造の重要性は、特にエコロジーの観点から見直され始めている。神の創造行為は、救済史的な伝承の背後に隠れがちであったが、近年、詩編、知恵文学などを中心に、その独自性が再発見されつつあるのである。また、著者は、創世記において生殖・不妊・受胎・痛み・祝福の物語が創造物語に比べ過小評価されてきたことを批判するとともに、従来の創造理解にはイエスを「いやし人」(healer)として見る視点が欠けていたと言う。つまり、イエスは身体的な病いをいやし、人々をその苦痛から解放したのであり、そういった聖書の証言を精神的な救いに矮小化してしまうことは誤りなのである。むしろ、イエスが「いやし人」であったことに注視することによって、神の創造の力が人間の身体の細部にまで及ぶことを確信することができる。このような神の創造への信頼を手がかりに、著者は伝統的な creatio ex nihilo(無からの創造)やcreatio continua(継続的な創造)に加え、creatio in utero(子宮における創造)への論点を見出そうとしている。
そして、イエスの宣教において具体的に結びついていた「いやし」と「痛み」の関係は、さらにイエスの十字架へと接合されていく。モルトマンに代表されるように、近年、痛みや苦しみを超越した西欧の伝統的神理解が批判的に再解釈されつつある。そこでは、イエスの十字架を通して、神はわれわれの苦難に決定的に参与した、というキリスト論・神論が展開されているのである。著者はそのような十字架理解に立ちながら、生殖のプロセスにかかわる精神的・肉体的痛みにおいても神が参与していることを論述し、また、それゆえ「痛み」はただ医学的に克服されるべきものではなく、それ自体が神と人間との出会いの場となる可能性を持っていることを積極的に主張する。
ここにおいて、医療や技術の目的は何か、ということがあらためて問われている。近代医療は、人間から可能な限り、痛みを取り除くことを目的として発展してきた。しかし、それが結果的に、被治療者の苦しみを健康な者から遠ざけることになり、また医学的治療では必ずしも除去できない痛みの大群をも生み出した。同時に、ハワーワスがいみじくも指摘しているように、医療技術の革新によって、人間は苦難に耐える能力を失い、悲劇を受け入れることができなくなりつつある。そういった考察から、高度医療の時代にわれわれが目指すべき方向を考えるなら、それは単純な健康志向・健全主義――そこでは病い・障がい・老いは否定的な意味しか持たない――であってはならないはずである。むしろ、病い・障がい・老いと折り合って生き、それらと
共存していくことを相互に支え合うような苦難の共同体を形成する道が、イエスの生涯・十字架への洞察から、示唆されるのである。
しかも、著者によれば、そのような苦難は決して終わりのない、絶望的なものではない。キリスト教信仰の核心にある復活への期待は、苦しみを希望へと変える力となる。しかし、本書において興味深いのは、復活論のテーマとして胎児の復活を取り上げている点である。そもそも欧米では、この20数年来、胚や胎児に魂があるのかどうか、もしあるとすれば、それはいつ生じるのか、といった問題が哲学者・神学者・医学者を交えて、真剣に論じられてきた。いわゆる「胎児の道徳的身分」をめぐる論争であるが、その関連において著者は、通常の出産に至らなかった胎児にも、よみがえりの約束は与えられているのか、と問うのである。著者は、胎児の遺伝的独自性やヒトとしての尊厳性を認めるものの、結論的に、「人格性」(personhood)を獲得していな
い胎児を物質的的要素と見なす(ただし、人格性の有無についての「線引き」が、どのようになされるかについては明示されていない)。そういった胎児も含めて、終わりの時の被造物の更新はなされるというのである。
欧米におけるこのような問題設定に、われわれは少なからず違和感を感じざるを得ない。しかし、「人格性」とは何か、という問いは人間論の重要課題である。その課題を共有しつつ、われわれが感じる違和感がどこに由来しているのかを明らかにしていく必要があるだろう。欧米における人格性の基準は論者によって様々であるが、一つ大きな共通点がある。それは多くの論者が依拠するカテゴリー論は、アリストテレスによって確立されたギリシア的カテゴリー論を前提にしているということである。つまり、人格や人間というカテゴリーはその本質によって規定できると考えられ、そこでは、肉体的要素(質料)に魂という形相が注入されてはじめて人間となる、というアリストテレス的理解が基本的に踏襲されている。健康な成人男性がプロトタイプ
