「同性愛、中絶、不倫......米キリスト教会と『多様な性』」、『論座』(朝日新聞社)2001年6月号
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性への関心や性の営みは人類に普遍的な現象であると言ってよい。しかし、性にかかわる多様な情動をいかに日常生活の中で安定させるかについては、実に様々な知恵が用いられてきた。つまり、それぞれの文化の中には、性のエネルギーを時には解放し、時には抑制するといったメカニズムが固有の形で内包されている。近代以降、市民生活における性的振る舞いはしばしば法的規制の対象ともなってきたが、人類史の長きにわたって、性のあり方に対し甚大な影響力を行使してきたのは宗教であった。
ここでは、そういった経緯の現代的展開を素描してみたいのであるが、性にまつわる事柄が現象化しやすい文化圏と、現象化しにくい文化圏があることは論をまたない。性に関するテーマが多様に現象化している国の筆頭は米国であろう。また、米国文化の影響を受けている国々の中にも、同様の現象を生み出す種子がすでに胚胎されているに違いない。米国における近年の事例を取り上げながら、性をめぐってどのような言説と行為が紡ぎ出されてきているかを見てみたい。
「モニカ・スキャンダル」と教会
一九九八年、クリントン大統領(当時)とモニカ・ルインスキーさんとのセックス・スキャンダルが世界中の話題となった。スター独立検察官による報告書(スター・リポート)を通じて、大統領の性行動が実に赤裸々に世に知られることになったが、それは不倫疑惑の真相を究明しようとする米国民の倫理観をも代弁したものであった。ポルノ小説を凌駕するような生々しい性的描写がちりばめられたスター・リポートは、米国社会の俗物性に由来するのではない。むしろそれは、米国の精神的ルーツとしてのピューリタン的禁欲との対比を想起させるのに十分な演出効果を持っていた。つまり、禁酒・禁煙だけでなく性的貞節をも尊ぶピューリタン的伝統が、時代による変容を経ながらも、一国の倫理規範の礎石となっていることを、この事件は感じさせてくれたのであった。
ところが同時に、この事件に対するキリスト教各派の反応は、その倫理規範が多様化していることをも示していた。キリスト教の保守派は「大統領は神と国民の前で大罪を犯した」といった論調で、激しく辞任を要求した。それは偽証や姦淫を強く戒めるモーセの十戒に由来する聖書的倫理観に裏打ちされている。それに対し、キリスト教の自由派は、人間の弱さを認め、大統領とその家族に対し「静かな支援」をするよう呼びかけた。そこではプライバシーの保護をも含む人権思想の影響がうかがえる。同性愛者や妊娠中絶に対して理解を示すクリントン大統領に対し、普段から批判的感情を抱いていた保守派が勢いづいたことは自然な帰結であったが、大統領の行為の是非とは別に、そういった保守派の流れとは意図的に一線を画する層があったことも、性理解の多様性を映し出していた。
一九九九年三月、米ABCテレビでルインスキーさんのインタビューが放送されたが、その中でなされた次の発言は、宗教が個人の性理解に及ぼす影響を端的に語っている。
「大統領は小さい時の宗教的しつけから、自分の性的欲求を正しいと思えず、格闘していた。自分を抑えようとするのだけれど、できなくなってしまう」。
彼女の分析の正否はともかく、宗教が性を抑圧する機能を果たしてきたという見解は今や広く共有されている。この事実への反省なしに、どのような宗教も性に対する責任ある発言をすることはできないだろう。
しかしまた、特に六〇年代以降、性の問題と正面から向き合うことが宗教のアカウンタビリティーとして求められてきており、性の多様なあり方を積極的にサポートする動きも着実に現れてきている。いずれにせよ、このセックス・スキャンダルを通じて、大統領といえども、人間は徹底して「性的な存在」であるということが広く認知されたのである。
妊娠中絶論争
政界および宗教界の保守派と自由派の間で、長い間論争の火種となってきたものの一つに妊娠中絶問題がある。女性解放運動が高まる中、一九七三年、「ロウ対ウェイド判決」において連邦最高裁判所は妊娠三ヵ月以内の中絶を合法化する判決を下した。しかし、この判決で論争がおさまるどころか、さらに論争の輪を広げて今日に至っている。
