「神のジェンダーに関する一考察――フェミニスト神学との対論を通じて」、『宗教と社会』第4号
- 論文要旨
本論文は、フェミニズム思想およびフェミニスト神学と対話しつつ、特にジェンダーの視点から伝統的な神理解の再解釈を試みる考察である。
第1章では、最近の英訳聖書において、父なる神という伝統的理解が見直されつつある状況を考慮しながら、聖書が男性中心的であるという批判を解釈学的にどのように受けとめることができるかを論じる。
第2章では、フェミニスト神学によって批判されている男性中心的神理解が、「神の像」という概念を媒介にして人間論にまで拡張されていることを考察する。
第3章では、聖書的伝統の中には、父なる神、唯一神論という定型的理解に収まらない多様な神理解があることを論述する。
第4章では、家父長制的拘束からの解放を模索するフェミニスト神学の試みを類型的および解釈学的に検討する。
第5章では、フェミニスト神学の成果が日本の文化の中で、どのように受容されるべきかを示唆する。
キーワード
神/ジェンダー/フェミニスト神学/家父長制/宗教言語
Ⅰ 神の呼称をめぐって
近年、英語圏では聖書における神の呼び名が積極的に見直されてきた。例えば、教会の礼拝で毎日曜日唱えられる「主の祈り」(マタイによる福音書6章9―13節)1において、神は伝統的に「天におられるわたしたちの父よ」(Our Father in heaven)と呼びかけられてきたのだが、最近出版された翻訳の中では「わたしたちの天の親よ」(Our heavenly Parent)[The New Testament of the inclusive language Bible 1994:6]「天にいるわたしたちの父母よ」(Our Father-Mother in heaven)[The New Testamen and Psalms 1995:9]「天にいるアッバ神よ」(Abba God in heaven)[The inclusive New Testament 1996:9]とされている。前二者では父と母を対等に扱おうとする意図が見られる。また、後者において「アッバ神」という中性的な表記が、性における中立を意図していることは明らかである。後者の類例はイエスの呼び名にも見られる。「神の息子」(the son of God)を「神の子」(the child of God)と修正することにより、生物学的には明らかに男性であったナザレのイエスの男性性を弱めて、なるべく中性的なイメージでとらえようとするのである。
これらの試みは「包含的言語」(inclusive language)による聖書翻訳と呼ばれ、フェミニスト神学からの強い影響を受けている。ただし、「包含的言語」による翻訳は、性別だけでなく、人種や身体状況による従来の差別的表現にも注目している。例えば、これまで聖書におけるユダヤ人の描写が反ユダヤ人感情に結びつきやすかったことに対する反省として、「ユダヤ人」という言葉は文脈によっては「宗教的指導者」などに置き換えられている2。包含的言語による翻訳がそれぞれ、どのような意図を持っているかは、多くの場合、前書きの部分に紹介されている。しかし、以下においては包含的な意図を網羅的には扱わず、特に神の呼び名や、そこに潜む神理解の問題を中心にしながら、フェミニスト神学が提起してきた問題に焦点を絞っていくことにする。
包含的言語による聖書翻訳の試みは、従来の翻訳に潜む男性中心主義に疑問を投げかけている。聖書解釈の領域においても同様の動機から、女性が主な執筆者となって、女性の視点から解釈した聖書の注解書シリーズが刊行されている[Brenner 1993]。しかし、近年、フェミニスト神学者たちによって明確に指摘されているのは、問題は男性中心的な聖書翻訳にあるだけでなく、聖書のメッセージそのものがすでに男性中心的な傾向を持っているのではないか、ということである。つまり、聖書のメッセージには家父長的なイデオロギーが染み込んでおり、その問題は翻訳だけでは解決することのできない根の深さを持っているというのである。
聖書の表現とメッセージの関係を考える上で、現代神学においてエポック・メイキングな働きをした人物として、新約聖書学者ルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann 1884~1976)がいる。彼は、現代人が知性を犠牲にすることなく聖書を理解するためには、聖書の「非神話化」(Entmythologisierung)が必要であると主張した。ブルトマンは、聖書に記された、古代社会の神話的世界像の受容をメッセージ理解の前提として要求することはキリスト教宣教の立場からして無意味であり、不可能であると考えるとして次のように述べている。「無意味であるというのは、神話的世界像は、本来決してキリスト教独自のものではなく、いまだ科学的思惟によって形成されたのではない単なる過ぎ去った時代の世界像に過ぎないからである。不可能であるというのは、世界像は一つの決意によって獲得しうるものではなくして、その歴史的状況と共に、人間にすでに与えられているものだからである。世界像は、もとより不変ではなく、個々人もまた、世界像の変革を行うことができるのである」[ブルトマン 1954(1948):30]。
