「身体論に関する神学的考察」、『基督教研究』第59巻第2号
身体論に関する神学的考察1
小原 克博
Ⅰ 問題の所在
Ⅱ 神学的身体論の射程
Ⅲ イエス・キリストの「からだ」
Ⅳ 課題と展望
Ⅰ 問題の所在
なぜ神学の課題として身体論を扱うのか。まず、身体をめぐる問題の所在について触れながら、考察の動機を明らかにすることによって、身体論の今日的意義を問うための出発点としたい。
第一に、キリスト教の歴史の中で身体がきわめてアンビヴァレントな評価を受けてきたことに対する疑問がある。一方でキリスト教は、イエスの地上の生涯やイエスの「からだ」のよみがえりを重要な出来事として伝承し、受肉の教義を形成し、イエスの体を食し血を飲む儀式を典礼の中心に据え、教会をキリストの「からだ」と呼び、来るべき終わりの日に「からだ」のよみがえりを待望する。これらの点だけを見ても、キリスト教が身体に対し特別な意義を与えてきたことは明らかである。しかし、他方、キリスト教的生活あるいは霊的生活というと、それは身体や肉的なものに対する戦いと見なされることが少なくない。教会教父たちにしばしば見られるように、身体は特にセクシュアリティとの関係から、積極的に拒絶の対象とされた2。また、そのような形での身体の拒絶が、男性による女性の支配や抑圧を宗教的に正当化してきたのではないかと、近年、フェミニズム思想から指摘されている。このように身体を思考と実践のための中核的な枠組みとしながら、同時に、ある特性を付与された身体には敵意をあらわにするという二重性をどのように受けとめればよいのであろうか。
第二に、諸宗教間の対話に対し、身体論が寄与する可能性を考えさせられる。文化人類学や宗教学の研究成果により、世界に多様な宗教が存在することと同時に、それらの間にある種の類似性があることがわかってきた。また近年、認知言語学、特にメタファー論の分野では、言語の相違にかかわらず、身体感覚に基づいたメタファーにかなりの普遍性があることが注目されている3。異なった宗教どうしを比較するために、しばしば、類似した概念を付き合わせる作業がなされてきた。例えば、パウル・ティリッヒ(Paul Tillich)は、キリスト教の「アガペー」と仏教の「慈悲」、キリスト教の「神の国」と仏教の「涅槃」を相関関係に置いた[Tillich 1964:82-88]。もちろん、そのような作業も必要であるが、そういった抽象度の高い概念が成立する以前の身体感覚の次元に注目し、そこで息づいているメタファー(あるいは、そこから派生するモデルや物語構造)の共通性に触れることができれば、宗教対話といった作業をより日常的なレベルで進めることができるのではないか。
第三に、身体論は、神学の学際性や社会的責任応答性をはかる指標として働くと考えられる。すでに哲学や心理学、脳科学や生命科学などの諸分野において、身体論は重要なテーマとして扱われ、部分的に共有されている。つまり、神学が身体論を扱う場合にも、ただキリスト教の内側でしか妥当しない内部コードとしてそれを論じては意味がない。一方でキリスト教信仰に固有なものに根差しながら、他方、キリスト教信仰の圏外に生きる人々にとっても認識可能な意味を伝達しなければならないという緊張関係の中にそれは置かれているはずである。脳死、臓器移植、遺伝子治療、クローン技術などの問題が身近になるにつれ、神学が果たさなければならない社会的責任もいっそう意識させられる。そういった現代的諸問題に対応していくためにも、神学的人間論の基礎づけとして身体論を考察していくことには積極的な意味があるのではなかろうか。
Ⅱ 神学的身体論の射程
キリスト教の歴史を振り返ると、そこには実に多彩な人間理解の痕跡を見ることができるが、「身体と魂」の二分法、「身体と魂と霊」の三分法などの考え方を――肯定的に扱うにせよ、否定的に扱うにせよ――問題の出発点としてきた点では、かなりの一致を認めることができる。ここではキリスト教の身体理解の歴史的変遷を網羅的に論述することはせず、むしろ現代の神学者たちが過去の遺産の中からどのような問題点を抽出しているかを概観し、それらに通底するある種の類型を探ることによって、神学的身体論の射程を見定めていくことにする。
1)ブルトマンの場合
まず、ルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann)がパウロの身体理解をどのようにとらえているかを見てみる。パウロ神学の中で展開された身体観は、後代のキリスト教の身体理解に大きな影響を及ぼしているので、神学的身体論を一般的に考える上でも重要な論点を提起してくれるはずである。ブルトマンによれば、パウロが人格を含め、人間存在の特徴をあらわすために用いたもっとも広義の概念は「からだ」、すなわちギリシア語の「ソーマ」(swma)であり、パウロは「終末における死後の将来的人間すら、《ソーマ》を持たない存在としては述べることができなかった」のである。ブルトマンは、パウロの「ソーマ」理解にゆらぎがあることを認めつつも、真にパウロ的な特質を「人間存在というものは――《霊》の領域においても――ただソーマ的なものとしてのみ存在する」という点に見ている。それゆえ、ブルトマンはパウロに即して、「人間は《ソーマ》を持つのではなくて、むしろ、人間は《ソーマ》であるとさえ言いうる」のである[Bultmann 1961=1966:10-14]。
