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「日本人の知らない〈政教分離〉の多様性――宗教との向き合い方は永遠の課題」、『論座』(朝日新聞社)2001年10月号

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「靖国騒動」のあとに

日本人の知らない〈政教分離〉の多様性

宗教との向き合い方は永遠の課題

 〈政教分離〉の意味・意義は先進国の中でも揺れており、しばしば論争の的にもなっている。それは一定普遍の意味をもつ概念であるというよりは、それとの向き合い方で国のかたちが定まるという意味で、近代社会が抱えた永遠の〈課題〉であり続けている。諸外国における多様な姿を素描する。

外来概念としての政教分離

 小泉首相の靖国神社参拝問題をめぐり、〈政教分離〉という言葉がメディアの中で一種の流行語のようにもてはやされた。しかし管見では、中曽根元首相の靖国公式参拝以来、さまざまな論点が提示されるばかりで、議論はいっこうに収斂点を見いだせていない。それにはいくつか原因が考えられるであろうが、その根本に、「政教分離」が抱える歴史的背景に対するる日本人の認識不足があるように私には思える。
 政教分離は近代国家の多くが備えている原則である。しかし、その原則が指し示している内容は必ずしも自明ではなく、歴史的地域的事情によりさまざまなバリエーションがある。ところがそのことが十分に自覚されないまま、宗教に関連した問題に対し、無前提に政教分離という概念を当てはめる言説がわが国では少なくない。たとえば、靖国神社公式参拝をめぐる問題と、公明党と創価学会の関係をめぐる問題が、政教分離の名のもとに一からげに論じられており、その理解に誤解と混乱が生じているのが一例である。
 日本においては、第二次大戦前は神道が国教的な扱いを受けていたが、敗戦後GHQのいわゆる「神道指令」(一九四五年十二月十五日)によって、神道は国家から分離され、他の宗教と同一平面上に置かれる一宗教として位置づけられた。日本国憲法第二〇条はこうした歴史を反映している。
 日本はこのようにして、事実上の国教体制から政教分離へと一夜にして移行したわけであるが、そのプロセスを欧米の多くの国家は何百年という月日をかけて行ってきた。実際、各国における政教分離の理解や運用は、それぞれの歴史との関係から、実に多様である。そして、長い年月を経て検証・修正されながら形成されてきた政教分離は、どの国においても、多かれ少なかれ「妥協の産物」であると言える。しかし、血で血を洗うような争いの愚を終息させ、激しい主張の対立を対話へ向かわせるための知恵がそこには凝縮されている。

米国における「教会と国家の分離」

 日本国憲法における「政教分離」は米国から直接の影響を受けているが、政教分離は英語ではSeparation of Church and State(教会と国家の分離)であって、Separation of Religion and State(宗教と国家の分離)ではない。米国の事情に即して言い換えれば、それは特定教会・教派と国家の分離であって、キリスト教と国家の分離ではないのである。
 すなわち、国家が特定の教会や教派のために公金を使ったり、特定の教会・教派の信者を就職・参政権などで優遇することは憲法違反であるが、宗教が政治に関与することは何ら問題ではない。むしろ、多様な教会的伝統が国家形成に積極的に参与できるよう、特定の教派が突出した政治権力を行使できない枠組みを用意するという点に重点が置かれている。したがって、米国的な政教分離理解に立つ限り、特定の宗教が政治活動に参画することに違憲性はない(先の創価学会の政治参加もこの例)。
 政教分離原則は合衆国憲法修正第一条(一七九一年)に定められている。「連邦議会は、国教の樹立(establishment of religion)を規定し、もしくは信教の自由な行為(free exercise thereof [=of religion])を禁止する法律を・・・・制定することはできない」。米国に限らず、政教分離の原則は、国教制度および、それがもたらす宗教的不寛容に対する抵抗の結果、得られたものである。米国は国教制度を憲法によって否定した世界史上最初の国であるが、その背景には植民地時代、宗教的不寛容によって引き起こされた経験への反省がある。
 そもそも、建国の父たちは英国における宗教弾圧を逃れ、信教の自由を求めて新天地へと渡ったのであった。後に形成された植民地では、それぞれに国教会制度や公認教会制度がしかれた。たとえば、マサチューセッツでは会衆派教会、バージニアでは英国国教会という具合に、ヨーロッパの教派が新大陸にも持ち込まれ、時として、公認教会以外の教派に対し、激しい差別と弾圧とが行われたのであった。したがって、多様な教派的背景を持った植民地を束ねて一つの連邦国家を建設するためには、政教分離を導入せざるを得なかったし、また、各教派からすれば、国家からの不当な介入を避けたいという願望が政教分離によってかなえられたのである。