ブルトマンは、聖書の言語様式から神話的要素を取り除くという非神話化作業を遂行することによって、現代人もメッセージの本質部分と実存的に出会うことができると考えた。この考えをジェンダーの問題に適用すれば次のようになる。すなわち、たとえ聖書のテキストが古代世界特有の家父長的な様式を持っていたとしても、その部分を非神話化し、つまり「世界像の変革」を行い、実存的に解釈すれば、男性中心的に見える表現の背後から、ジェンダーに関して中立的なメッセージを獲得できる、ということになる。確かに、世界像を変革しなければならないという視点において、ブルトマンの非神話化論はフェミニスト神学に対しても少なからぬ洞察を与えている。しかし、このような方法によって、果たして聖書は、自らに向けられた性差別的であるという批判から安穏に逃げ切れるのであろうか。
メッセージを社会的・文化的環境から切り離し、実存的理解に還元することにより、ジェンダーの中立性が確保される保証はまったくない。それどころか、ジェンダーを規定する社会性や歴史性があいまいにされる危険性がある。そうなると、結果的に、抑圧された女性の現実はまたもや社会や歴史の夾雑物の中で見失われることになりかねない。人間の自己理解と世界観とを分離することはできないのである。その限りでは、家父長的な価値観に規定されたメッセージを神の言葉として語ることは、神を父権的な抑圧者として語ることに結びく可能性を常に有している。そして、聖書のテキストを絶対的な規範として見なす限り、それを避けることはできない。
しかし、聖書は正典としての位置づけを保ちながら、同時に聖書の言葉そのものを相対化する預言者的伝統を内在している。預言者たちは、ある特定の出来事(例えばダビデ王朝)を回帰すべき点、神話的な帰一点として見なすことを拒否し、また聖書の言葉を特定の解釈(特に支配者にとって都合のよい解釈)のもとに固定することを批判しながら、聖書の記述を非神話化、歴史化したという経緯を持っている。預言者において、神の行為の歴史性は、古い救済秩序を凌駕するものとして理解され、それはさらに以前にあったすべてのものを越えていく約束された未来へと向けられたのである[Pannenberg 1988:203]。したがって、預言者的伝統に即して考えるなら、絶対的な規範は過去の出来事や記述の中にあるのではなく、来るべき未来の中に秘められ、暗示されているということになる。それを踏まえた上で、その途上にある一つのプロトタイプ(予型)としての聖書テキストに批判的に取り組んでいくことは有益であろう3。
Ⅱ フェミニスト神学からの批判
われわれが取り組むべき課題を明確にするために、まず、フェミニスト神学から伝統的な神理解に対し、どのような批判がなされてきたのかを概観してみたい。
急進的なフェミニスト神学者であるメアリ・デイリ(Mary Daly)は、父なる神という象徴こそが女性抑圧のメカニズムを正当化してきたのであり、西洋的家父長制の元凶であると考え、それを厳しく断罪した[Daly 1973:13]。デイリの問題提起以降、神理解を根本的に見直さなければならないという気運がフェミニスト神学の中に高まり、フェミニスト神学からの批判の多くは、伝統的な神理解およびそれに起因する聖書解釈に潜む家父長制的男性中心主義を暴露し、解体するという方向に向かっていったのである。
さらに、神理解が「神の像」(Imago Dei)という概念を媒介にして、キリスト教文化圏における人間理解に深く浸透している点も見過ごすことはできない。「神の像」という概念は、もともと創世記1章27節「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」を中心とするヘブライ語聖書4のいくつかの箇所(創世記5章1―3節、9章6節)に由来し、そこから、人間は神の像(似姿)として造られているというユダヤ・キリスト教の代表的人間観が生まれた。しかし、表現上「男と女」の両性を対等に含んでいるこの考え方に対し、フェミニスト神学はそれが歴史的には不当に適用されてきたことを指摘する。つまり、歴史の中では、神にかたどられ、神の像とされたのはもっぱら男であり、女が仮に神の像として扱われたにせよ、それは男と比べると不十分なものとして考えられてきたとフェミニスト神学は批判するのである。例えば、この点に関して、ローズメアリ・ラドフォード・リューサー(Rosemary Radford Ruether)は「女性より男性をより『神に似せる』ことは、偶像崇拝的である」と語る[リューサー1996(1983):48]。