この論争は大きく二つの陣営に区分して考えることができる。すなわち、人間の生命は受胎の瞬間に始まり、中絶は殺人であるとするプロ・ライフ派と、産む産まないは女性の権利であるとするプロ・チョイス派である。胎児の人格性が受精の瞬間から始まるという考え方は、カトリックの中で一九世紀頃に確立する。しかし、すでにアウグスティヌスの時代(四~五世紀)から、セックスは出産を目的とする限りにおいて肯定されるという考え方が受け継がれてきており、中絶はセックスの唯一の目的を阻むがゆえに罪深い行為とされてきた経緯がある。もっとも、カトリックの場合でも、個々の信者にはプロ・チョイス派に同調する人が少なくない。
一九八九年に設立された政治団体「キリスト教徒連合」はプロ・ライフ派の代表的存在であるが、家族の重要性、生命の尊厳を強調し、全米の保守派クリスチャンを多数擁している。そこでは中絶は神を冒涜するものとして厳しく批判されている。一般的にプロ・ライフ派団体が、性のあり方を評価するための重要な価値規範としているのが家族理解である。つまり、彼らが求めている古き良き家族像(たとえば、たくましい父、従順な母、子どもたち)に適合する性理解は正しく、それに反する性理解は拒絶されるのである。したがって、保守派(宗教右派)が妊娠中絶と同様に、あるいはそれ以上の力を込めて批判の矛先を向けている対象に同性愛があるということは、少なくとも彼らの論理の中では一貫性を有している。
二〇〇〇年九月、米食品医薬品局(FDA)が「飲む中絶薬」と呼ばれているRU―486の使用を認可したことは、大統領選挙のさなか中絶論争に油を注ぐことになった。保守派票を意識したブッシュ候補(当時)が即座にその認可決定を批判したことは言うまでもない。また、中絶反対グループの一つ「アメリカン・ライフ連盟」のジュディー・ブラウン氏は次のように語った。「われわれは薬品による化学的な妊娠中絶を通して罪のない人々を破壊することを認めるFDAの決定を許すわけにはいかない」。
ここで彼女が「罪のない人々」と呼んでいるのは着床前の受精卵のことである。彼女の発言を笑い飛ばすことは簡単である。しかしむしろその前に、女性の子宮内にまで飛翔している彼の想像力の源泉が、米国社会の活力の一つでもあることを理解しておくべきであろう。
同性愛者の聖職者を認めた教会も
この数年、米国の主流派プロテスタント教会の中で同性愛者の位置づけをめぐる議論ほど、熾烈を極めた論争はなかったと言える。たとえば、今年三月には米国長老教会(信者数約二百七十万人)で同性愛者の「結合」(ユニオン――男女の「結婚」と区別してこのように呼ぶことが多い)の執行を禁止する提案が出されたが、結果的に反対票が賛成票を上回り、この提案は破棄され、結合執行の賛成派と反対派の議論は継続中である。
同性愛に関する理解が深まりつつある米国においても、教会は次のような事項に関しての態度決定を一つひとつ確認しながら、より包括的な理解へと議論を進めている。
(1)教会は同性愛者の市民権を擁護すべきか。(2)同性愛者は教会のメンバーになることができるか。(3)同性愛キリスト者が同性愛的ライフスタイルを維持することは適切か。(4)教会は同性愛者の結合を祝福すべきか。(5)同性愛キリスト者は自らの性的指向を変えるよう努力すべきか。(6)同性愛者は按手(聖職者としての任用)の対象となるのか。
特に最後の「同性愛者の按手」に関しては道のりが険しく、教派としてそれを認めているのは、自由派の代表格、合同キリスト教会(信者数約百五十万人)だけである。同派では七〇年代から同性愛者の聖職者が存在していた。また一九六八年には、同性愛者であるという理由である教派から除籍されていたトロイ・ペリーが、メトロポリタン・コミュニティ教会を設立している。同教会は同性愛者のクリスチャンが自由に礼拝をできる場を提供するだけでなく、エイズ問題にも積極的に取り組み、現在では世界十七カ国にブランチを持ち、三万二千人もの信徒を擁している。
このように同性愛者を取り巻く状況は一見順調に前進しているようであるが、まるで振り子の揺り戻しのように、このような動きに対する強烈な反動もある。言うまでもなく、宗教右派がその急先鋒である。
彼らの理解によれば、同性愛者の存在は伝統的な家族構造を破壊するだけでなく、神の怒りを招く結果、国家の滅亡さえもたらすのである。こうした激しい対立関係を含みながらも、性の多様性は具体的な焦点を与えられながら、確実に議論の蓄積を増してきている。性差別を温存・助長するような聖書の表現を徹底して見直そうとする「包含的言語」(たとえば、神への呼びかけを「父」ではなく「父母」とする)による聖書翻訳もその一例である。
日本の性を支えるのは?