そして、このようなパウロの人間理解に基づいて、ブルトマンはさらに人間を自己自身に対して関係的な存在として特徴づけていく。すなわち、人間を自己自身と一つになることもあり得るし、また自己自身と分裂することもあり得る存在として記述するのである。人間がソーマであるからこそ、人間は善にも悪にもなる可能性があり、神との関係を持つ可能性が存在すると考えるのであるが、そこには同時に自己自身を「私」と「非―私」とに区別する誘惑がある。ブルトマンは、パウロの自己理解がグノーシス的二元論に由来するものではないことを指摘した上で、パウロが強調した人間の分裂的状態がグノーシス的二元論へ接近していることを認めている。人間は自己自身から自分を区別し、時には自分とは別の諸力に落ち込むようなこともあるが――その場合、ソーマは肉(サルクス)と同じ意味で用いられることもある――、そのような関係に開かれていることが人間の特質としてとらえられている[Bultmann 1961=1966:20f.]。
ブルトマンのソーマに対する考察から、われわれは身体と魂とに分化させられる以前の人間の統合的・全体的側面へと注意を喚起される。それはブルトマンの身体理解に反映されている彼の実存主義哲学の一つの帰結であろう。しかし、その記述に関して、なお疑問な点が残される。例えば、自己から自らを区別する自己とは一体何なのか、また、区別する主体としての自己と区別される対象としての自己の関係については必ずしも明瞭な説明が与えられていない。しかも、人間の分裂的状況が外的諸力によって引き起こされているにせよ、それが一人の人間の内面的・実存的問題として注目されることにより、人間の身体感覚は皮膚の限界内に限定されてしまいがちである。
2)モルトマンの場合
上述の疑義に対する応答の一例として、次にユルゲン・モルトマン(Jurgen Moltmann)の身体理解を取り上げる。人間の身体性に注目し、それを救済のための重要な要素と考える点でモルトマンはブルトマンの理解を共有している。それは、モルトマンがフリードリヒ・クリストフ・エーティンガー(Friedrich Christoph Oetinger)の命題に依拠しつつ、「『身体性』は、神の業に対応しながら、人間の最高の目標でもあり、神のすべての業の終わりである」[Moltmann 1985=1991:356f.]と述べていることからも明らかである。しかし、モルトマンはブルトマンと異なり、身体的人間の特性をただ内的に分裂し、統合される個人的実存の中に見るだけでなく、むしろ、身体が「人間―環境のフィールド」の中でかたちを取るという相互内在的・相互浸透的関係を強調する。つまり、魂によって支配される身体という考え方の中に人間の自己同一化の理想を見るのではなく、むしろ、環境との交流の中で自己同一性が形成され、身体の個人性および社会性が獲得されると考えるのである。したがって、モルトマンは、バルトに典型的に見られるような、支配する魂に仕える身体といった秩序づけと、そこに起因するアナロジー(例えば、男女の支配・従属関係)を神学的主権論として厳しく批判する。
また、モルトマンはブルトマンと異なり、身体の内的変化を「分裂」としてではなく、新しいかたちの形成として積極的にとらえる。モルトマンは身体的生の「中心化」について語るが、この中心は絶えず移動し、それゆえ人間の生は「構築と解体のリズム」の中に置かれているのである。そして、この生のリズムの中で遂行される、約束に対する誠実によって、人間は自己同一性を獲得することができるのである[Moltmann 1985=1991:366-370, 374-380]。
モルトマンの理解の中には、明示されてはいないが、生き生きとした身体的生の形成のために必要な<他者>という視点が含意されている4。支配と従属、区別する自己と区別される自己を内部構造として包含する自己完結的な身体ではなく、他者との相互浸透によって動的に形作られる他者志向的な身体がそこではテーマとされているのである。そして、それは現代の神学的身体論が看過できない重要な論点を含んでいる。なぜなら、コスモス全体を神によって秩序づけられた身体として理解し、人間をそのコスモスの秩序に対応するミクロ・コスモスであると考える身体の入れ子構造は、現代においては破綻しており、もはや容易には共有され得ない。また、ある特定の身体モデルが恣意的に社会に適用されたとき、それがしばしば全体主義的専制政治を生み出したことをわれわれは知っている。それゆえ、われわれは身体間の同質性や類似性を前提とするのではなく、かえって相互に浸透している他者性の認識から出発することにより、現実に即した身体論を構想することができるであろう。
3)パネンベルクの場合
モルトマンの問題提起をさらに別の角度から考察するために、ヴォルフハルト・パネンベルク(Wolfhart Pannenberg)の人間論を取り上げたい。彼は、歴史的経緯の中で、人間論に関する聖書的なアクセントがどのように変容してきたかを指摘する。
パネンベルクによれば、心身一体としての人間理解は聖書に根拠を持っているが、同時に、それは、2世紀中葉以降、支配的になってきたプラトン主義的な心身二元論からの大きな影響にさらされてきた。教会教父たちは、人間の心身の一体性をキリスト教人間論の基礎として主張したが、心身二元論という時代的影響力は強く、それは次第にキリスト教の中に浸透していくことになる。ただし、パネンベルクは、このプロセスを、初期キリスト教が時代のヘレニズム化からやむを得ず受けた影響の結果と見なし、それはキリスト教的人間理解の本質に属するのではないと語る[Pannenberg 1991:211]。
