CISMOR国際ワークショップの2日目。
今日は東南アジアのセッションと、総括的なセッションとが行われました。
インドネシア、フィリピン、マレーシアの事例が報告され、それぞれ興味深かったのですが、マレーシアの宗教間対話の一端を紹介してくれたマレーシアNCC総幹事のシャストリ氏の話にとりわけ関心を引かれました。
宗教間対話といっても、マレーシアはイスラームが国教の国ですから、イスラームが圧倒的な影響力と政治力をもっており、それに対等に並びうる宗教は存在しません。したがって、宗教間対話は、まず少数派であるキリスト教などが権利擁護などを求めて行われることになります。
具体的な利害調整のために、政府が主導して宗教間対話が行われることもあるようです。また、これまで対話のテーブルに着くことを拒んできたイスラームが、9・11以降、態度を少しずつ変えてきたらしく、それは9・11が引き起こしたポジティブな変化であると指摘されていました。
結局、わたしの関心を引いたのは、マレーシアでは宗教間対話の結果が、現実的な意味を持って日常生活に影響を及ぼしている、という点であったと思います。「対話のための対話」になったり、抽象的な題目のために行われている宗教間対話とは、質的に異なる点が新鮮に映ったのだと思います。
最後のまとめのセッションは、わたしが司会をしたのですが、とてもうまくまとめることなどできません。
しかし、臼杵陽先生が非常に適切なコメントをしてくださり、わたしが言いたかったようなことを代弁してくれたので、かなり気が楽になりました。
その一つは、「アジア」という概念がどのように成り立つのか、という問いです。西洋対東洋、欧米対アジアという二分法の中でもっぱら「本質主義的に」語られるアジアとは何なのか、という問題です。この二分法から、完全には自由になり得ていないことを自覚することは確かに大切だと思います。
しかし同時に、臼杵先生は「戦略的本質主義」があってもよいと述べられました。わたしは、それをマイノリティのアイデンティティ・ポリティクスと言い換えましたが、その意味での「アジア」へのこだわりはあってよいと思っています。
最後のセッションではできるだけ相互ディスカッションの時間を取りたかったので、一人あたりの発言はできるだけ短く、具体的には2分以内に、ということをしつこいくらいにお願いしたのですが、ほとんどかないませんでした。(^_^;)
放っておけば、20分でも30分でも話し続けるような勢いですから、これはどうしようもありません。メンタリティの違いとして、あきらめるしかない状況でした。
ともかく無事、全体のセッションが終わり、最後は森先生がうまくまとめてくれたので、かっこうがついたように思います。はー、疲れました。