さらに「フェミニスト神学は、イマゴ・デイ対堕落したアダムの神学的二元論が、いかに性的二元論、即ち、男と女としてとらえられる人間と関連するかを問う」[リューサー1996(1983):136]と主張することによって、理想的な人間像「イマゴ・デイ」が男に、堕落した存在者が女に類比させられてきた構図を際立たせている。また、カレン・アームストロング(Karen Armstrong)は、「似姿」という点について、女性は神の像・似姿というよりは、むしろ男性を誘惑し堕落させたエバの「似姿」として規定されてきたと批判する[アームストロング 1996(1986):389]。いずれにせよ、フェミニスト神学の立場においては、「神の像」についての伝統的理解は両性を対等に含む人間論を根拠づけてきたというよりは、男性による女性の支配を巧みに隠蔽し、あるいはそれを正当化してきたという印象が強いと言える。
また近年、キリスト教文化圏において、臓器移植、遺伝子治療、体外受精、クローン技術などの先端技術の倫理性が問われるとき、「神の像」としての人間理解がその暗黙の前提とされていることが、しばしば指摘されている[Peters 1997]。人間が神の領域を侵犯しているのではないか、神を演じている(playing God)のではないか、といった問いかけがなされる一方で、神とまったく同じではないにせよ、人間には神に由来する創造性が与えられており、それを適切に行使することが求められているという説明が一般的になされるのである。その際、「神の像」は説明原理としての役割を果たしている。
しかし、これらの領域で言及されている「神」や「神の像」は、男性的・自然搾取なイメージを具現している。なぜなら、その神は生命や自然を超越的に支配し、整然と操作する創造力を備えた神であり、その力のイメージが「神の像」として科学者や技術者およびその恩恵にあずかる人間に投映されているからである。そのような「神の像」は性差を考慮し、両性を対等に扱うどころか、それらを恣意的にコントロールするための道具として機能化されている。だからこそ、人間も自らの身体、とりわけ女性の母体を管理・操作し、自然をほしいままに支配することができると考えるのである。別の視点から見ると、神による生命創造を科学の担い手である男性が代替することによって、逆説的に神の男性としてのジェンダーを保持し続けようとしている点も浮かび上がってくる。
以上見てきたようにフェミニズム的視点からの指摘と批判は、家父長制を神理解のための主たるモデルとしたキリスト教の伝統に対し、きわめて有意義な洞察をもたらす。しかし、ユダヤ・キリスト教の伝統の中で、「父なる神」や唯一神論は、急進的なフェミニスト神学が考えるように、独占的な位置を占め続けてきたのであろうか。あるいは、他のモデルは見られなかったのか。このような点を考慮しながら、次に、フェミニスト神学の従来の批判の射程に必ずしも収まりきらない聖書における神表現の多様性に目を向けることにする。
Ⅲ 聖書における神表現の多様性
1)父なる神?
ヘブライ語聖書では、一般に考えられているほど「父なる神」という使用例は多くない。それは聖書が、神を特定のイメージに固定化することを「偶像崇拝」として厳しく戒めていることと関係している。古代オリエントにおいて、神が男あるいは女としての性を持ち、性差に応じた役割を担うことは広く見られたが、それとは対照的に、ヘブライ語聖書ではそういった性の特定化を周到に避けている。
神は、多様な擬人的表現(王、父、夫、母、恋人、羊飼い、地主、裁き主など)や自然物(岩、城、風、光など)の豊富なメタファーによって語られている。確かに、フェミニストたちがしばしば批判してきたように、神が王として父権的な支配者を演じている箇所も存在している。ただし、注意しなければならないのは、王的な神理解は時代史的には限定されるということである。つまり、神を一貫して父権的な支配者としてとらえることは聖書の記述に適合しない。むしろ、父権的イメージ以外の神表現を想起することの方が、伝統的な神理解を脱構築し、新たな神表現を獲得していく上で有益であろう。
例えば、イザヤ書にある「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか」(49章15節)、「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」(66章13節)は、いずれも神を「母」と見なしている。子を養い慰め庇護する母のメタファーは、イエスの自己理解の中にも継承されている。マタイによる福音書23章37節(ルカによる福音書13章34節)にある「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺すものよ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」という表現は、その一例である。
2)唯一なる神?