以上見てきたような米国における事情や取り組みから、われわれは何を学ぶべきであろうか。日本の場合、米国におけるキリスト教のように、性の問題を顕在化させ、社会で共有できるような働きを果たしている宗教は見あたらない。また、宗教性そのものが潜在化している。しかし、このような文化的様相の上に米国文化が覆いかぶさることによって、現象的には性の多様性を享受しているかのように見えている。たとえば、若い世代は性の自己決定権を当然の権利として行使している。
しかし、われわれは性のエネルギーを適度に解放したり、抑制したりする技法を自らの言語として修得しているのであろうか。米国においては、保守派であれ、自由派であれ、性と生の固有の関係を絶えず自分たちの言葉で言語化する努力がなされてきた。その作業がまた、私的な内面世界と外的世界との間の往復運動を活性化し、性と生と聖が出会う地平を多層に開いていっている。
個が孤立せず、また社会が画一性へと陥らないためにも、性が持つ豊饒なエネルギーを大胆かつ繊細に用いる知恵が今、求められているのではなかろうか。
性への関心や性の営みは人類に普遍的な現象であると言ってよい。しかし、性にかかわる多様な情動をいかに日常生活の中で安定させるかについては、実に様々な知恵が用いられてきた。つまり、それぞれの文化の中には、性のエネルギーを時には解放し、時には抑制するといったメカニズムが固有の形で内包されている。近代以降、市民生活における性的振る舞いはしばしば法的規制の対象ともなってきたが、人類史の長きにわたって、性のあり方に対し甚大な影響力を行使してきたのは宗教であった。
ここでは、そういった経緯の現代的展開を素描してみたいのであるが、性にまつわる事柄が現象化しやすい文化圏と、現象化しにくい文化圏があることは論をまたない。性に関するテーマが多様に現象化している国の筆頭は米国であろう。また、米国文化の影響を受けている国々の中にも、同様の現象を生み出す種子がすでに胚胎されているに違いない。米国における近年の事例を取り上げながら、性をめぐってどのような言説と行為が紡ぎ出されてきているかを見てみたい。
「モニカ・スキャンダル」と教会
一九九八年、クリントン大統領(当時)とモニカ・ルインスキーさんとのセックス・スキャンダルが世界中の話題となった。スター独立検察官による報告書(スター・リポート)を通じて、大統領の性行動が実に赤裸々に世に知られることになったが、それは不倫疑惑の真相を究明しようとする米国民の倫理観をも代弁したものであった。ポルノ小説を凌駕するような生々しい性的描写がちりばめられたスター・リポートは、米国社会の俗物性に由来するのではない。むしろそれは、米国の精神的ルーツとしてのピューリタン的禁欲との対比を想起させるのに十分な演出効果を持っていた。つまり、禁酒・禁煙だけでなく性的貞節をも尊ぶピューリタン的伝統が、時代による変容を経ながらも、一国の倫理規範の礎石となっていることを、この事件は感じさせてくれたのであった。
ところが同時に、この事件に対するキリスト教各派の反応は、その倫理規範が多様化していることをも示していた。キリスト教の保守派は「大統領は神と国民の前で大罪を犯した」といった論調で、激しく辞任を要求した。それは偽証や姦淫を強く戒めるモーセの十戒に由来する聖書的倫理観に裏打ちされている。それに対し、キリスト教の自由派は、人間の弱さを認め、大統領とその家族に対し「静かな支援」をするよう呼びかけた。そこではプライバシーの保護をも含む人権思想の影響がうかがえる。同性愛者や妊娠中絶に対して理解を示すクリントン大統領に対し、普段から批判的感情を抱いていた保守派が勢いづいたことは自然な帰結であったが、大統領の行為の是非とは別に、そういった保守派の流れとは意図的に一線を画する層があったことも、性理解の多様性を映し出していた。