「見えざる国教」としてのキリスト教

 しかし、ここには一つの留保が必要である。これまで自明のごとく「宗教」という言葉を用いてきたが、その意味解釈こそが、各国における政教分離をめぐる論争や裁判の焦点となっている。解釈の難しさは主として次の二つに起因する。一つは宗教の「私的領域」と「公的領域」の区別であり、もう一つは宗教概念の歴史的変遷である。
 宗教を単に個人の内面的な事柄と理解するだけであるなら、信教の自由が保障されれば、問題の多くはカバーされる。しかし、政教分離における問題の多くは、宗教が公的領域にまで及んでいること、言い換えるなら、政治そのものが宗教的次元を持っていることに関係している。
 アメリカの宗教社会学者ロバート・N・ベラーはそうした構造を先駆的に指摘し、多民族国家アメリカを統合している価値の体系を「市民宗教」(civil religion)と名づけた(『社会変革と宗教倫理』未来社)。森孝一氏(同志社大学教授)がそれを「見えざる国教」と言い換えていることにも示唆されているように(『宗教からよむ「アメリカ」』講談社選書メチエ)、市民宗教には国教に近似した機能が内在している。
 個人の信仰や具体的な宗教組織に目を奪われ、こうした宗教の公的次元を見落としてしまうと、厳格に政教分離の原則を定めている米国において、なぜ大統領就任式や国葬など主要な国家儀式がすべてキリスト教式で行われ、また裁判所にはモーセの十戒が掲げられているのか、ということが理解できなくなる。政教分離の原則と「見えざる国教」とはそもそも矛盾関係にあると言えるが、両者の間の不即不離の緊張関係が米国社会の活力源ともなっているのである。
 宗教の私的領域と公的領域の区分をめぐる問いは、日本に対しても向けられるべきだろう。日本人一般の宗教性をキリスト教のような一神教的宗教概念を基準にして測ることができないことは繰り返し言われてきた。しかし、少なくとも戦前の日本の政教関係は国教制度にきわめて近いものであった。また、欧米的統治システムを模するために、本来多神教的な伝統的神道の中に、至高の現人神を中核に据えた強力な一神教的システムを導入した。そこでは、天皇と天皇制によって象徴される権威と聖性のパラダイム、万世一系の神話、また国家に忠義を尽くして亡くなった者の死後生などが「現人神」のもと「見える国教」の中で儀礼的表現を見いだしていた。
 GHQによる戦後処理は、そうした体系のすべてを解体したのであろうか。あるいは、その価値体系は「見えざる国教」に姿を変えて、現在の日本社会に受け継がれているのであろうか--こうした疑問に明確な解答を与える材料が十分提供されていない点に、靖国問題をめぐる議論がいっこうに深まらない原因の一端を見ることができる。