フェミニスト神学からは、ユダヤ・キリスト教の伝統的神理解が男性中心的であるという批判の他に、それが唯一神論(monotheism)という独善的形態を取っているという批判が向けられる。批判者にとって、抽象的な「一」の要求は男性による支配と同義であるからである。そこには、男性中心的な神理解がたとえ中性的な概念で言い換えられたとしても、やはり男性による支配を正当化する構造が温存されているという洞察がある。多くのフェミニズム思想にとって、抽象的であることは端的に男性的なのである。しかし、聖書における神理解はどの程度まで唯一神論と呼ばれるものに還元され得るのであろうか。
もし神が「唯一」という概念にかたどられ観念的偶像とされれば、それは十戒の第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節)に抵触する。ヘブライ語聖書では、神は「一」対「多」という相対的な関係において規定される「一」ではない。むしろ、分裂や対立を内包した「合一」の現実性が暗示されている。また、ヤハウェのみを神とする信仰も、多神教的イスラエルとの共存関係を前提にしていること、また、ユダヤ教が唯一神教的になった後も――それはイスラエルの捕囚以後に限定される――多神教的要素は同化されながら、その痕跡をとどめていることなどは、唯一神信仰成立における周辺要素として過少評価されるべきではない[ラング 1994(1981):63-142]。わかりやすく言うなら、ヘブライ語聖書の世界は神々がうごめく世界であり、ヤハウェはその神々のエネルギーを前提にする形で、その力強さ・包容力を語られている。しかも、イスラエルの民にとって唯一神信仰は、教理的関心から生じたのでなく、彼らを捕囚から解放し、新たなアイデンティティを確立させる「解放の神学」の源泉に他ならなかったのである。
同様の事情は、新約聖書の中にも見られる。新約聖書において「神」を意味するギリシア語のqeoVが、その単数形によって、いわゆる唯一神論を意図しているのでないことは、次のカール・ラーナー(Karl Rahner 1904~1984)の説明からも明らかである。「ギリシア人においてはqeoVという言葉によって、唯一神論的な意味で、ある特定の人格の一つなること(Einheit)が考えられているのではない。むしろ、どのように形態が異なっているにせよ、はっきりと感じられる宗教的世界の統一性(Einheit)が考えられているのである。ギリシア的な神概念は本質的には多神教的である。しかし、それは多くの個別化された神々という意味ではなく、秩序づけられた神々の全体性(Goettergesamtheit)という意味においてである」[Rahner 1967:103f.]。さらに言うと、多神論(poluqeia, poluqeoV)とその関連語は古典ギリシア語に用例を見いだすことはできるが、唯一神論という言葉は本来、ギリシア語に存在していないのである。
それでは、キリスト教の神理解の説明のために広く利用されている唯一神論という概念はいつ成立したのであろうか。それは近代に入ってからであり、文献的には17世紀、ケンブリッジのプラトン主義者ヘンリー・モア(Henry More 1614-1687)によって、キリスト教に独自な神論として導入されたことが確認されている[Colpe 1992:536]。したがって、この概念を固定したフィルターとして神理解の歴史を振り返ると、しばしば虚像を見ることになる。上述のように、ヘブライ語聖書や新約聖書における神は唯一神論の枠に容易に収まらない。また、キリスト教では三位一体論が神理解の中心になるが、これは唯一神論を技巧的に変形させてでき上がったものではなく、むしろ、単一性へと抽象化された神理解に陥ることを拒絶する、言うなれば「具体的な」唯一神信仰の模索の結果であった[Pannenberg 1988:363f.]。つまり、神と呼ばれている言葉を安易に唯一神論という概念に結びつけることは、歴史的に見て正当ではないのである。
以上のような点を考慮すれば、フェミニズムからの批判の中で時々混同されている、聖書の編集史とその影響史(ユダヤ・キリスト教の歴史)との間に認識論的区別をもうけることができるであろう。唯一神論に潜む男性中心主義を洞察するフェミニズム的批判の多くは的を得ているが、だからと言って、聖書を時代錯誤的な遺物として破棄する必要はないのである。それどころか、フェミニズム的な視線を注ぐことによって、男性中心的発想の夾雑物の中から、より豊かな神理解を見いだすことを期待できる。また、それは同時に、安易に定型化された唯一神論が、いかに多くの支配と従属の意味体系――支配する男としての神、それに従属する女としての人間というメタファーはその典型である――を生み出してきたかということへの洞察を促すであろう。