一九九九年三月、米ABCテレビでルインスキーさんのインタビューが放送されたが、その中でなされた次の発言は、宗教が個人の性理解に及ぼす影響を端的に語っている。
「大統領は小さい時の宗教的しつけから、自分の性的欲求を正しいと思えず、格闘していた。自分を抑えようとするのだけれど、できなくなってしまう」。
彼女の分析の正否はともかく、宗教が性を抑圧する機能を果たしてきたという見解は今や広く共有されている。この事実への反省なしに、どのような宗教も性に対する責任ある発言をすることはできないだろう。
しかしまた、特に六〇年代以降、性の問題と正面から向き合うことが宗教のアカウンタビリティーとして求められてきており、性の多様なあり方を積極的にサポートする動きも着実に現れてきている。いずれにせよ、このセックス・スキャンダルを通じて、大統領といえども、人間は徹底して「性的な存在」であるということが広く認知されたのである。
妊娠中絶論争
政界および宗教界の保守派と自由派の間で、長い間論争の火種となってきたものの一つに妊娠中絶問題がある。女性解放運動が高まる中、一九七三年、「ロウ対ウェイド判決」において連邦最高裁判所は妊娠三ヵ月以内の中絶を合法化する判決を下した。しかし、この判決で論争がおさまるどころか、さらに論争の輪を広げて今日に至っている。
この論争は大きく二つの陣営に区分して考えることができる。すなわち、人間の生命は受胎の瞬間に始まり、中絶は殺人であるとするプロ・ライフ派と、産む産まないは女性の権利であるとするプロ・チョイス派である。胎児の人格性が受精の瞬間から始まるという考え方は、カトリックの中で一九世紀頃に確立する。しかし、すでにアウグスティヌスの時代(四~五世紀)から、セックスは出産を目的とする限りにおいて肯定されるという考え方が受け継がれてきており、中絶はセックスの唯一の目的を阻むがゆえに罪深い行為とされてきた経緯がある。もっとも、カトリックの場合でも、個々の信者にはプロ・チョイス派に同調する人が少なくない。
一九八九年に設立された政治団体「キリスト教徒連合」はプロ・ライフ派の代表的存在であるが、家族の重要性、生命の尊厳を強調し、全米の保守派クリスチャンを多数擁している。そこでは中絶は神を冒涜するものとして厳しく批判されている。一般的にプロ・ライフ派団体が、性のあり方を評価するための重要な価値規範としているのが家族理解である。つまり、彼らが求めている古き良き家族像(たとえば、たくましい父、従順な母、子どもたち)に適合する性理解は正しく、それに反する性理解は拒絶されるのである。したがって、保守派(宗教右派)が妊娠中絶と同様に、あるいはそれ以上の力を込めて批判の矛先を向けている対象に同性愛があるということは、少なくとも彼らの論理の中では一貫性を有している。
二〇〇〇年九月、米食品医薬品局(FDA)が「飲む中絶薬」と呼ばれているRU―486の使用を認可したことは、大統領選挙のさなか中絶論争に油を注ぐことになった。保守派票を意識したブッシュ候補(当時)が即座にその認可決定を批判したことは言うまでもない。また、中絶反対グループの一つ「アメリカン・ライフ連盟」のジュディー・ブラウン氏は次のように語った。「われわれは薬品による化学的な妊娠中絶を通して罪のない人々を破壊することを認めるFDAの決定を許すわけにはいかない」。