パネンベルクは心身一体として人間を理解することの根拠を創世記2章7節「主なる神は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」に求めている。この箇所に基づいて、パネンベルクは、魂は身体の一部あるいは本質部分ではなく、それは魂を吹き込まれた(beseelt)身体そのものであると考える。他方、教会教父たちがプラトン主義的理解を修正したにもかかわらず、心身一体としての聖書的人間観は、歴史的に貫徹されなかったとパネンベルクは語る。なぜなら、魂と肉という二つの実体を結合するためのギリシア的モデルでは、魂が人間の一部であるだけでなく、人間を人間として価値づけ、自立的存在とさせる本質部分として理解されており、そこでは聖書的な人間理解とアクセントのずれが生じていると考えるからである[Pannenberg 1991:213]。
パネンベルクの主張の中には、魂を身体の部分的構成要素として、つまり、人間が所有している対象物としてとらえることに対する警戒がある。だからこそ、魂を吹き込まれた身体は、その魂のゆえに自立的に存在しているのではなく、むしろ、神の霊によって生かされており、それなしには存在することのできない「中心から離れた」(exzentrisch)存在なのである。彼は、exzentrischという言葉によって、それ自体の中心に存在の根拠を持つのではなく、他者としての神およびその霊に依存して存在していることを表現しようとしている[Pannenberg 1991:215]。前述のモルトマンの言及の仕方と異なるが、ここでも身体を根拠づける他者性の問題が重視されている。
ところで、パネンベルクは、プラトン的な心身二元論や、魂を本質部分とする修正された心身二元論を聖書的理解から区分しながらも、実際には二元論的メタファーを前提としており、その意味では、二元論的認識そのものを拒絶しようとしているわけではない。例えば、「魂を吹き込まれた身体」という表現は、beseeltの本来のニュアンスがどうであれ、そこでは、身体を器と見なし、魂を身体という器への注入物と見なすメタファーが前提にされている。これはメタファー論の中では「容器のメタファー」と呼ばれるもので、世界中の言語の中で広く見られる[Lakoff; Johnson 1980=1986:37-49][瀬戸 1995:143-209]。パネンベルクはこのメタファー的枠組みを用いながら、身体の本質と構成についてではなく、身体の生成と作用について語るのである。心身一体を表現する場合にも、直接的に「一」なることを指し示すことはできず、そこにはメタファー的前提やそれに内包される認識論的な意味での二元論的区分が存在している。その限りでは、心身二元論の受容プロセスも、必ずしもパネンベルクが考えるように、地中海世界の時代状況に還元し、キリスト教人間論にとっての余剰物として評価する必要はなく、むしろ、人間の認識一般に潜んでいる傾向性として受けとめるべきではなかろうか。
4)暫定的なまとめ
これまでの限られた考察から神学的身体論の全体像を描き出すことはできないが、少なくともいくつかの重要な類型的論点を抽出することは可能であろう5。それゆえ、ここでは以下の三点を中心に暫定的なまとめを試みながら、神学的身体論の射程を明らかにしていきたい。
第一に、身体に関する一元論と二元論への問いかけがある。ブルトマン、モルトマン、パネンベルクのいずれも典型的な心身二元論を批判した上で、人間を魂と身体の全体として把握しようとする。それでは、神学的身体論はいわゆる心身一元論の立場を取るのであろうか。二元論はグノーシス的な悪しき誘惑として、あるいは神学的主権論の温床として破棄されるべきなのであろうか。
一元論や二元論が持つレトリカルな意味合いを考える上で、カイム・ペレルマン(Chaim Perelman)の指摘は示唆的である。ペレルマンは哲学的概念の中に現れる様々な対概念、例えば、現象と実在、偶然と本質、相対と絶対、個別と普遍といった対概念を取り上げて、それらを第一項と第二項の関係と呼び、それらが単なる二元論、二分法でないことを次のように説明する。「現象/実在という対概念を手本として、哲学的概念を第一項/第二項の形で表すことができる。第一項は現象的なもの、最初に出てくるもの、現実的なもの、直接的なもの、直接に認識されるものを表す。第二項と第一項との間には区別があるが、この区別は第一項に関連づけてのみ理解される区別であって、第一項の諸様相間に現れた不両立関係を除かんがため第一項内で行われた分割の産物が第一項と第二項の区別である」[Perelman 1977=1980:187]。言い換えるなら、第二項は形式上、第一項と第二項の対立に属しながらも、同時に、第一項において不可避的に生じる不両立関係やパラドックスを回避するために見いだされるメタレベルである。
身体論に即して考えるなら、身体と魂という関係において身体が第一項で、魂が第二項となる。人間が身体であるという現実を認めると、そこには実際、様々な不両立関係が立ち現れてくる。一人の人間においては、生きているときの身体と死後朽ち果てていく身体という不両立関係の不安に直面して、それら身体のメタレベルとしての魂を考えれば、生死を越えたアイデンティティを獲得することが可能である。また、人種・民族の違い、性の違いは身体的なものであるが、(キリストを信じる)魂というメタレベルを問題にすれば、パウロが語るように「ユダヤ人もギリシア人もなく、......男も女もありません」(ガラ3:28)という表現を引き出すこともできる。このように二元論的表現の中にも、一元論的欲求に応えようとする構造を見ることができるのである。他方、レトリカルな循環構造を忘れて、メタレベルを固定してしまうと、一貫性や同一性の名目のもとに、現実にある多様な区別や、差別構造を等閑視してしまうという危険性がある6。