「宗教」概念の歴史的変遷

 次に、「宗教」という言葉の歴史的変遷を、必要な範囲で概観してみたい。英語のreligionやそれに対応する西欧語は、ラテン語のreligio(結びつけるという原義を持つ)に由来しており、基本的にキリスト教文化圏を背景にしている。また、日本語の「宗教」は元来、仏教の用語として用いられていたが、明治初期にreligionの訳語とされてから、その用語法が今日に受け継がれている。したがって、宗教という言葉の変遷を知るために、まずキリスト教の歴史に目を向けてみる。
 キリスト教は、ローマ帝国が支配する辺境の植民地から発生した、いわば「田舎宗教」として始まった。正確に言うなら、最初期の集団には自分たちが一つの「宗教」を形成しているという自覚はまったくなかった。なぜなら、後にキリスト教と呼ばれる信仰共同体は、最初、ユダヤ教の一分派として活動していたからである。もともとパレスチナ地方にルーツを持つ彼らの活動は、パウロのような宣教者たちの働きにより、ボスポラス海峡を越え、ヨーロツパヘと版図を広げていく。そうした展開の中で、イエスの弟子集団はユダヤ教との連続性を残しつつも、次第にユダヤ教とは独立した組織を形作っていった。
 ローマ帝国の支配下にあって皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒は長い間、迫害の対象とされたが、三一三年、コンスタンティヌス帝によりキリスト教は公認宗教とされ、三九二年、テオドシウス帝によって国教とされるに至る。こうした経緯を経て、ヨーロッパは「キリスト教世界」としての性格を強めていくが、その際、「宗教」が指す対象は中世に至るまでは、基本的にローマ・カトリック以外はなかった。
 宗教改革以降、プロテスタント諸派が現れることによって「宗教」の意味内容が重層的になってくる。しかし、まだ一般民衆にとって「宗教」は選択できるものではなかった。宗教改革はしばしば「信教の自由」を求める戦いとして理解されがちであるが、それによって生じたドイツの領邦教会制のもとでは、民衆は領主が選んだ宗教を受け入れるほかなかった。また、ジュネーブにおいてカルヴァンによってなされた神聖政治では、カトリック信者は異端者として弾圧を受けた。こうした事態は、フランスではユグノー戦争(一五六二~九八年、カトリックとカルヴァン派)、英国ではピューリタン革命(一六四二~六〇年、英国国教会とピューリタン[主としてカルヴァン派])においても繰り返され、また先に述べたように、その惨劇は新天地アメリカにおいても再現された。政教分離の背景に、自由を求める人間の切実さだけでなく、いかに人間が狂気と暴力から自由になり難い存在であるか、を見ておく必要がある。

宗教多元社会化のインパクト

 米国における政教分離原則の確立の背景となった宗教紛争は、すべてキリスト教内部の争いであった(十字軍遠征など、イスラムとの戦いは政教分離とは問題の質が異なる)。それゆえ、「教会と国家の分離」における「教会」とは、当然「キリスト教会」のことであり、それがまた「宗教」のすべてであった。しかし今日、「宗教」がキリスト教の各教派を包括するだけではもはや十分ではない。政教分離原則の制定当時には想像すらされなかったことであるが、今や、イスラム教、仏教、ヒンズー教など、キリスト教以外の伝統宗教が多数、欧米社会において根を下ろしている。また、新宗教やカルト宗教なども活発に伝道活動を行っている。欧米社会のほとんどが宗教多元社会に移行しているのである。ただし、その歴史的前提にキリスト教世界の「世俗化」があることを見過ごすことはできない。
 世俗化(secularization)は一般的に、宗教が社会や文化の中心的存在から周辺的存在へと変化していくプロセスとして理解されているが、もともとこの言葉は、宗教改革の時代に、教会の財産(土地や建物など)を行政に譲渡することを指して用いられ始めた。そこから、土地などが教会の支配から解放されるのと同様に、社会や文化が教会権力から解放され、キリスト教の影響が次第に減退していく現象を広く世俗化と呼ぶようになった。十七世紀以来、スウェーデンで国教の地位を保持してきたルター派のスウェーデン教会が、二〇〇〇年一月一日から政府との関係を断ち、他の教派と同じ扱いを受けることになったことなども、世俗化の今日的一例である。
 また、世俗化をめぐる攻防は西欧社会だけでなく、今やイスラム圏でも大きな問題となっている。建国以来の国是である政教分離・世俗主義を堅持しようとする勢力と、社会のイスラム化を求める宗教勢力とが拮抗しているトルコは、その典型例と言えるだろう。

