上海で宿泊したホテルのすぐ隣に大きな市場があったので、帰国日の早朝に立ち寄りました。野菜、果物、肉、雑貨など、生活に必要なものがひと揃い並んでいました。日本ではめったに見かけることのない豚の頭や足も平然と置かれていました。
日本にも、昔はこういうタイプの市場があったと思います。雑然としていますが、そこに不思議な懐かしさを感じました。
市場の外にはちょっとした食べ物も売っているのですが、その並びに、生きた鳥が売られていました。各種ニワトリ、鳩、鴨(のような鳥)、ガチョウなどがカゴの中に入れられています。
よく見ると、ここで買われた鳥が隣のスペースで次々にさばかれていっています(左写真の左奥)。最初はショッキングな光景に息をのみましたが、鮮度の高い鶏肉を求める人にとっては、こうした場所が必要だということが次第に理解できました。
日本では、きれいにパックされた鶏肉をスーパーで買うことに慣れてしまっていますので、命を奪っているという感覚が希薄になっていると思います。
残酷な光景ではありますが、私たちの命は、他の命を殺す形で成り立っているということを、端的に教えてくれています。他の命を犠牲にしていながら、それに鈍感になっていくことは怖いことです。
「犠牲」という考えや儀礼は長い歴史を持っていますが、あらためて、現代の課題を考えさせられた次第です。生と死の「生々しさ」を我々はどのように体感していくことができるのでしょうか。そして、それを体感し損なったとき、どのような「いびつさ」が生じてくるのでしょうか。