結論的に言えば、神学的身体論は、心身一元論か、二元論かという二律背反的態度に陥るより、両者のレトリカルな相補性や、言葉が恣意的に使われる際の危険性を視野に入れることが望まれる。身体はそれを取り囲む環境世界と同様、絶えざる相互作用の中で変化し、その意味では言語による身体の本質規定もそのような変容の相のもとに置かれていることが意識されなければならない。身体は一元論的記述であれ、二元論的記述であれ、言語による本質規定に拘束されない自由と多様な相関関係を内包しているのであり、それがかえって身体の非本質的側面をも露呈させる。つまり、言語によって規定された身体理解と実際の身体的相関関係の複雑さとの間には、自ずと「ずれ」が生じる。しかし、この「ずれ」こそが言語による身体記述が持つ、真に有効な情報内容なのである。なぜなら、心身一元論や二元論に単純に還元されない刻々の認識論的「ずれ」が、逆説的に、言語による認識システムと現実の身体との間の動的な関係を映し出すからである。そのような「ずれ」や、あるいは従来の本質規定からきしみ出るノイズを、かえって身体の生きた様相、生きた声として受容していく繊細さが神学的身体論には求められていると言えよう。
第二に、神学的身体論が向き合わねばならないのは、他者性の問題である。神学的身体論は、説明の一貫性・整合性を自己充足的な形で追求するより、むしろ、身体が他者との関係性なしには規定されず、形成されないことを認識すべきである。そのことをモルトマンは身体と環境との相互内在・相互浸透によって、またパネンベルクは身体が「中心から離れた」存在であるということによって表現していた。ここで、他者とは単に自分以外の存在というだけでなく、本来自分の意のままにならない予測不可能・制御不可能な存在であると言える。その意味で、神は人間にとってその存在の起源でありながら、同時に他者性の起源でもある。それゆえ、神や人の他者性を顧慮しない者は、存在の同質性への盲信から、最終的に認識主体の絶対主義へと至る危険性を絶えず内包している。このような危険性を警告するための社会倫理学的責任を神学的身体論は負わなければならない。
また、身体が神・人・自然などの他者との交流の中で変容するということは、身体が受肉しつつある身体である、ということを意味している。創造論に即して言うなら、受肉しつつある身体は神の継続的創造に対応している。身体はそれが創造されたときにすでに固有の価値を持っているが、それは決して完成されたものではなく、また「『内なる人』は日々新たにされ」(二コリ4:16)、「古い人を脱ぎ捨て、......新しい人を身に着け」(エフェ4:22f.)という身体の更新も決して一回的なものではない。むしろ、身体はその起源的創造から終末論的完成(終末における新しい創造)に方向づけられており、それゆえ、創造と救済の共振的リズムの中で変容する可能的実体である。言い換えるなら、身体は起源的創造と終末論的創造という二つの極性に挟み込まれた力学的フィールドの中に付置され、他者との交わりを変容・再生のためのエネルギーとして、受肉し続けるのである。
第三に取り上げるべき神学的身体論の課題は、存在と所有の関係である。ブルトマンに限らず、身体に関する今日の神学的言説の多くは、人間は身体を持つのではなく、身体そのものである、と語る。ここには所有から存在への視点の移動がある。身体の所有は、身体の道具化を生み出し、さらに、身体の延長上にある自然物の所有・道具化へと至る。こういった西欧的人間論の傾向性に対する批判が、一般的に、所有から存在へという説明の中に込められているに違いないが、それはしばしば全体性の回復という観点から論じられることが多く、身体に関する所有と存在の関係について十分に論じられているとは言えない。
例えば、カント的な私的所有の主張は今日、西欧的人間論の枠組みを越えて、われわれの日常意識の中に広範囲に根づいている。カントは言う。「肉体は私のものである。なぜなら、それは私の自我の一部であり、私の選択意思によって動かされるから。自分の選択意思をもたない生命ある世界や生命なき世界の全体は、私がそれを強制して自分の選択意思のままに動かすことができるかぎり、私のものである」[Kant 1764/65=1966:309]。このような言説が世俗化・一般化され、自分の身体を自由にできる自己決定権(尊厳死、臓器移植など)や自然資源の徹底的利用が正当化されてきた。しかし、これらの点に関しては、すでに生命倫理学や環境倫理学の領域から疑義が出されている。したがって、神学的身体論は、キリスト教信仰に根拠づけられた身体の所有と存在の関係性を明らかにしていくと共に、それらが決して形而上学的な事柄ではなく、生命倫理や環境倫理にかかわる具体的な問題であることに留意すべきであろう。
Ⅲ イエス・キリストの「からだ」
上述の射程において我々がキリスト教的身体論の根拠を求めるなら、ただ一般化された身体ではなく、イエス・キリストの「からだ」に注目することは不可欠である。ここでは、イエスの受肉・十字架・復活という伝統的区分に従って、イエス・キリストの生に根ざした身体論の可能性を示唆する。
1)イエスの受肉