広義と狭義の政教分離

 政教分離は、その分離の質と程度によって、広義の政教分離と狭義の政教分離に分けられる。広義では、祭政一致(宗教的理念が政治を統御する)は拒否されるものの、宗教的慣習など宗教の公的領域は容認される。それに対し狭義では、宗教の公的領域に対しても厳格な中立性が要求される。たとえば、英国は国教会制度をとっているので、狭義に理解すれば英国に政教分離は存在しないが、広義では政教分離があると言える。また、狭義の政教分離は友好的分離と敵対的分離に分けられ、それぞれの代表例として米国とフランスがあげられてきた。完全な類型化はできないにせよ、政教分離という言葉を用いる際に、広義か狭義かに関しては、可能な限り自覚的である必要がある。この自覚は日本での政教分離の議論の際、しばしばご都合主義にかき消され、そのことが議論の収束が得られない一因となっている。
 以下では政教分離の観点から論争に発展しやすい教育問題に的を絞って、具体的な事例をいくつか取り上げてみる。まず敵対分離に分類されているフランスを取り上げ、その次に広義と狭義の中間に位置するドイツを取り上げ、最後に、友好的分離の米国について言及したい。

フランスの例
 フランスでは、一七九〇年以降、国民議会が、教会財産の没収や修道院の廃止など、カトリックに対する徹底した弾圧を行い、国家の非キリスト教化を進めた。フランス憲法第二条には「フランスは不可分にして、非宗教的、民主的、社会的な共和国である」とあり、「非宗教」(ライシテ)の原則が政治の場だけでなく、公教育においても守られてきた。
 一九八九年、イスラム教徒の女子生徒がヒジャーブ(ベール)を着用して登校してきたことが、フランス教育界を揺るがす大きな議論となった。これは、イスラム教を背景に持つ移民たちの間に、自らの宗教的アイデンティティーの確認と連動した宗教回帰現象が興隆してきたことを示す象徴的な出来事であった。
 従来、公教育の場へ宗教性を持ち込むことをライシテの原則から厳格に禁止してきたフランス政府は、ライシテの原則と表現の自由の原則の間で板挟みになりながら、一九九四年、ようやく結論を出すに至った。すなわち、極端に目立つものでなく、改宗の呼びかけを目的にしていなければ、ヒジャーブを含む宗教的シンボルの着用を認める、としたのである。
 ライシテの原則を適用する際に、「宗教」を「キリスト教」と同一視できた時代であれば、これほどまでに問題は大きくならなかっただろう。しかし、イスラム教徒の側から出された、ヒジャーブ着用が認められないなら、同様に十字架やキッパ(ユダヤ教男性が頭部にのせる丸い布)の着用も禁止せよ、という批判の前で、ライシテに基づく政教分離の原則は有効な反論をすることができなかった。宗教多元社会が到来する中で、キリスト教世界において前提とされてきた原則が、その根拠を問い直されているのである。

ドイツの例

 連邦国家であるドイツでは、教育制度は基本的に各州に任せられている。ドイツ基本法第七条第三項には「宗教教育は、公立学校においては、宗教に関係のない学校をのぞいて、正規の教科目である。宗教教育は、国の監督権をさまたげることなく、宗教団体の教義にしたがって行われる」と記されており、通常、宗教教育は、カトリック教会およびプロテスタント教会の指導のもとでなされている。カトリックとプロテスタントの授業のほか、どちらも受けたくない生徒には「倫理」の授業も認めている。さらに、ドイツ国内に三百万人いると言われているイスラム教徒の子どもの宗教教育をどのように行うべきか、ということも大きな課題となっている。
 カトリックの勢力が強いドイツ南部のバイエルン州では、教室に十字架が掛けられている。それに対し、ある親から、公立学校に十字架を掲げるのは信教の自由に反するという訴えが出され、最終的に一九九七年、連邦憲法裁判所から違憲判決が出された。しかし、バイエルン州は、それを州レベルの問題として異議を唱え、現在も教室に十字架を掲げ続けている。バイエルン州の場合には、カトリック信仰が歴史的・文化的アイデンティティーのかなめとなっており、それが政教分離原則より優先されているのである。
 しかし、ドイツ全体を見ると、世俗化の波はとどめようもなく押し寄せてきている。たとえば、教会税(カトリックあるいはプロテスタントであることを申告している者の所得から天引きされる)の是非や、閉店法の緩和(一九九六年、閉店時間は月曜日から金曜日までの午後六時半が午後八時に、土曜日の午後二時が午後四時まで延長された。日曜営業は原則的に禁止)をめぐる議論が活発に続けられている。これらは直接的には政教分離問題ではないが、EU統合時代における国家と宗教のあり方に根本的な問いを投げかけている。