とされるような人格・人間理解では不十分なことは言うまでもないが、そのような因習的理解への批判も含めて、認知意味論やカテゴリー論の視点からの見直しが必要とされるのである。本書では、こういった方法論的な考察はなされていないが、欧米における人格論をめぐるアポリアが端的に示されている。
いずれにせよ本書は、今後、生殖技術がもたらし得る様々な課題を神学的射程の内に収めておくために、また、現代神学が最先端の倫理的問題にどのような論点で応答しているのかを概観するために、有益な一書であると言えよう。類書はまだ多くないが、こういった書物に促されて、米国では徐々に生殖技術や生命倫理を神学的に考察した論文が増え始めている。
生殖医療の現状は欧米と日本とでは若干異なるが、生殖技術が突きつけている問題の本質は、本書からも汲み取れるように、文化の違いを越え通底している。推計によれば、日本では子どもを産みたいと希望する夫婦の約10パーセントが、外国では約15パーセントが不妊であるとされている。この割合は、今後、増えることはあっても減ることはないであろう。なぜなら、ダイオキシンなど人工的に作り出された物質が内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)として男性の精子の数を減少させたり、女性の子宮の機能不全を引き起こす可能性が指摘されているが、われわれを取り巻く環境は一朝一夕で改善されることはないからである。われわれは自らが生み出した負の遺産を文字通り〈身に〉受けながら、生きていかなければならないのである。もし、教会にこの種の話題が持ち込まれていないとすれば、それは実際に悩みがないのではなく、教会が当てにされていない証拠として受けとめるべきであろう。性や生殖について語ることがタブー視される雰囲気の中で、そういった悩みは個人的に、あるいは家庭内で解決すべきこととして信仰の事柄からは除外されてきたのである。
キリスト教は差別や人権の問題に積極的に取り組み、その意味で社会倫理に対しては大きな貢献を果たしてきたと言える。しかし、生命倫理的課題をはじめとし、今後の問題は、かつてのファシズムのように明白な強制力の行使から生じてくるだけではない。むしろ、そういった力が巧みに隠蔽されたまま、着実に人間理解を変えていくような危機が21世紀には大きな問題となるだろう。〈その時〉になってからでは遅いのである。
<補遺>
本書は決して難解ではないが、この種のテーマにまったくはじめて出会うという方には、導入として次のような日本語文献をおすすめする。
金城清子『生殖革命と人権――産むことに自由はあるのか』(中央公論社、1996年)は、生殖医療が人権の問題と不可分であることを教えてくれる。リー・M・シルバー『複製されるヒト』(翔泳社、1998年)は、今日の生殖技術の延長上に予想される未来社会の状況を描いているが、それは説得力があるだけにショッキングである。
ドロシー・ネルキン、M・スーザン・リンディー『DNA伝説――文化のイコンとしての遺伝子』(紀伊國屋書店、1997 年)は、DNAという概念が誤解・歪曲されながらも、すでに大衆文化の中に深く根付いていることを語っており、キリスト教思想との関係も随所に触れられている。リチャード・レウォンティン『遺伝子という神話』(大月書店、1998年)は、人間の価値や可能性を遺伝子に還元してしまう遺伝子還元主義に対する批判の書である。『現代思想』1998年9月号(青土社)は「遺伝子操作」を特集しており、広範囲な論者の主張を知ることができる。
『講座:キリスト教倫理』(日本基督教団出版局)の刊行が1999年春に予定されているが、その第1巻は生命倫理に関する内容を含んでおり、日本のキリスト教界における本格的な取り組みとして期待される。