イエスがその生涯において神の国の近さを説き、自らの身においてそれを実践した伝承は、後にヘレニズム的なコンテキストの中で、イエスは神が肉体となった方であるという受肉の考えを用いて表現されるようになった。それぞれのコンテキストの中で表現の位相は異なるが、いずれにしても、イエスの身体的活動を抜きにして救いを語ることはできないという了解がそこにはある。つまり、救いの出来事はイエスの「からだ」を基盤として展開されたのであり、また、そのイエスの「からだ」に自らの「からだ」全体をともなって連なっていくことが、イエスに従う者の信仰の具体性を形作っている。
しかも、しばしば、それらの出来事は、触れてはならないとされた人々にイエスが触れ、また彼・彼女らがイエスに触れることによって成し遂げられた(マコ1:41、5:27、5:41、6:56など)。重い病気・障がいを負った者、死者、女性たちが、浄・不浄の規定によって、宗教的・社会的に触れてはならない対象とされ、周辺的存在として疎外されたのは、それらの人々が身体の標準的指標から逸脱していると考えられたからである。その際、身体の標準・規範とされるのは、言うまでもなく、支配的立場に立つ男性の身体である。イエスは、社会的に疎外された人々と身体的に出会い、交わりを深めたために、支配的身体によって秩序づけられた聖と俗の境界領域をたびたび侵犯した。そして、イエスの身体の越境的行為が、周辺にあって断片化されていた名もない身体を呼び集め、そこから新しい身体的共同体を形成していくのである。
また、今日われわれがイエスの身体を考える際に看過することができないのは、イエスのジェンダーをめぐる議論である。受肉したイエスは生物学的には男性であるが、特にフェミニスト神学から、キリストが男性であることが、結果的に男性の女性に対する優位を助長してきたという批判がある7。それゆえ、フェミニスト神学者たちはイエスのジェンダーを中性的に扱ったり8、あるいは、女性としてのイエスを想定するのである9。こういった考え方の対極には、イエスが男性であったこと(また、弟子たちが男性であったこと)を根拠として、聖職者を男性に限定しようする立場がある。もし、われわれがこれら両極に挟まれた多様な議論の煩わしさを回避しようとして、性を超越した一見中性的な人間論を展開するなら、それは結局のところ男性優位の現状に荷担することになるであろう。したがって、われわれが神学的身体論を考察する際には、性の問題を十分に考慮しつつ、かつ、特定の性の利益に還元されない視点が必要とされる10。また、性を考慮する身体論的視点は、同時に他者性の認識へとつながっていくのである。
2)十字架につけられたイエスの「からだ」
十字架につけられたイエスの「からだ」は、存在(あること)と所有(持つこと)の境界領域としての身体の問題性をあらわにする。われわれは身体によって何かを所有し、意のままにすることができるが、それを可能にしてくれる、その当の身体が、現実にはわたしの意のままにならない、という意味で、身体は存在と所有の境界領域であると考えることができる。ところが、現代のわれわれの身体観においては、「ある」が「持つ」によって過度に侵食されている。何かを所有することが身体的実感を支えていると言ってもよいであろう。同時に、所有を中心とした身体観は、所有物を生み出す生産的な身体を価値あるものとし、非生産的な身体を周辺に押しやることになる。生産的身体は、すなわち消費的身体であり、何かを所有し、消費することによってしか自己充足へと至ることができない。
しかし、皮肉なことに、人は自分でないものを所有しようとして、逆にそれに所有される。だから、所有し支配することを強く願う人々は、所有物によって逆規定されることを拒絶し、イニシアティブの反転が起こらないような所有関係、すなわち絶対的な所有を望む。その典型的な現れが、人を死に追いやることであり、ここでの場合、イエスを十字架につけるということである。ただし、それはイエスの側から言えば、自らの所有権を放棄するという行為であった。ところが、一方で人の所有欲が極まり、他方で所有が徹底して放棄された十字架という到達点において、まさに逆説的な形で、イエスの存在がどんな所有によっても侵食することのできない確かさをもって立ち現れてくることを聖書は証言している。その意味では、十字架以前のイエス共同体と、十字架以降のイエス共同体とは身体の位相において見れば、まったく異質なものである。端的に言うと、所有から存在へと反転する身体的転換点が、イエスの十字架には秘められている。そして、その身体的転換点を通過した信仰者たちにとって、苦難は、個的・共同体的身体を弱体化するどころか、かえって、十字架につけられたイエスの「からだ」を想起させるゆえに、その身体的統合を確かなものとするのである。
3)復活したイエスの「からだ」
イエスの復活は、黙示文学的な終末思想の中で理解されるべき点を多く持っているが、とりわけ、「からだ」のよみがえりという表現は重要な意味を持っている。一般的に、「からだ」のよみがえりは、魂の不死性を問題にしていない。むしろ、その考えの中には、「からだ」をともなった人間の具体的全体像への視線があり、また、生と死を越えて人間のアイデンティティが全体として保持されるという期待がある。
