「良心を世界に──良心を覚醒させる知の連携と知の実践」、『同志社大学広報』No.465、2015年9月30日
良心学研究センター長 小原克博
良心学研究センターは今年の4月に設立されたばかりなので、実績として示すことができるものはまだ何もありません。しかし、なぜこのセンターを作ることになったのか、また、このセンターが何を目指しているのかを語ることは、これからの同志社を広く教職員の間で考えていくための参考になるかもしれませんので、目下考えていることを以下に述べさせていただきます。
良心学研究センターの目的
本センターは、現代世界における「良心」を考察し、その応用可能性・実践可能性を探求することを通じて、学際的な研究領域として「良心学」を構築し、さらにその成果を国内外に発信し、新たな学術コミュニティを形成することを目的としています。これがウェブサイトなどで対外的に示している本センターのミッションです。学術研究を担う以上、「良心学」が特定のコミュニティの内部においてしか成り立たないものであってはならないでしょう。
英語の conscience はギリシア思想に由来する長い系譜を有しており(原義は「共に知る」)、日本では19世紀末に「良心」という定訳を与えられることになりました(初出はブリッジマン・カルバートソン訳『新約聖書』[1863年]。『孟子』から取られました)。時代や地域によって「良心」の理解や解釈の違いがあることは言うまでもありませんが、「良心」をめぐって、人間の心(意識)のあり方、人間の相互関係(社会性)、超越者(神)との関係に関心が向けられてきました。その意味では、良心は「道徳」や「倫理」、「利他主義」や「宗教」、「意識」や「認知能力」などとも隣接する概念であり、本センターにおいても、これらをキーワードにしながら、幅広く人間の精神と行動を研究していきたいと考えています。従来、「良心」をめぐる研究は人文社会系に位置づけられがちでしたが、本センターは文理の垣根を超えた研究員を擁しており、領域横断的で創造的なオンリーワン型の学際研究を目指しています。
研究と教育の連携──良心教育の実質化
同志社コミュニティにおいて「良心」が語られるとき、もっぱら良心教育と結びつけられてきましたが、良心教育の内実を問われ、返答に窮したことはないでしょうか。そもそも「良心」とは何でしょうか。私自身、これまで、これらの問いに対する急場しのぎの答えしか持ち合わせていませんでした。
高度な教育、実効性のある教育を行うためには、質の高い研究との連携が欠かせません。研究成果のエッセンスが教育に還元され、教育の場での検証が研究へとフィードバックされる循環の中でこそ、研究と教育は緊張感をともなった相乗効果を発揮します。そのような生きた循環の中に良心教育を据えるために、その対として必要なのが良心に対する研究、すなわち「良心学」であると考えています。そして、その循環が特定の学問領域だけでなく、どの専門性においても広く見られるようになったとき、文字通り、同志社大学は良心教育を行っていると言えるのではないでしょうか。
こうした目的を達成していくために、矛盾するように聞こえるかもしれませんが、本学の教育の基礎にある新島襄の思想を同志社の内部にとどめるべきではありません。同志社の理念や自校史教育の内部に位置づけられがちであった新島の思想と理念を、同志社の外に、つまり、より広い学問世界の中に積極的に位置づけていく必要があります。さらに、新島の影響を受けた思想家・社会活動家たちを再発見し、広く日本近現代史の中に位置づけることができれば、学術的な貢献となるだけでなく、同志社の歴史的ミッションを再認識することにもつながるでしょう。
原点としての新島や先駆的人物たちに立ち返りつつ、「良心」をもって現代世界が抱える問題にしっかりと向き合う。この往還運動の中で「良心」の射程を広げ、学術的・実践的な「良心の共同体」を形成していくことが、良心学研究センターに課せられた課題であると言えるでしょう。
「良心学」の教育的展開
本センターは研究を本分としますが、上述のような理由から、本センターの研究員の一部はすでに教育的実践にかかわっており、今後さらにそれを発展させていく予定です。昨年度から、複合領域科目「良心学」を開講しており(詳細については『同志社時報』No.139を参照)、来年度は、両校地合わせて三種類の専門的背景の異なる「良心学」を開講できるよう準備を進めています。また、良心学の基礎として複合領域科目「同志社の思想家たち」を新規開講する予定です。この科目を土台として、近い将来、新版の『同志社の思想家たち』(今あるのは1973年刊)を刊行する計画を立てています。既知の著名人だけではなく、「地の塩」として生きた良心の実践者たちを積極的に取りあげたいと考えています。
「良心学」の授業では、良心教育に対する学生の率直な感想を聞くことができます。私の授業で、たびたび出会う意見は「良心教育は押しつけがましいイメージを持っていたが、この授業で良心のイメージが大きく変わった」というものです。確かに、十分な説明をされずに「良心教育」と聞くと、道徳的な厳格性を求められていると感じるのも無理はありません。もちろん、新島の中にピューリタン的厳格性があったことは間違いありませんが、新島が求めた良心は人を道徳的鋳型にはめることとは正反対であると言ってよいでしょう。一言で言えば、良心教育における「良心」は倜戃不羈なる(常識に収まらない)精神と対にして、新島の冒険的・越境的人生を背景に描写されるべきだと思います。本センターが倜戃不羈なるチャレンジャー集団でありたいと願うのは、こうした事情とも関係しています。
教育理念の批判的検証
キリスト教主義、自由主義、国際主義もまた、良心教育と同じく、その内実を問われると答えに窮する「看板」です。これらのセットは戦後になってから徐々に整えられていったものなので、必ずしも不動のものとして見る必要はありません。その土台に良心教育があることを踏まえ、ラディカルに問い直し、(必要であれば)組み替える時期に来ているとすら言えます。
たとえば、海外で同志社を紹介する際、リベラリズム、インターナショナリズムという英語を出したとき、説明を加えても、誤解を受けやすい言葉であると感じたことが何度もあります。どのような言葉も、それが生まれたコンテキストを離れると誤解される可能性があるわけですが、グローバル時代においては、より普遍的に通用し、なおかつ、同志社の個性を伝えることのできる言葉が必要でしょう。
ちなみに、イスラム圏でリベラリズムというと、無神論的(かつ西洋的)なネガティブなイメージで捉えられる可能性が高く、信頼関係構築の妨げとなることに気がつきました。しかし、今の時代ほど、イスラム世界と誠実な対話をすることのできる「良心」が求められている時代はありません。同志社の起源としての良心は西洋由来のものです。その出自を超えて、非西洋圏においても通用する「良心」へと鍛え直す必要があります。私は3月まで一神教学際研究センター長として、イスラム世界との対話に尽力してきましたが、文字通り「良心の痛む」出来事が中東アラブ世界で頻発しています。価値観の異なる者に対し、武力攻撃することが当たり前となりつつある世界の中で、対立する価値観(判断)を調停する能力としての「良心」を育んでいく必要を感じています。
関心の共有──志を継ぐ
以上述べてきた課題を、できるだけ多くの方とシェアしたいと願っています。まず、良心学研究センターのウェブサイトを訪ねてください。この紙面では紹介しきれなかったこと、今後の予定、各種の動画をご覧いただけます。そして、本センターの行事(シンポジウム等)にぜひ一度顔を出してみてください。良心学は志あるすべての人に開かれています。
(こはら・かつひろ)