研究活動

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書評「説教者の書斎から」、『アレテイア――聖書から説教へ』No.18、日本基督教団出版局

 今や膨大な情報が猛スピードで世界を駆け巡る時代となった。好む好まないにかかわらず、わたしたちはすでにそのような時代の中に生きていることを、まず自覚しなければならないのであろう。その上で、説教者や教会が発するメッセージが情報の大波の中で、どのような意義を持ち続けるのかを考えていく必要がある。

<子どもたちの日常から>
 メッセージそのものと同時に、それを伝達するメディアへの考察を欠くことはできない。例えば、現代っ子を知り、彼らと対話するためには、ファミコンなどのテレビゲームに対する知識が必要であろう。言葉になりきらない思いを、電子メディアを利用して表現したり、解消したりするのは、現代っ子のお家芸である。香山リカ『テレビゲームと癒し』(岩波書店、一九九六年)は、子どもたちの日常生活にテレビゲームがどれほど深く浸透しているかを、豊富な臨床経験に基づいて描いている。若者の精神的未成熟や犯罪が、「現実と虚構の混乱」といったステレオタイプな原因に還元され、テレビゲームもその一因とされてきたことに対して著者は反論する。著者は、テレビゲームというメディアを共有することによって、閉ざされていた子どもの心が開かれ、癒される可能性のあることを暗示する。この書では、テレビゲームによる癒しは、あくまでも著者の仮説ということで、控えめに述べられているが、テレビゲームに限らず、これから日常生活にますます浸透してくる仮想空間の中で、どのような現実感が得られ、また癒しの実感があるのか、という問いは、きわめて宗教的な課題であると言える。
 また、電子メディアの教育的利用が近年多く試みられているが、美馬のゆり『不思議缶ネットワークの子どもたち』(ジャストシステム、一九九七年)では、そういった試みの実際を垣間見ることができる。小学生の素朴な疑問に対し、様々な専門分野の若手科学者たちがネットワークを通じて返答するという舞台設定であるが、子どもの時間軸に沿って歩むということが教育にとっていかに大切かを実感させられる。現実には、子どもは規格化された時間軸に沿って学習することを強いられている場合が圧倒的に多い。ネットワークによるコミュニケーションは、単なる利便性・効率性にとどまらない、新しい教育の可能性を示唆してくれる。連想力を駆り立てれば、こういった視点や方法が、教会あるいは教団の中で適用されたとき、どのような変化がもたらされるかを想い描くこともできるだろう。

<情報化社会に向けた宣教的視座>
 世のインターネット熱はまだ冷めそうにないが、そろそろインターネットの実態を冷ややかに眺めてみたいという人には、クリフォード・ストール『インターネットはからっぽの洞窟』(草思社、一九九七年)を薦めたい。インターネットがいかに便利で革命的かということが熱く説かれる中で、インターネットにまつわる様々な神話が生み出されていった。その神話を信じなければ、いかにも時代遅れ呼ばわりされる風潮の中で、「非神話化」の作業に興じるのは無駄なことではない。
 インターネットを含んだ、来るべき情報化社会の問題を鋭く指摘している点で、西垣通『聖なるヴァーチャル・リアリティ』(岩波書店、一九九五年)は秀逸である。著者によれば、サイバースペース(電脳空間)は人々の新たな神殿となり、そこに「聖なるもの」が顕現する。その意味で、二十一世紀は宗教の時代となることを予測するのである。さらに著者は、そのような情報化社会において、権力欲や悪がまったく新たな形で組織化される危険性があることに警告を発している。
 わたしたちは、この点に関して、いくら敏感になっても敏感になり過ぎることはないだろう。過去にあった全体主義的恐怖がまったく違った様相で起こり得る可能性があるとすれば、それを察知する感性を、どのように獲得すべきなのであろうか。少なくとも、サイバースペースを遠目に眺めるだけでは、この種の危機への責任応答性は養われないと言えるのではないか。今日の宣教のフィールドは、可視的な現実世界にとどまらず、ヴァーチャル(仮想的)な世界にまで及ぶことを思わざるを得ない。
 西垣の理解によれば、情報化社会の問題とは「ヴァーチャル」化の問題に他ならない。しかも、情報化社会の抱える難問は、ヒトが本来ヴァーチャルな生物であることに由来しているという。つまり、コンピュータなどのテクノロジーはヴァーチャル化に拍車をかけただけで、ヴァーチャルとリアルの関係性は、本来、人間の歴史にいつも付きまとってきた古典的問題なのである。とりわけ、宗教はこの両者の関係に少なからぬ洞察を加えてきた。キリスト教も例外ではない。膨大な神学的遺産の中に、ヴァーチャルとリアルの関係を問う知恵の集積を驚きをもって再発見し、現代に生かすことが可能なのである。

<人間のためのテクノロジー>
 一九三〇年にシカゴで開催された万博のスローガンは「科学が発見し、産業が応用し、人間がそれに従う」であった。このスローガンを前時代的な機械中心主義として笑い飛ばしたいところだが、実際、現代社会の趨勢はこのスローガンの方向に進んできたのではなかろうか。D・A・ノーマン『人を賢くする道具――ソフト・テクノロジーの心理学』(新曜社、一九九六年)は、人間の肉体的限界を補い、人間の可能性を拡げるはずの道具(テクノロジー)が、いかに人間に不都合なものとなってきたかを訴える。認知科学者である著者の基本スタンスは、反テクノロジーではなく、人間擁護である。人間にとって使いやすい道具とはどういうものかを考えている。著者は、テクノロジーは中立ではないと主張する。テクノロジーは、ある営みを促進すると同時に、他の営みを疎外することがあり、また、道徳や必要性とは関係のないところで社会の将来を支配するからである。現代のメディアがテクノロジーの産物であることを考えれば、これまでの文脈にこの書を位置づけることは困難ではなかろう。

<ネットワーカーとボランティア>
 ネットワーク感覚はボランティアの実践と密接な関係を持っている。金子郁容、『ボランティア――もうひとつの情報社会』(岩波新書、一九九二年)によれば、ボランティアは、まず自分から働くことで、自らを「ヴァルネラブル」(傷つきやすい、弱い)にする。しかし、「弱さの強さ」こそがボランティアの力の源であり、それは、自己開示によって批判を受けやすく、傷つきやすくなるという情報発信に内在するパラドックスにつながっているのである。
 キリスト教にとってヴァルネラビリティは「キリストの体」に集約されている。教会はボランティア精神に連動したネットワーク感覚を発揮することによって、実践的交わりの中に予期せぬ形で「キリストの体」が出現することを期待してもよいのではなかろうか。