とりわけ、黙示文学的終末論において「からだ」は素材と言うより、関係を表す概念であった。「からだ」こそが、個人と共同体の接点であったからである。それゆえ、最後の審判において「からだ」がよみがえらされるというのは、単に個人的なことではなく、その個人が共同体とのかかわりの中でなしてきた行為が責任として問われるという公共的な意味を持っていた[大貫 1996:22]。救いや裁きの公共的・共同的性格を語るためには、神の前に立つのは、魂というより「からだ」でなければならなかったのである。したがって、イエスの「からだ」がよみがえったということは、それを信じる者の救いも「からだ」の次元で、つまり、公共的なかかわりのレベルでなされるということを指し示している。それゆえ、信仰を個人の内面的問題へと矮小化しがちなわれわれに対し、イエスが「からだ」をもってよみがえったという証言は、鋭い批判を発し続けていると言える。
また、イエスの「からだ」のよみがえりに連なる共同体は、未来に対し開かれ、神の到来を待望する終末論的共同体である。それは、終わりのものを絶対的と見なす「急進主義」ではなく、また、既存のものを絶対と見なす「妥協主義」でもない。むしろ、その共同体は「究極のもの」と「究極以前のもの」との間にあって、両者を媒介するインターフェイスとしての役割をこの世において果たさなければならないのである11。
4)拡張するイエスの「からだ」
すでに見てきたように、イエスの「からだ」は新しい共同体の形成の出発点と根拠を与えてきた。例えば、パウロは教会を「キリストの体」と見なし、多くの部分の協力によって成り立っている有機体としてのイメージを与えたが(一コリ12:12ff.)、それは世界を「神の体」と見なすグノーシス的神話を採用したからではなく、教会の一体性と信仰者一人ひとりの賜物の多様性とを表現しようとしたからであった。このようなパウロ的理解は、キリストを「教会の頭」とする表現にも継承されている(コロ1:18、エフェ1:22)。いずれにせよ、イエスの身体が様々なイメージの中で拡張されながら、新たな身体的トポス(場)を見いだしてきたことは明白である。同様のことをモルトマンは、キリスト教は「ますますより大きなキリスト」を見いだすための道であったと述べるが[Moltmann 1989=1992:426]、その道が、宗教のしばしば陥る拡張主義と区別されるためにも、身体の拡張性と共に、それがどのような形で収斂しているのか、に目を向けていく必要がある。その際、重要になるのは他者への視座である。もし、他者の他者性を認めずに、拡張された身体の中に吸収していくなら、その態度は拡張主義のそしりを免れない。例えば、イエスの身体は社会的多様性(ガラ3:26-28)・宗教的多様性(ロマ14:1-23)を包括する可能性を示しているが、ここでは各人が抽象的な一者に還元されることなく、それぞれの特性(他者性)を保持しながら有機的に統合されている。
Ⅳ 課題と展望
これまでの考察を踏まえた上で、今後の考察のために残された課題を特に倫理学的視点から概観すると共に、神学的身体論の可能性を展望したい。
1)生命倫理学的課題
所有と存在をめぐる議論は、今、生命倫理学の領域においてもっとも激しく議論されていると言える。その問題は先端医療の現場において先鋭化している。脳死判定後の臓器移植や出産前診断などはその典型である。人間論的に言えば、前者は人間の機能的本質を脳に見ており、後者は人間の可能的生を遺伝子に還元している。いずれの議論の場合も、身体やその部分は、所有と存在の境界領域を揺れ動いているが、先端医療の推進を支える所有の価値づけは、米国の代表的な生命倫理学者の一人であるとされるエンゲルハート(Hugo Tristram Engelhardt)の次の言葉にもうかがえる。「対象を所有するということは、対象を作り、それに形を与え、それを自分の意志に従って、自分の観念の似姿に作り変える一連の過程である。それは、物を自分自身の領域内に同化する方法である。こうして、ひとは自分の身体化の範囲を拡大し、他者の自制を求める権利の境界線を拡張する」[Engelhardt 1986=1989:167]。つまり、人間が手を加え、制御可能にした対象物は、人間の身体の一部として所有されるのである。そこでは、人間の手が加えられれば加えられるほど、その対象物は人間に固有の価値を付与されるという帰結が暗示されている。出産に関しても、そのような論点に立てば、人工授精・体外受精は通常の異性間性交に比べ、より人間的な出産方法として積極的な価値を与えられることになる。同時に、このような議論の背景には、世俗化された創造論の影響がしばしば見られる。つまり、神の似姿として創造された人間は、まったく同じではないにせよ神の創造性を与えられており、この創造性を活用することこそが神の創造の目的に適う、と考えるのである12。そこでは、人間の自己目的のために機能化された「神の像」が、先端医療推進の助力として使役させられている。
これらの議論の前提とされる所有概念は、それが取り扱う技術的革新性にもかかわらず、基本的には先に引用したカントの古典的所有概念と大差はない。そこでは、作り出し制御することによって人間の所有が発生する。人間によって作製・制御可能な対象が身体に内属させられることによって、他者性は自己に従属させられる。しかし、身体はその人によって作製されたものではなく、また制御され尽くせるものではない。少なくとも、神学的身体論は、人間が制御できないもの、制御しないものを他者として尊重し、安易に他者性を剥奪する行為に抵抗する。その意味では、すでに自らの身体の各部位が人間にとって他者としての意味を内包しているのであり、それゆえ、神学的身体論は、身体に配置された多様な他者性を省略し看過させてしまう脳への還元主義や遺伝子本質主義、また、そこから派生する優生学的人間論や決定論(予定論)に対しては慎重な態度を取らざるを得ないのである。