ここで彼女が「罪のない人々」と呼んでいるのは着床前の受精卵のことである。彼女の発言を笑い飛ばすことは簡単である。しかしむしろその前に、女性の子宮内にまで飛翔している彼の想像力の源泉が、米国社会の活力の一つでもあることを理解しておくべきであろう。
同性愛者の聖職者を認めた教会も
この数年、米国の主流派プロテスタント教会の中で同性愛者の位置づけをめぐる議論ほど、熾烈を極めた論争はなかったと言える。たとえば、今年三月には米国長老教会(信者数約二百七十万人)で同性愛者の「結合」(ユニオン――男女の「結婚」と区別してこのように呼ぶことが多い)の執行を禁止する提案が出されたが、結果的に反対票が賛成票を上回り、この提案は破棄され、結合執行の賛成派と反対派の議論は継続中である。
同性愛に関する理解が深まりつつある米国においても、教会は次のような事項に関しての態度決定を一つひとつ確認しながら、より包括的な理解へと議論を進めている。
(1)教会は同性愛者の市民権を擁護すべきか。(2)同性愛者は教会のメンバーになることができるか。(3)同性愛キリスト者が同性愛的ライフスタイルを維持することは適切か。(4)教会は同性愛者の結合を祝福すべきか。(5)同性愛キリスト者は自らの性的指向を変えるよう努力すべきか。(6)同性愛者は按手(聖職者としての任用)の対象となるのか。
特に最後の「同性愛者の按手」に関しては道のりが険しく、教派としてそれを認めているのは、自由派の代表格、合同キリスト教会(信者数約百五十万人)だけである。同派では七〇年代から同性愛者の聖職者が存在していた。また一九六八年には、同性愛者であるという理由である教派から除籍されていたトロイ・ペリーが、メトロポリタン・コミュニティ教会を設立している。同教会は同性愛者のクリスチャンが自由に礼拝をできる場を提供するだけでなく、エイズ問題にも積極的に取り組み、現在では世界十七カ国にブランチを持ち、三万二千人もの信徒を擁している。
このように同性愛者を取り巻く状況は一見順調に前進しているようであるが、まるで振り子の揺り戻しのように、このような動きに対する強烈な反動もある。言うまでもなく、宗教右派がその急先鋒である。
彼らの理解によれば、同性愛者の存在は伝統的な家族構造を破壊するだけでなく、神の怒りを招く結果、国家の滅亡さえもたらすのである。こうした激しい対立関係を含みながらも、性の多様性は具体的な焦点を与えられながら、確実に議論の蓄積を増してきている。性差別を温存・助長するような聖書の表現を徹底して見直そうとする「包含的言語」(たとえば、神への呼びかけを「父」ではなく「父母」とする)による聖書翻訳もその一例である。
日本の性を支えるのは?
以上見てきたような米国における事情や取り組みから、われわれは何を学ぶべきであろうか。日本の場合、米国におけるキリスト教のように、性の問題を顕在化させ、社会で共有できるような働きを果たしている宗教は見あたらない。また、宗教性そのものが潜在化している。しかし、このような文化的様相の上に米国文化が覆いかぶさることによって、現象的には性の多様性を享受しているかのように見えている。たとえば、若い世代は性の自己決定権を当然の権利として行使している。
しかし、われわれは性のエネルギーを適度に解放したり、抑制したりする技法を自らの言語として修得しているのであろうか。米国においては、保守派であれ、自由派であれ、性と生の固有の関係を絶えず自分たちの言葉で言語化する努力がなされてきた。その作業がまた、私的な内面世界と外的世界との間の往復運動を活性化し、性と生と聖が出会う地平を多層に開いていっている。
個が孤立せず、また社会が画一性へと陥らないためにも、性が持つ豊饒なエネルギーを大胆かつ繊細に用いる知恵が今、求められているのではなかろうか。