日本でも、1998年6月、非配偶者間の体外受精(日本産科婦人科学会では禁止されている)が一人の医師によって実施されていた事実が明らかにされて以来、生殖技術の倫理的是非をめぐる議論が高まってきた。同学会はこの医師を除籍処分にしたが、他方、同学会は、それと同じ時期、多くの障がい者団体から出された批判に十分に答えないまま、「受精卵遺伝子診断」の実施を承認した。受精卵遺伝子診断に限らず、今日普及しつつある出生前診断をめぐり、われわれに「生命の選別」は可能なのか、そもそもそれは許されるのか、という問いが突きつけられている。
これら一連の出来事の中で端的に認識させられるのは、先端医療の進展をただ傍観することは、倫理的に正しくない、ということである。では、キリスト教倫理という視点から、きわめて現代的なこれらの問題群に対し、どのような取り組みを始めることができるのであろうか。この問いに対し、米国での実情を踏まえながら、実践的な洞察を示しているのが、ここでとりあげている書物である。
"Pastoral Genetics"(牧会的遺伝学)という主タイトルから推測されるように、本書は牧会的な目的を持っている。現代人にとって生殖医療は決して特殊な事柄ではなく、むしろ身近な、そして同時に切実な問題として存在している。著者によれば、本書は、そういった現状に牧会者が積極的に参与するための招きの書である。
本書の各章の冒頭では、牧会カウンセリングの現場で起こり得る、生殖・受胎・出産をめぐる事例が具体的に記されている。出生前診断の結果が胎児の遺伝的異常の可能性を示した場合、どのような夫婦もその可能性の前に狼狽する。産むべきか、産まざるべきか。遺伝カウンセラーは夫婦が自己決定するために必要な情報を提供するが、それによって彼・彼女の苦悩が解決するわけではない。とりわけ信仰者にとって、生命の選別を迫られる苦悩、あるいは産みたくても産めない苦悩は、神への切実な問いかけとなることが多い。米国における牧会の現場では、そういった問いかけが決して見過ごしにできないほど存在感を増しつつあることを、本書の随所から感じさせられる。
では、牧会者にできることは何か。相談者の悩みを、ただ同情的に聞くだけでは不十分である。たとえ明快な答えがなくとも、神学的に応答する責任のあることを著者は力説する。それは抽象的な神学論議を準備することではない。むしろ、不安と苦痛のただ中で神の臨在を共に探求し、神がどこにも見出せないような絶望にあっては長い沈黙を共にする、そういった共同の営みを支え得るような神学的基礎付けが求められているのである。
もっとも、この場合、神学的応答がより的を得たものとなるために、牧会者が今日の生殖技術の基本的な知識を、多少なりとも身につけていることが必要であろう。そのために、本書では一つの章が遺伝学や遺伝子診断の基礎的解説として当てられている。また、著者は、牧会者と遺伝カウンセラーが相互に補完的な役割を果たすことを認めた上で、牧会者に固有の働きがあることを示す。遺伝カウンセラーは「非指示の原則」にしたがって、患者に対し、ある特定の選択を促すことはしない。しかし、当の女性あるいは夫婦に委ねられた自己決定の自由は、かえって彼らの苦悩を増すことが少なくない。それゆえ、牧会者には、彼らの信仰的心情を十分に尊重した上で、「非指示の原則」ではカバーしきれない、決断への道のりを共に歩むことが求められるのである。
ところで、生殖技術の現状に関心を寄せるのと同様に、あるいはそれ以上に重要な作業がある。それは、伝統的なキリスト教の生命観の再検討である。そのために、著者は特に創造論・キリスト論・復活論に注目しながら、伝統的価値観の再解釈を試みている。その際、現代神学の諸成果が積極的に用いられていることは言うまでもない。とりわけ、S・ハワーワス、J・モルトマン、W・パネンベルクらの主張を、著者はしばしば論拠として引用している。
まず、著者が強調しているのは、神学的テーマとして「創造」の重要性を回復することであり、その上で、生殖という個人的な領域においても創造者なる神が働いていることの意義を展開していくことである。確かに教会は伝統的に、神を天と地の創造者として告白してきた。しかし、すべての被造物を貫徹する神の力の普遍性が、今日生殖医療が扱う生命発生の微細なプロセスにおいて、十分な慰めと導きになってはこなかった。それどころか、著者が正しく指摘しているように、女性の身体(母体)は男性の管理下に置かれ、神の名のもとに、そういった支配・従属の関係が正当化されてきたのである。このような不当な伝統を正すためにも、「創造」に対し、より適切な神学的位置付けを与えることが求められるのである。