アメリカの例

 テキサス州の公立高校で、フットボールの試合の開始前に伝統的に行っていた生徒代表の祈りに対し、反対する生徒や親が違憲訴訟を起こしていたが、連邦最高裁は二〇〇〇年六月十九日、憲法修正第一条に反するとして違憲判決を下した。最高裁は一九六二年、州によって作成された祈りを教室で朗唱することを違憲と判断し(エンジェル事件)、一九九二年には公立学校の卒業式で牧師が祈りをささげることも違憲としていただけに、今回、生徒による「自発的な祈り」に対する判決に全米の注目が集まっていた。
 判決の結果は、政教分離を厳格に適用する従来の路線の踏襲として理解できるが、同時に、学校での祈りの復活を求める草の根的な運動(宗教右派が先導していることが多い)が広がっていることも無視することはできない。判決は大統領選挙のさなかに出されたが、当時のブッシュ候補が判決に「失望した」と述べ、ゴア候補が「正しい決定だ」と判決を支持した点においても、「見えざる国教」と政教分離原則の間で揺れ動く米国のナショナル・アイデンティティーをかいま見ることができる。
 なお、ブッシュ氏は大統領就任直後、宗教団体の社会福祉活動に補助金を出す方針を表明し、違憲性の懸念が出される中、それが政教分離に抵触しないことを強調している。この件は、従来の厳格な政教分離論に対する保守派の不満を代弁したものと理解することもできるだろう。いずれにせよ、こうしたせめぎあいの中で政教分離の境界設定がなされていく点に、米国の民主主義のリアリティーを見ることができる。

政教分離崩壊の舞台装置

 これまで政教分離がいかに形成され運用されているかを見てきたが、政教分離が崩壊していく場合についても歴史的・思想的背景を一瞥しておきたい。政教分離が崩壊する場合、国家が疑似宗教的な力を手に入れ、ナショナリズムを拡張するという典型的パターンが認められる。第二次世界大戦下の日本やドイツの例を引くまでもないだろう(ドイツの事例は次の書がわかりやすい。小岸昭『世俗宗教としてのナチズム』ちくま新書)。
 その際、疑似宗教的力の中核にはしばしば何らかの「終末思想」が潜在している。人の生の「終わり」や世界や歴史の「終わり」を主題としてきた終末思想は、たとえば西欧の歴史の中では、個の確立や人格概念の形成を促したというポジティブな評価も得ているが、それが国家主義にからめとられるとき破壊的な力を生み出していく。
 本来終末思想は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教といった一神教的伝統と密接な関係を持っているが、皮肉なことに、戦前の日本が西欧の一神教的統治システムを導入した際、終末思想のネガティブな側面をも引き継いだ。大東亜共栄圏において、西欧文明に毒された「古い世界」を放逐し、日本精神を中心とする「新しい世界」を招来させようとした皇国的情熱には、西欧の終末思想(千年王国思想)との奇妙な共振関係を見ることができるのである。

市民社会再形成のカギ

 以上見てきたように、世俗化や宗教の多元化が進行し、また国家概念そのものが大きく変動しつつある時代において、政教分離の原則を形式的に適用して問題解決を図れる国家など、地球上に一つとして存在し得ないと言えるだろう。欧米の歴史では、信仰や宗教を個人が選び取ることのできるような制度を追求していく中で、近代的な人権思想や個人主義が成立してきた。民主主義という意思決定のための「手続き」の重要性に対する認識も、こうした歴史と深くかかわりあっている。
 政教分離をめぐる問題群は、今日の多層的な宗教のあり方への洞察を要求するだけでなく、多民族・多文化を包摂できる国家形成がもはや不可避であることを明瞭に語ってくれている。その意味では、これらの問題群はその解決を為政者に任せておくべき性質の問題ではない。むしろ、これらの課題は、われわれが自分たちの社会をどのような原則に基づいて形成していくかを考える一つのチャンスを提供してくれているのではないだろうか。