3)イエスによる家父長制からの解放
家父長的唯一神論という批判に対する弁証(apologetics)を以上においてなしてきたが、ここでは特にイエスの言葉の中に家父長制からの解放を呼びかける積極的モチーフがあることを指摘したい。
「父なる神」、「神の子」といった(隠喩的)表現を支えるイエス自身の言葉として、しばしば「アッバ、父よ」というイエスの神への呼びかけが取り上げられてきた。「アッバ」という呼びかけそのものは、イエスと神の特別な関係、あるいはキリスト教の特殊性を直接的に保証するものではないが、その言葉が持つ親密性は、神の高さや神の父性にとらわれない根源的な信頼関係を前提にしている。イエスにとっては、神の国が近いように、神は近くにいる存在である。そして、イエスが「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコによる福音書3章35節)と言うとき、日常の家族関係は解体され、イエスが「アッバ」と呼びかける神のもとに、新しい家族としてのメタファー共同体が成立しているのである。つまり、イエスが「アッバ」と呼ぶとき、それは家父長的モデルを追認しているのではなく、逆に、家父長的に規定された日常の生活を異化し、その束縛から自由になることを促している。例えば、ユルゲン・モルトマン(Jurgen Moltmann)は、この事情を次のように語っている。「いかに彼ら〔信仰者〕は、イエスへの服従の中で、家族・階級・文化などに由来する古めかしい諸勢力を打ち破って、御霊の平和のうちに、メシア的御国の将来から生きたことか。それゆえ、メシア的神の民において、アッバの呼びかけは、自由の最高の表現となるのである」[モルトマン 1992(1989):232]。
このような意味において、「アッバ」の呼びかけは家父長的な現状を打破する、まさに「生きた隠喩」として機能している。したがって、それは単に父と子という垂直軸に限定されないで、さらに兄弟姉妹という水平軸にまで転化されてメタファー共同体を創造するのである。
この章において、フェミニスト思想が想定し、批判してきた神理解の周縁には、多様な神理解があることを確認してきた。しかし、いったん新しい共同体が社会の主流となると(特にコンスタンティヌス体制以降)、父なる神は、伝統的な家父長制の中に取り込まれ、人間の王権や家父長の権威を神聖化するために用いられる。つまり、家父長制を宗教的に正当化するシステムが構築されていくのである。この歴史性をわれわれは決して看過することはできない。フェミニスト神学は、こういった変容プロセスの結果としてのキリスト教的家父長制およびそれを支える神理解に対し鋭い批判の目を向けてきたのである。われわれは、その成果に学びつつ、神理解・神表現の多様性を回復し、それを現代の家父長的システムからの解放プロセスに結びつけていく必要があろう。
Ⅳ 家父長制からの解放を求めて
1)神のジェンダーを革新するために
フェミニスト神学の戦略は決して一様ではない。ここでは神のジェンダーに関連する多彩な試みをさしあたり次の二つの類型にまとめ、その方向性を概観してみたい。
a)両性のイメージと経験を包括する神表現の模索
包含的言語による聖書翻訳においては、先に見たように、これまでの男性中心的な言語表現が生み出した偏りを認識した上で両性のバランスを回復するための新しい翻訳語が案出されている。伝統的な「父」の代案として「親」「父母」「アッバ」という例があることを指摘したが、これらはいずれも親子という家族関係を前提とする表現である。神を父と一義的に同定する段階から見れば、これらは着実な前進であるが、それではまだ支配・従属の関係を脱却していないと考える神学者もいる。リューサーによれば、「神を親として表現する言葉は、家父長制からわたしたちを解放するどころか、むしろ家父長制を強化するものである。わたしたちはまず、神を贖い主、解放者、人格を実らせるものとして表現する言葉を探さなければならない」[リューサー 1996(1983):108]のであり、その試みは聖書解釈にも向けられていく。例えば、まったく対等な男と女のイメージを含んだイエスの「たとえ」(ルカによる福音書15章8-10節など)を再評価するのである[リューサー 1996(1983):105-106]。また、サリー・マクフェイグ(Sallie McFague)は聖書の中の多様な神表現のメタファーを評価しつつも、両性を対等に包括し、さらに家族関係に拘束されないメタファーとして、神を「友」と見なすメタファーを導入する[McFague 1982:177-192]5。言うまでもなく、この呼び名は、ヨハネ福音書15章15節にあるイエスの言葉「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」を想起させるものである。
b)神理解における女性原理の導入