2)社会倫理学的課題
身体論が現代的な課題を十分射程に収めるためには、フェミニズム思想やフェミニスト神学からの問題提起を誠実に受けとめることが不可欠である。それによって、抽象的な人間論に陥ることなく、それぞれが他者としての尊厳を得た具体的な男であり女であることの認識が可能となる。また、男性中心主義に潜む差別構造は、性差別だけでなく、差別問題一般に適用して考えることも可能である。そこから、諸宗教が抑圧された者の声に耳を傾け、不当な差別を克服するための実践的対話を重ね、共同作業する道も開けてくるであろう。身体論は諸宗教が対話と実践を継続していくための共通基盤となる可能性を秘めている13。
他方、情報化社会が本格的なものになるにつれ、デジタルな海原の中で身体感覚はますます希薄になっていく。インターネットに代表されるサイバースペースで、身体的拘束から解放される自由を享受できるのは、まさに身体の拡張可能性によるのであるが、そこには同時に身体がグノーシス的誘惑を秘めた無限空間の中に溶解し、自己と他者の区別がきわめてあいまいになる危険性がある。身体が希薄になり、透明化していく中で、他者性のリアリティはどのように獲得されるのか。この点に関し、森岡の次の指摘は示唆的である。「他者を見失った架空世界の住人たちの多くは、真の<他者>を見つけるために、......現実世界をふたたび訪れることになるだろう。そのとき、彼らにとって、この融通のきかない牢獄のような現実世界こそが<他者>となるのだ。彼らは、自分たちのコントロールの手が及ばないこの現実世界それ自体に、究極の他者を見いだすであろう。彼らを疎外し、彼らの傲慢な欲望を決して認めてくれなかったこの現実世界こそが、電子架空世界からの帰還者のための『不動の他者』となる」[森岡 1993:45-46]。
他者としての現実世界は、いかに精緻に構成されたヴァーチャル・リアリティよりも、多義性と複雑性に満ちており、それは身体の多義性と複雑性と共振関係にある。それゆえ、日常生活がテクノロジーによって制御され、現実世界が仮想世界からますます侵食される中で、現実世界と仮想世界とを自由に往来し、両世界をつなぎとめることのできる柔軟な身体感覚が求められる。それは無痛の身体によってはなされない。むしろ、神学的身体論は、分かたれた世界、分かたれた者どうしをつなぎとめる力の原型を、十字架におけるイエスの苦しみの中に見る。そして、十字架のイエスにおける神と聖霊の<共苦>という三位一体論的交わりが、この世における既存の様々な境界線を縦断し、再構築する身体の共振能力を根拠づけるのである。
3)環境倫理学的課題
近年、心身一元論や自然との共生、全体論的な理解ということが、近代的な二元論・機械論・還元論を越える試みとして評価されてきた。確かに、これらの主張は、肥大化した意識が身体や自然をないがしろにしてきたことに対する現代人の罪責感を一時的にいやしてくれる。しかし、人間の所有欲は、実際には二元論や機械論に基づく科学技術の成果を手放すことなく、ただ全体論的理解や自然との共生という思想を消費しながら、罪を隠蔽するためのアリバイ作りをすることも可能である。つまり、一元論的ないやしの思想の中に時として隠蔽されている、人間の所有欲との共犯関係を神学的身体論は洞察していく必要がある。
いずれにせよ、人間の身体に含意される内なる自然は、自ずと外なる自然を志向する。しかし、モルトマン同様、支配する魂に仕える身体という秩序づけを神学的主権論として、われわれが拒否するなら、それをアナロジーとして用いてきた、支配する人間に仕える自然という関係をも改めて問い直さなければならない。ところが、プロテスタント神学の中では、自然神学への否定的態度のため、自然への考察が十分なされてきたとは言い難い。それゆえ、ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)が語ったように、われわれは「自然的なもの」(Das Naturliche)の正しい回復を目指すべきではなかろうか。身体的なもの・自然的なものが、啓示の光の前で罪の影に没するよう仕向けられるだけでは、日常生活における判断基準を失ってしまいかねないからである[Bonhoeffer 1949=1996:135f.]。
身体の自然性を積極的に考慮する神学的身体論は、自然をも救済のドラマの一部として取り入れるサクラメンタルな自然理解を提起する。聖餐は、パンとぶどう酒といった自然物が神と人間の間を仲介して新たな共同性を開示していくドラマであり、それは十字架におけるイエスの苦難を想起させながら、ロゴスだけでなく、ロゴス化されないロゴス以前のうめきをもとらえる。それゆえ、イエスの苦難を想起し、それに連なる身体は、自然を抑圧・排除せず、むしろ自然を自らに負わされた責任を果たすべきトポスとして尊重する。このような態度は、『リマ文書』(1982年)以降の聖餐に関する議論の中で展開されてきた聖餐の生態論的理解にも対応関係を見いだすことができる。そこでは、神の宣教(Missio Dei)から見た世界は、自然のいのちを包含する被造世界であることが重要視されているからである[神田 1997:267-270]。また、新しい神学的模索の一例として、サリー・マクフェイグ(Sallie McFague)の試みをあげることができる。彼女は世界そのものを「神の体」として理解する。彼女の理解によれば、自然に対する神のラディカルな超越性や内在性は、伝統的な親子のメタファーでのみ理解される三位一体論からとらえることはできない。そこで、マクフェイグは自然を「神の体」と見なす生態論的・有機的モデルを提唱し、自然から引き出される多様なメタファー表現を積極的に活用することによって神の存在と働きの豊かさに応えようとするのである[McFague 1993]。