幸いにも、聖書における創造の重要性は、特にエコロジーの観点から見直され始めている。神の創造行為は、救済史的な伝承の背後に隠れがちであったが、近年、詩編、知恵文学などを中心に、その独自性が再発見されつつあるのである。また、著者は、創世記において生殖・不妊・受胎・痛み・祝福の物語が創造物語に比べ過小評価されてきたことを批判するとともに、従来の創造理解にはイエスを「いやし人」(healer)として見る視点が欠けていたと言う。つまり、イエスは身体的な病いをいやし、人々をその苦痛から解放したのであり、そういった聖書の証言を精神的な救いに矮小化してしまうことは誤りなのである。むしろ、イエスが「いやし人」であったことに注視することによって、神の創造の力が人間の身体の細部にまで及ぶことを確信することができる。このような神の創造への信頼を手がかりに、著者は伝統的な creatio ex nihilo(無からの創造)やcreatio continua(継続的な創造)に加え、creatio in utero(子宮における創造)への論点を見出そうとしている。
そして、イエスの宣教において具体的に結びついていた「いやし」と「痛み」の関係は、さらにイエスの十字架へと接合されていく。モルトマンに代表されるように、近年、痛みや苦しみを超越した西欧の伝統的神理解が批判的に再解釈されつつある。そこでは、イエスの十字架を通して、神はわれわれの苦難に決定的に参与した、というキリスト論・神論が展開されているのである。著者はそのような十字架理解に立ちながら、生殖のプロセスにかかわる精神的・肉体的痛みにおいても神が参与していることを論述し、また、それゆえ「痛み」はただ医学的に克服されるべきものではなく、それ自体が神と人間との出会いの場となる可能性を持っていることを積極的に主張する。
ここにおいて、医療や技術の目的は何か、ということがあらためて問われている。近代医療は、人間から可能な限り、痛みを取り除くことを目的として発展してきた。しかし、それが結果的に、被治療者の苦しみを健康な者から遠ざけることになり、また医学的治療では必ずしも除去できない痛みの大群をも生み出した。同時に、ハワーワスがいみじくも指摘しているように、医療技術の革新によって、人間は苦難に耐える能力を失い、悲劇を受け入れることができなくなりつつある。そういった考察から、高度医療の時代にわれわれが目指すべき方向を考えるなら、それは単純な健康志向・健全主義――そこでは病い・障がい・老いは否定的な意味しか持たない――であってはならないはずである。むしろ、病い・障がい・老いと折り合って生き、それらと
共存していくことを相互に支え合うような苦難の共同体を形成する道が、イエスの生涯・十字架への洞察から、示唆されるのである。
しかも、著者によれば、そのような苦難は決して終わりのない、絶望的なものではない。キリスト教信仰の核心にある復活への期待は、苦しみを希望へと変える力となる。しかし、本書において興味深いのは、復活論のテーマとして胎児の復活を取り上げている点である。そもそも欧米では、この20数年来、胚や胎児に魂があるのかどうか、もしあるとすれば、それはいつ生じるのか、といった問題が哲学者・神学者・医学者を交えて、真剣に論じられてきた。いわゆる「胎児の道徳的身分」をめぐる論争であるが、その関連において著者は、通常の出産に至らなかった胎児にも、よみがえりの約束は与えられているのか、と問うのである。著者は、胎児の遺伝的独自性やヒトとしての尊厳性を認めるものの、結論的に、「人格性」(personhood)を獲得していな
い胎児を物質的的要素と見なす(ただし、人格性の有無についての「線引き」が、どのようになされるかについては明示されていない)。そういった胎児も含めて、終わりの時の被造物の更新はなされるというのである。