キリスト教の三位一体論は、父なる神・子なる神・聖霊なる神がそれぞれ区別されながら一体であることを基本的な内容としている。父・子が男性であることは明らかであるが、聖霊も男性とされたり、あるいは不確定さのゆえに中性・無性とされることが多かった。聖霊の性が何であれ、三位一体論が圧倒的に男性中心的な構造を取っていることをフェミニスト神学は問題とする。極端な場合、三位一体論そのものを父権的神論として破棄することも起こり得る。その一方で、三位一体論における両性のバランスを取るために、聖書やそれ以外の伝承における神の女性性に注目し、聖霊を積極的に女性としてとらえようとする取り組みが見られる6。
神理解に女性原理を導入する試みは、聖霊の女性性の強調の他に、伝統的な三位一体に女性性を追加して、四位一体を構成するというC・G・ユング(Carl Gustav Jung 1875~1961)の例もある。日本における例としては、隠れキリシタンにおける三位一体論の変容過程がユングと比較される形で河合隼雄によって紹介されている。江戸時代初期にカトリック宣教師たちによって伝えられた伝統的な三位一体論が、長い禁教時代の中で次第に日本文化の中に土着化し、母性を内包する四位一体へと変容していったのである[河合 1993:84-136]。
ただし、聖霊の女性性を強調したり、その他の方法で女性原理を追加することに対し、男性の主権の中では、それは女性の従属という性のステレオタイプを強化するだけ、という批判もある[リューサー 1996(1983):97]。一般的にフェミニズム思想においては女性原理を安易に導入することに対しては慎重である7。それが、結果的に男性優位のシステムを補完したり、現実にある女性の差別問題を隠蔽するためのアリバイとなる可能性があるからである。しかし、そういった危険性を意識した上で、伝統的な解釈では軽視されがちであった女性の物語を新たな視点から取り上げるのは有意義なことに違いない。
2)言語における性差の扱い――性の最小化か、性の最大化か
上述の二つの類型は、さらにフェミニスト神学おける性差の扱いの違いに呼応している。言語表現における性差別を問題にする点では共通するのだが、その方法に関しては、性の最小化(脱性差化)と性の最大化(性差化)という大きく二つの方向が見受けられる8。
言語における性の最小化の一例をリューサーに見ることができる。彼女は性差を認識する重要性を踏まえた上で、両性のみならず、すべての社会集団、人種を含むような「十全たる人間性」(full humanity)、「包括的な人間性」(inclusive humanity)をフェミニスト神学の批判原則として提示するのである[リューサー 1996(1983):43-44, 161]。女性が女性のためにこの批判原則を用い、男性中心主義を拒否すると同時に、ある特定の集団を人間性の規範とするような一切のショーヴィニズムを批判しなければならない、とリューサーは考える。それを前提にした上で、両性が、言語的には中性的なこの規範を共通に用いることにより、それぞれの性の固有性を生かす道を模索するのである。
他方、フェミニスト思想家リュース・イリガライ(Luce Irigaray)に代表される性差を最大化する立場からは、抽象的な概念――例えば「人間性」――の中に女性性を解消してしまうことに対し徹底した異議が唱えられる。性に中立であろうとして性差を解消するのではなく、むしろ、女性あるいは男性という性が果たす役割を最大限に明示することによって、歴史の中で抑圧され、埋もれてきた女性性を具体的に顕在化させようとする。男性中心主義の中で顧みられなかった女性の物語を語り直そうとする近年の試みも、この方法を共有していると言うことができるであろう。
かつて、ガラテヤ書3章28節の「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」という表現は、しばしばフェミニスト神学の出発点とされていた。しかし、同じ聖書の箇所が、今日では性差を安易に解消してしまうという危惧から、かえって批判的にも受けとめられている。この表現には「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」という言葉が続くが、本来多様なものが「一つ」に集約されるという発想は、結局、男性中心主義に荷担することになるといった批判がある9。このように聖書解釈が変化する背景にも、性の最小化と性の最大化という方法論的相違が反映されている。
もっとも、言語における性の最小化と性の最大化は二者択一的な選択肢として存在しているのではない。それらは起点を同じくする二方向のベクトルであり、相互補完的・相互批判的な役割を果たしている。それゆえに、そこでは性差の自明性に埋没することなく、同時に、性差の自明性を安易に相対化しないという緊張に満ちた作業が要求されるのである[吉澤 1997:12]。
