2月10日にキム・ヒョップヤン教授によるES細胞研究に関する講演会が行われました(案内は2/4記事参照)。
今回、わたしは司会を務め、最初に、国内におけるES細胞研究に関する経緯や、その倫理的・歴史的な位置づけについて簡単な紹介をしました。
その後、講演の通訳をしました。少し堅めの論文を土台にしているので、あらかじめ、オリジナルの原稿に目を通しているとはいえ、わかりやすい日本語にするのは至難の業でした。自分で通訳しながら、「ここは、わかりにくいだろうな~」と思う箇所が、いくつもありました。それでも、事前に打ち合わせをして、難解な用語や議論の箇所は極力スキップするようにお願いしていました。
とたえば、細胞における「全能性」と「多能性」の区別、なんて日本語で聞いても、普通は意味不明だと思います。細部の議論をする際には、確かに大切な概念なのですが、このレベルの用語が頻出すると、聞いてる方にめまいを引き起こしかねませんので、カットしてもらいました。
講演の内容は、きちんと翻訳した暁に、神学部が発行している『基督教研究』に掲載することができればと考えています。ちょっと手間がかかりそうですが・・・
「生命の尊厳」をどう理解するか、という問いが、講演内容の背骨になっていました。西欧のキリスト教や啓蒙主義の伝統から「生命の尊厳」の概念が構築されてきたが、そのままでは、東アジアの文化的土壌には適合しない、という指摘から、では何を素材にして、この問題を考えていけばよいのか、ということで、儒教の自然観や人間観が引き合いに出されてきました。
大雑把に言うと、東アジアの共通基盤として儒教の価値観を見直そうという姿勢がありました。おそらく、韓国は、まだまだ儒教的なものの考え方が強く残っている部分がありますが、果たして、日本はどうだろうか、と考えさせられます。また、1月に講演をしてもらったチョン・ヒョンギョン先生のようなフェミニスト神学者から見れば(1月12日記事参照)、儒教的価値は家父長的遺物として、かなりネガティブな評価を与えられていますから、ただ儒教を再評価するだけでは問題解決にならないことも明らかでしょう。
しかし、それでも一見普遍的イメージの強い「生命の尊厳」を、非西欧的な視点から、とらえ直そうとする意気込みには、学ぶべき多くの点があったように思います。少なくとも、日本社会ではES細胞研究についても、他の生命科学分野の問題にしても、パブリックな議論を引き起こすことはほとんどありませんから、問題をどのように組み立てるのかが、まず問われるべきなのでしょう。マニアックな問題として矮小化されないための工夫が必要だということです。
質疑応答においても興味深い見解が語られていましたが、わたしが一番「おもしろい!」と思ったのは、「なぜ韓国ではES細胞研究が進んでいるのか」という質問に対する答え。
それは、韓国人が箸を使うからだそうです。しかも、鉄の箸を使うから。そのおかげで、ミクロな細胞レベルでの核移植などに手慣れている、というわけです。冗談のような、しかし、半分本気のような、絶妙な回答でした。
キム先生は講演会の翌日、韓国に戻られました。わたしは、来週の半ばからソウルに出かけますので、たぶん滞在中にキム先生と再会することになると思います。
東アジアを舞台にした、宗教と科学の研究ネットワークを作ろう、という荒唐無稽な話しを始めています。
■京都新聞 記事