研究活動

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書評「Sallie McFague, Super, Natural Christians: How we should love nature, Minneapolis: Fortress Press, 1997, 207p.」、『基督教研究』第59巻第1号

 今日、世界中で進行している自然破壊や生態論的危機の原因を、西欧的な自然理解と結びつける論考は枚挙にいとまがない。しばしば参照されるリン・ホワイト(Lynn White, Jr.)の「現代の生態学的危機の歴史的源泉」(1967年、邦訳『機械と神』所収)などは、キリスト教の人間中心主義や人間と自然の二元論を、それら現代的危機の元凶であるとするが、近年、キリスト教の側からもそういった批判に対する様々な対応が見られる。それらの対応は、基本的には、人間中心主義を少しでも相対化しようとする試みとして総括できるであろう。しかし、自らに向けられた悪評から逃れ出ようとする護教的かつプラグマティクな応答ではとても対処しきれないほどに、人間にとって、あるいは神学にとって「自然とは何か」という問いは、重層的な重みをともなっている。
 ここで紹介するサリー・マクフェイグ(ヴァンダービルト大学神学部教授)の著作は、そういった経緯を踏まえ、さらにポストモダンの思想的潮流の成果を取り入れながら、キリスト教信仰の中で自然の問題を正面から引き受けようとしている。リン・ホワイト論争以降、人間は神の代理人として世界を世話することを委託されている、という意味でstewardshipという概念が好んで用いられてきた(ジョン・パスモア『自然に対する人間の責任』1974年、など)。しかし、マクフェイグの議論の前では、自然と人間の間を平和的に取り結ぼうとした、そのような概念の中にさえ、取り去りがたく潜んでいる人間中心主義の臭いをあらためて感じさせられる。マクフェイグは、人間と自然との関係を描写し、規定してきた伝統的な主体・客体モデル(subject-object model)の拘束から抜け出して、自然をそれ自体で価値のある多様な主体として受け入れていくために主体・主体モデル(subject-subjects model)を提起する。その際、「モデル」に対する洞察が本書では重要な役割を果たすのであるが、それがどのような関連領域において位置づけられているのかを知るために、まず彼女の最近の著作を簡単に振り返ってみたい。
 Metaphorical Theology: Models of God in Religious Language (Philadelphia, 1982)では、宗教言語が持つメタファー(隠喩)としての側面に注目し、伝統的表現もメタファーであるがゆえに違うメタファーに置き換え可能であること、そして形骸化した宗教言語を活性化するためにはむしろそれが必要であることを指摘し、彼女が取り組もうとする諸課題のための方法論的基礎づけを提示している。そこでは、モデルは、関連するメタファー同士に解釈学的枠組みを与える優勢なメタファーとして位置づけられている。Models of God: Theology for an Ecological, Nuclear Age (Philadelphia, 1987)では、「父」なる神という伝統に対し、むしろ「母」「恋人」「友」などとして神を理解していくことに現代世界における積極的な意義を見いだそうとしている。また、The Body of God: An Ecological Theology (Minneapolis, 1993)では、特にエコロジカルな関心から、世界を「神の体」として把握する有機的な世界観を提示する。これらすべての近著が、本書Super, Natural Christiansで展開される神学的議論の伏線となっていることは明らかである。
 マクフェイグが主張する主体・主体モデルを検討する前に、本書のタイトルに注目したい。ここに彼女の神学的意図が端的に要約されているからである。彼女はバンクーバー滞在中、旅行者向けの広告の中に "Super, Natural British Columbia"という言葉を目にするのだが、そこにあるカンマの使い方がsupernaturalという言葉の見直しを彼女に促すことになる。伝統的なキリスト教は好んでsupernaturalという視点を用いてきたが、むしろ、このカンマこそ、今日のキリスト者が受け入れなければならないものではないか、と彼女は問うのである。Supernaturalからsuper, naturalへの転換において問われているのは、キリスト者が有する自然に対する霊性(Christian Nature Spirituality)とは何かという問題である。抑圧され、貧しい者に対して配慮するキリスト者として、自然にも同様に目を向け、主体と主体の交わりを隣人だけでなく自然にも拡張し、神と人を愛するように、それ自体価値ある主体として自然を愛する霊性がそこでは問題とされる。