3)宗教言語の活性化
家父長制イデオロギーを再生産せず、むしろそれからの解放を促すよう作用する神表現を考察するために、これまでの議論に加え、宗教言語そのものの特性を理解することは有益であろう。本来語り得ないものを語るという宗教に普遍のパラドックスを誠実に受けとめるなら、少なくとも、神を特定の表現に特定し、神的充満・躍動を沈潜化させようと試みることは、人間の恣意的願望を満たすに過ぎないことに気づかされる。今日、フェミニスト神学者たちが、支配者に安易に利用されない多様な神表現を求めているのは、そういったことを意識しているからに他ならないが、さらに宗教言語に内在する、メタファーからモデルへ、モデルから概念へ、というプロセスの循環性・相互批判性を考慮するなら、宗教言語を実体的に固定化しようとする誘惑に対し、いっそう適切な距離を取ることができるはずである10。
端的に定義づけるなら、モデルは優勢なメタファー、あるいは、重要な意味を持った持続的メタファーと言うことができる。メタファーの中には、それを生み出した個人の手を離れて、人間一般の経験を記述する上で広く認知され、共同体や社会の中で影響を及ぼし続けるものがある。そのように、他のメタファーと比べて特に優勢な働きをするメタファーをモデルと呼ぶことができる。例えば、「父なる神(神は父である)」というメタファー表現は、モデルとなった一例である。このモデルは、神にかかわる他のメタファー表現を想起させながら、それらを収集し、まとめていく解釈学的枠組みを持っている。神を父と見なすならば、人間は神の「子」であり、人間の罪は「父」に対する反逆である。したがって、「長子」(キリスト)が「兄弟、姉妹」(人類)たちのために犠牲となることによって、「父」に対して犯した罪を償い、救いをもたらすのである。このように、モデルは様々なメタファーを連想力によってつなぎとめ、一つひとつのメタファーだけでは表現することのできない未知なる対象領域を指示していく働きを持つ。
ただし、モデルが優勢なメタファーである限りにおいて、それが他のメタファーを不当に抑圧している可能性があるという一面を看過することはできない。すなわち、モデルそのものが字義通りに受けとめられ、それが指示する対象と安易な結合をすることによって、他のメタファー的可能性を排除する形で固定化された権威となってしまう危険性がある。したがって、特定のモデルが絶対視されることを防ぐためには、競合するモデル同士を概念的な解釈と批判の地平で相対化していくという作業が必要となる。
メタファーと異なり、概念は新しい意味を生み出すことはせず、一般的に受容された意味体系に依拠している。概念的言語は明確さや一貫性を獲得する代わりに、多義性や流動性を犠牲にする。しかし、そうすることによって諸モデルの間に共通項を発見していくのである。それと同時に、概念的思考は、モデルを批判的に扱い、モデルの意味や真理性に対して問いを投げかけることによって、モデルのメタファー的特性を圧殺することなく、諸モデルの間に相対的な位置関係を保証する。その意味において、概念も決してメタファーと無関係ではなく、むしろ、死んだメタファーに活性化への道を開いたり、意味を転倒させられてきたメタファーを正常化するという積極的なかかわりを持つのである。しかし、同時に使い古された概念、特に体制的な支配を擁護するために使用されたきた概念は、メタファーによって喚起された原初的な体験の豊かさと物語の具体性をしばしば見失わさせる。それゆえ、時として概念はロゴスを溶解するパトスに満ちた原初的メタファー(新約聖書の場合はイエスのたとえ・物語)によって、再活性化されなければならないのである。
現代神学においては、そのような取り組みの例を「物語の神学」(narrative theology)の中に見ることができる。日本およびアジアにおける民衆や女性の物語――特に苦悩の物語――を再発見し、それを聖書の物語に呼応させていく作業も始まりつつある11。特殊性、具体性を知ることは、あやまった普遍性(家父長的モデル、男性中心的神概念)の仮面をはぎ取るための一つの道となるのである。
Ⅴ 日本的な問題
これまで主として欧米における神のジェンダーをめぐる議論を考察してきたが、その議論は現代の日本社会において、どの程度、妥当性を有するであろうか。例えば、包含的言語による神の呼称「親なる神」「父母なる神」「母なる神」を積極的に導入すれば、女性は多少なりとも性差別的構造から解放され得るのであろうか。おそらく、答えは否定的であろう12。