このように神学的身体論は多層な倫理学的課題や実践神学的課題と接点を有しながら、ミクロな領域からマクロな領域にまで対象領域を走査する。そして、そのことは同時に、神学的身体論が状況からの鋭利な問いかけに対して応答する弁証的な営みであり、受肉しつつある神学であることを意味しているのである。
注
1 本論文は、1997年3月に開催された日本基督教学会近畿支部会での研究発表に大幅な加筆・訂正をしたものである。なお、本文および注における文献表示は、[著者名 出版年(=訳書の出版年):頁]のように記され、当該の文献は末尾の「参考文献」において知ることができる。
2 例えば、K・アームストロングは伝統的なキリスト教の教義を形成した人物たちの中に、いかに身体的なもの・性的なものに対する憎悪が満ちていたかを指摘する[Armstrong 1988=1996]。また、特徴的な女性観を含むキリスト教文書を事例として折り交ぜながら、人物および時代ごとの女性理解を概説したものとして[Clark; Richardson:1996]がある。
3 例えば、瀬戸は、メタファー論を世代ごとに整理した上で、新世代のメタファー研究は、メタファーの普遍性を考慮に入れたものであると主張する[瀬戸 1995:33-36]。また、M・ジョンソンは、身体と環境との間で繰り返されるパターン化された関係が、世界を理解するための意味構造を形成していると考え、認識において身体が果たしている重要性を論証している[Johnson 1987=1991]。
4 モルトマンは、人間の生が必然的に他者との交わりの生であることを、霊の解釈にも適用していく。彼が自己完結的な身体理解を拒否することは、霊の個人主義的理解を拒否するのと相補的な関係にあると言える。彼にとって「霊は、生を促進しながら人間の間で起こるところのもの」だからである[Moltmann 1985=1991:385]。
5 本論文での暫定的まとめの妥当性を、身体に対する近年の神学的取り組みを網羅的に紹介した[Keenan 1994]は補足してくれる。また、J・B・ネルソンは「身体神学」(Body Theology)を提唱し、特に性倫理や医療倫理の領域を対象としながら、いかに身体に対する洞察が重要かを論述している[Nelson 1992]。
6 例えば、ガラテヤ書3章28節は、しばしばフェミニスト神学の出発点とされてきたが、同時に、今日では性差を安易に解消してしまうという危惧から、かえって批判的にも受けとめられている。本来多様なものが「一つ」に集約されるという発想は、結局、男性中心主義に荷担することになるといった批判がそこにはある。例えば[Gunter 1996:21]。
7 例えば、R=R・リューサーは、家父長化されたキリスト論に位置づけられた、男性としての救い主イエスが女性を救えるだろうかと疑問を投げかける。さらに、彼女は家父長的キリスト論のみならず、両性具有的キリスト論や霊的キリスト論さえ、男性中心主義から逃れられないことを指摘している[Ruether 1983=1996:164-190]。
8 近年、英語圏における包含的言語(inclusive language)による聖書翻訳では、明らかにこの傾向性が認められる。例えば、[Gold 1995]は、従来のthe son of Godをthe child of Godとすることにより、イエスの男性性を相対化している。
9 米国マンハッタンの聖公会ヨハネ大聖堂で、1984年の洗足木曜日に除幕され、大きな反響を呼んだクリスタ象はその一例である(クリスタはキリストの女性形名詞)。その像は、豊かな乳房と臀部を持つ女性であった。それに関してC・S・ソンは次のように重要な指摘をしている。「クリスタ像のシンボリズムは、キリスト教的シンボリズムを『冒涜』したのではない。それは『キリスト教の』男性的シンボリズムを暴露して、それを、男たちとだけでなく女たちとも共に在したもう神の歴史にさらしたのである。それはキリスト教会に、男たちだけでなく女たちをも神が創造されたことの全結果を引き受けるように強いたのである。そしてその中には女性の聖職叙任も含まれる。たしかにそれは、伝統的な男性中心的神学――神の女性的部分を取り扱うことのできない神学――の弱さと欠点を、露にしたのである」[Song 1990=1995:366]。
10 例えば、[McFague 1987: 97-124]や[Johnson 1992]は、性の問題を考慮しながら、イエスの中に両性にとって益となる全人的な人間性を見いだそうとしている。
11 「究極のもの」(die Letzen)と「究極以前のもの」(die Vorletzen)との関係については、[Bonhoeffer 1949=1996:107-185]を参照。
12 遺伝子操作などの先端技術においてキリスト教の人間理解・神理解がどのように反映されているかについては、[Peters 1997]を参照。
13 例えば、[Coakley 1997]は様々な宗教における身体論を扱っている。
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