欧米におけるこのような問題設定に、われわれは少なからず違和感を感じざるを得ない。しかし、「人格性」とは何か、という問いは人間論の重要課題である。その課題を共有しつつ、われわれが感じる違和感がどこに由来しているのかを明らかにしていく必要があるだろう。欧米における人格性の基準は論者によって様々であるが、一つ大きな共通点がある。それは多くの論者が依拠するカテゴリー論は、アリストテレスによって確立されたギリシア的カテゴリー論を前提にしているということである。つまり、人格や人間というカテゴリーはその本質によって規定できると考えられ、そこでは、肉体的要素(質料)に魂という形相が注入されてはじめて人間となる、というアリストテレス的理解が基本的に踏襲されている。健康な成人男性がプロトタイプ
とされるような人格・人間理解では不十分なことは言うまでもないが、そのような因習的理解への批判も含めて、認知意味論やカテゴリー論の視点からの見直しが必要とされるのである。本書では、こういった方法論的な考察はなされていないが、欧米における人格論をめぐるアポリアが端的に示されている。
いずれにせよ本書は、今後、生殖技術がもたらし得る様々な課題を神学的射程の内に収めておくために、また、現代神学が最先端の倫理的問題にどのような論点で応答しているのかを概観するために、有益な一書であると言えよう。類書はまだ多くないが、こういった書物に促されて、米国では徐々に生殖技術や生命倫理を神学的に考察した論文が増え始めている。
生殖医療の現状は欧米と日本とでは若干異なるが、生殖技術が突きつけている問題の本質は、本書からも汲み取れるように、文化の違いを越え通底している。推計によれば、日本では子どもを産みたいと希望する夫婦の約10パーセントが、外国では約15パーセントが不妊であるとされている。この割合は、今後、増えることはあっても減ることはないであろう。なぜなら、ダイオキシンなど人工的に作り出された物質が内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)として男性の精子の数を減少させたり、女性の子宮の機能不全を引き起こす可能性が指摘されているが、われわれを取り巻く環境は一朝一夕で改善されることはないからである。われわれは自らが生み出した負の遺産を文字通り〈身に〉受けながら、生きていかなければならないのである。もし、教会にこの種の話題が持ち込まれていないとすれば、それは実際に悩みがないのではなく、教会が当てにされていない証拠として受けとめるべきであろう。性や生殖について語ることがタブー視される雰囲気の中で、そういった悩みは個人的に、あるいは家庭内で解決すべきこととして信仰の事柄からは除外されてきたのである。
キリスト教は差別や人権の問題に積極的に取り組み、その意味で社会倫理に対しては大きな貢献を果たしてきたと言える。しかし、生命倫理的課題をはじめとし、今後の問題は、かつてのファシズムのように明白な強制力の行使から生じてくるだけではない。むしろ、そういった力が巧みに隠蔽されたまま、着実に人間理解を変えていくような危機が21世紀には大きな問題となるだろう。〈その時〉になってからでは遅いのである。
<補遺>
本書は決して難解ではないが、この種のテーマにまったくはじめて出会うという方には、導入として次のような日本語文献をおすすめする。
金城清子『生殖革命と人権――産むことに自由はあるのか』(中央公論社、1996年)は、生殖医療が人権の問題と不可分であることを教えてくれる。リー・M・シルバー『複製されるヒト』(翔泳社、1998年)は、今日の生殖技術の延長上に予想される未来社会の状況を描いているが、それは説得力があるだけにショッキングである。
ドロシー・ネルキン、M・スーザン・リンディー『DNA伝説――文化のイコンとしての遺伝子』(紀伊國屋書店、1997 年)は、DNAという概念が誤解・歪曲されながらも、すでに大衆文化の中に深く根付いていることを語っており、キリスト教思想との関係も随所に触れられている。リチャード・レウォンティン『遺伝子という神話』(大月書店、1998年)は、人間の価値や可能性を遺伝子に還元してしまう遺伝子還元主義に対する批判の書である。『現代思想』1998年9月号(青土社)は「遺伝子操作」を特集しており、広範囲な論者の主張を知ることができる。
『講座:キリスト教倫理』(日本基督教団出版局)の刊行が1999年春に予定されているが、その第1巻は生命倫理に関する内容を含んでおり、日本のキリスト教界における本格的な取り組みとして期待される。