父親不在の家庭状況の中では、「父母」という対概念は、神を生き生きと描写するメタファーとなるどころか、実体を伴わない幻想になりかねない。また、何よりも日本社会において「母」が果たしてきた特異な歴史とその今日的影響を看過することはできない。欧米と比べると父権制が必ずしも明確に表面化しない日本社会においては、しばしば母性原理が父権制に対する補完的役割を負ってきた。そして、戦時中の天皇制と母性を中心とするジェンダー・イデオロギーの作為的融合は、そのような構造をはっきりと現象化させたのである13。国家という偉大な家族モデルの中で「母」であることは、女性に対し、特権的役割を享受しているかのような装いを与えながら、実際には、支配者の欲望を満たすための性差別構造を容認するよう仕向けてきたのではなかろうか。この構造は、戦争責任の問題がまだ十分に議論尽くされていない今日において、なお過小評価できない影響力を持っていると言わざるを得ない。
それゆえ、「母なる神」「父母なる神」という神の呼称によって、もっとも利益をこうむるのは、やはり男性であろう。つまり、日本においても、神と人間の関係を親子という家族関係のメタファーに限定されずに、多様に語ることが必要とされているのである。戦時中、日本のいくつかの教会では四位一体が語られた。伝統的な三位一体論に天皇という新たな神格が融合し、日本的な神の家族モデルを形成したのである。そういった傾向性を持った教会が国体護持のために奔走したことは言うまでもない。神のジェンダーをはじめ神理解・神表現が、決して形而上学的問題ではなく、現実の様々な差別構造に応答するための実践的な課題であることは明白である。
(同志社大学神学部専任講師)
註
1 聖書の引用は[聖書 新共同訳 1987]による。以下も同様。
2 ただし、意味の置き換えが大胆になるほど「改ざん」に近づく危険性が増大すること田川は例示している[田川 1997:611-614]。また、最近の英訳聖書の女性差別表現を意識した取り組みについても解説している[田川 1997:605-610]。
3 例えば、グドルフは性にかかわる記述を含む聖書の各箇所に内容的矛盾があることを指摘し、それらに一貫性を持たせるような規範を作り出すことは不可能であると言う。それゆえ、性差別的な箇所に関しては「反啓示的」(counter-revelatory)という判断を下していかなければ、現代の問題に応え得るキリスト教の性倫理を形成することはできないと主張するのである[Gudorf 1994:7-14]。また、預言者的伝統に関しては、リューサーがフェミニズムの聖書的基盤として「預言者の原則」(the prophetic principle)を導入している[リューサー 1996(1983)]。
4 「旧約聖書」という名称は適切でないだけでなく、様々な誤解を招くので、本論文では「ヘブライ語聖書」という名称を用いる。
5 ただし、マクフェイグの場合、神を人間関係のメタファーに限定することにも批判的である。つまり、人間関係のメタファーの中で神を規定し、その神に最高・最善・全知・全能などの属性を付与することによって人間との差異化を図る従来のやり方では、結局、神の本来的多様性を十分には表現しておらず、むしろ神概念を人間の恣意的解釈の犠牲にしてしまう危険性がある、と指摘する。そこから、マクフェイグは自然を「神の体」と見なす生態論的・有機的モデルを提唱し、とりわけヘブライ語聖書に見られるように、自然から引き出される多様なメタファー表現を積極的に活用することによって神的存在の豊かさに応えようとするのである[McFague 1997]。
6 例えば[モルトマン=ヴェンデル 1996]。
7 とりわけエコ・フェミニズムにおいて「女性原理」の導入の是非が激しく議論されている[大越 1996:67-76]。
8 [Mulder 1996]はリューサーとイリガライを対比させることによって、この類型を抽出している。また、英語表現における同様の問題を[れいのるず秋葉 1997]は男性名詞(代名詞)の総称的用法に基づいて端的に紹介している。[中村 1995]は、男性を人間の規範とする「人間=男観」が伝統的言語学の中にあることをフェミニズムの視点から分析している。
9 例えば[Gunter 1996:21]。また、ガラテヤ書3章28節に対するフェミニスト神学の視点からの釈義については[フィオレンツァ 1990 (1983):300-346]を参照。
10 神理解とメタファーの関係については[小原 1994]を参照。
11 日本の例として[栗林 1997]、アジアの例として[ソン 1995(1990)]をあげることができる。
12 [大嶋 1996]は、神の呼称をめぐる日本女性の反応を報告している。
13 近代日本において母性原理が果たした役割、また、それが国家と結びついた家族モデルの中に取り込まれた経緯については[大越 1997:125-196]を参照。
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