 Supernaturalな視点が生み出した主体・客体モデルに対峙させて、彼女が主体・主体モデルを生態論的モデルとして提示するには次のような理由がある。すなわち、すべての存在は他の存在と相互関係・依存関係にあり、他に影響を及ぼし、他から影響を受ける「生態論的な主体」だという認識がそこにはある。その意味で、それぞれの主体は他者から孤立した存在物ではなく、また同時に、他者と混同されない特異性を備えている。また、生態論的な視点、進化論的な視点を含むポストモダンの科学的見解も、こういったモデルを支持しているのである。
 彼女はこういった主体・主体モデルを構想する手がかりとして、プロセス哲学・フェミニスト的認識論・科学的生態論からの洞察に多くを負っていると述べている。例えば、主体・主体モデルをsubject-subjectではなくsubject-subjectsとしてとらえる点には、フェミニスト思想からの教訓が込められている。すなわち、フェミニストたちが初期の頃、「女性」(woman)という言葉をかかげることによって、暗黙の内に北アメリカの白人中流階級の女性を前提とし、結果的に、民族、文化、階級などによって固有の事情をかかえる「女性たち」(women)の声を消し去っていたという反省が、マクフェイグの主体・主体モデルの中には反映されている。自然は決して単一の主体(subject)ではなく、多次元的で多様かつ複雑な生命および非生命の集合体(subjects)なのである。
 もっとも、彼女が主体・主体モデル、生態論的モデルを用いるのは、現代思想の影響ばかりではない。むしろ、そこにはイエスの働きに由来する神学的要請が先立つのであり、それゆえ、キリスト者は将来的な人類の不利益に備えるという一般的な動機づけとは異なる視点から、自然に向き合うのである。
 マクフェイグによれば、三つの位相においてイエスのミニストリーは自然にも拡張され得る。まず、富める者と貧しい者、義人と悪人、強い者と弱い者といった階層構造がイエスのたとえの中で逆転されるように、人間が自然を支配するヘゲモニーは解体されなければならない。すなわち、イエスのたとえの「脱構築的な位相」は、自然との関係にまで拡張される。この最初の段階において、自然は人間にとって有益か否かという価値評価から解放され、それ自体の存在において固有の価値を有していることを認められる。その次の段階としての「再構築的な位相」は、イエスのいやしの行為に現れている。そこで救いは精神化されないで、端的に体の回復を示しているのであり、神は人間のみならず、すべての被造物の健全な状態を望むことが含意されている。そして第三の段階、つまり「予期的な位相」はイエスの食事行為において明らかにされている。イエスが罪人・徴税人・娼婦たちと食事を共にしたことは、抑圧された人々との連帯を際立たせているが、それは同時に、貧しくされた自然を含むすべての被造物が満たされるという終末論的な晩餐を先取りする行為でもある。
 このようなイエスのミニストリーは、いずれの位相においても、イエスの身体性と深く結びついている。その意味では、われわれが問うべき自然との関係は、受肉論の中に一つの神学的根拠を与えられていると言えるであろう。マクフェイグはその方向を見定める中で、自然を人間の恣意的操作の対象物とするのではなく、むしろ、身体的なつながりを通じ、隣人を愛するように自然を「愛する」という地平にまで到達するのである。本書の副題にも表現されている、自然をいかに愛すべきか、という問いかけは、決して誇張ではなく、彼女が想定する生態論的モデルと聖書的使信とから導き出される自然な神学的課題なのである。しかも、それはロマン主義的な自然賛美や、神秘主義(あるいはディープ・エコロジー)に見られる自然への没入的一体感とは区別されなければならない。そういった区別を明確にするために、彼女は中世以降の自然理解の歴史的変遷にも注意を喚起する。
 マクフェイグの理解によれば、中世は、神と自然と人間とが豊かな関係性の中に置かれていた古き良き時代である。人々は自然の中に神のしるしを見いだした。自然は神を多様に指し示す豊かな象徴体系であり、それはさながら聖書に並ぶ一冊の書物であった。自然という書物を読み解いていくことにより、人間は神に至る道を見いだすのである。もちろん、マクフェイグは中世の世界観が前提とする二元論的・階層的・決定論的な視点を看過してはない。しかし、そういった制限を備えながらも、中世の世界観においては、まだ自然を客体として見る主体・対象モデルは現れていないことを評価し、さらに彼女は、生態論的モデルは実存主義より中世の自然観に近いと言うのである。この点において、自然と人間との関係を一種の心理学的な個人主義の中で解決しようとするのではなく、むしろ個と個を取り結ぶコスモロジーとして回復させようとする彼女の意図を見ることができる。
