「愛国心含め 議論深化を」(「60歳の憲法と私」)、『朝日新聞』2008年5月1日、朝刊
憲法9条と愛国心をめぐる議論は、複雑に絡み合ってきた。たとえば教育基本法の改定の際には、「愛国心条項」を盛り込むかどうかで推進派と批判派が鋭く対立した。
「愛国心を持つことは当たり前」とした推進派と、国家主導の愛国心導入を恐れた批判派は、おおむね9条の改定派と護憲派に対応している。
愛国心の源泉の一つは、天皇の地位を定めた憲法1条だろう。1条と9条は、かつて一体のものだった。大日本帝国憲法には11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と記されており、戦時中のナショナリズムとミリタリズムは天皇を共通基盤としていた。
戦後、天皇制と軍事に関する事柄を、政教分離さながら1条と9条とに分割したのである。
9条を守ろうとする人の中には、1条の精神や歴史性に無関心であったり、さらには天皇制批判をしたりする人が少なくない。かつて私もそうだった。これが、護憲派と改憲派の対立を固定化する一因となっている。
愛国心を語ることは9条の精神を骨抜きにし、軍国主義を再来させるのだろうか。熱烈な愛国者であったキリスト教思想家・内村鑑三が、かつて、妥協なき非戦論を展開したのは単なる例外に過ぎなかったのだろうか。
9条や憲法前文には、宗教的と言ってもよいほどの高い理想が記されている。平和の希求、武力の放棄は、暴力がまかりとおる世界に対する、文明論的な「異議申し立て」とすら言える。
しかし、護憲イデオロギーの理念的な「堅さ」に多くの若者がおじけづいてしまっている。無理をせずに安心できる居場所を得たいという若者たちの気持ちは日常感覚に根ざしており、国への愛慕もその一つだろう。
高邁(こう・まい)な理想を示す9条もすばらしいが、誇り高き愛国者によって戦争放棄のすそ野が広げられていくような9条の姿をも夢想する。9条の防壁を高め、その理念を純化することを過度に求めるより、異質な要素を取り入れ、全体の免疫力を高める方がいい。対立が議論の深化を生み出さないとすれば悲劇である。