 しかし、中世の世界観は近代の自然科学的世界観によって取って代わられる。その際もたらされたのが「傲慢な目」(the arrogant eye)であると彼女は言う。その目は、主体と客体とに分割された世界の中で特権的な位置を占め、あたかも神の視点を獲得したかのように自然を観察対象として眺望することになる。西欧絵画で発達した遠近法では風景から独立した観察者の目が前提とされ、また、次第に一般的になってきた裸婦像には裸婦を客体視する男性の視線が隠されている。これらは近代的な視線の成立過程を反映した一例として引き合いに出されるのだが、今日ではその視線がテクノロジーの進展にともなって急速に拡張される。その典型的な例は、NASAが提供する宇宙に浮かぶ地球の写真である。まさに全体を眺望する神の視点が見る人の目を楽しませる。しかし、もしその写真が、抑圧された人々、抑圧された自然の現実の細部を覆い隠してしまっているなら、それを見る目は「傲慢な目」であると彼女は言うのである。
 マクフェイグは「傲慢な目」に対し「愛する目」(the loving eye)を対比させ、その重要性を説く。それは主体・主体モデルの中で成立する視線である。「愛する目」は身近な自然の細部にこだわり、そのかかわりの具体性の中で養われる。また、視覚のみを特権的に拡張してきた「傲慢な目」とは異なり、人間が最初に生の実感を得る身体的「触覚」を重視する。言うまでもなく、それは中世的な世界像への回帰ではなく、これから我々が獲得していかなければならない資質として描かれている。
 そのような作業のためにキリスト教は一体、どのような寄与をすることができるのであろうか。主体・対象モデルから主体・主体モデルへの転換は形而上学的な事柄にとどまらない、困難をともなう実践である。実生活における「愛する目」は絶えず挫折の危機にさらされているのであり、マクフェイグによれば、挫折する主体を許しの中で受けとめ、それを次のステップへとつなぎとめていくためには、キリスト教の義認と聖化の教えが有効な働きをする。また、自然をサクラメンタルに理解することによって、自然の多様な事物の一つひとつが、固有の主体として神の聖性を受肉しているという認識へと至る。もっとも、そのためには「この木の中に神がいる」という垂直的な視線ではなく、むしろ「神の中にこの木がある」という水平的な視線を新たに拡張する必要がある。世界は「神の体」だからである。
 最後に、この水平的な新しいサクラメント理解は、キリスト教に対し、神を語るための豊かな語彙を提供することになると彼女は語る。神を人間のメタファーによってとらえ、ただそれらに永遠や無限という属性を与えて、人間との差異化をはかってきた伝統的な方法に、彼女は人間中心主義的な限界を感じるのである。それを神表現の一部として認めることに異論はないのだが、それが他のメタファー、つまり、自然物を用いたメタファーに対して排他的に作用する必然性を彼女は認めない。神的存在の豊かさこそが、自然から引き出される多様なメタファー表現を要求するのであり、また自然はその要求に応える価値を内在しているからなのである。
 彼女が本書を通じて提示した神学的洞察は、キリスト教の自然理解を豊かにし、また、生態論的危機に対する実践的取り組みに多くの示唆を与えるであろう。エコロジーの神学ということが言われて久しいが、最近、プラグマティクな関心を越え出る思索も見られるようになってきた。例えば、ラングドン・ギルキー(Rangdon Gilkey)はNature, Reality and the Sacred (Minneapolis, 1993)において自然を「神の像」としてとらえ、やはり人間の使用目的からは独立した自然そのものの価値を論じている。また、マクフェイグが本書の中で重要視しているジェームズ・ガスタフソン(James M. Gustafson)のA Sense of the Divine (Cleveland, 1994)も、その好例であろう。さらに言うと、ガスタフソンの師であるH・リチャード・ニーバー(H. Richard Niebuhr)が「徹底的唯一神論は、死せるものへの畏敬も含んでいる。それらが生きていたことがあるからではない。それは、また、様々な存在物、非有機的なもの、また観念的なものへの畏敬も含んでいるのである」(Radical Monotheism and Western Culture, New York, 1970, p.37)と語り、早い時期から生態論的モチーフを主張していたことも、神学史的なつながりを感じさせて興味深い。
 自然という概念は文化的に様々なずれを内包している。アメリカでの議論をそのまま日本の自然理解に適用することはできないという限界も見極めなければならないが、同時に文化の違いにかかわらず人間が身体的存在であるという共通項は、自然理解に対しても何か普遍層があることを、そして共同の取り組みが可能であることを暗示してくれているようにも思う。また、豊かに解釈を加えられた自然理解をもとにして、あらためて古典的な課題、例えば自然と恩寵の関係や自然神学論争などを考察すれば、そこに新たな意味の地平を見いだすことができるのではなかろうか。