「休み」にひっかけて、雑誌の休刊について思うところを。
長らく購読していたアサヒ・パソコンが今月で休刊となりました。実際、復刊の見通しはありませんから、事実上の廃刊と言ってもよいでしょう。アサヒ・パソコンのほか、最近、日経バイトやPC USER なども休刊となっています。
インターネットの普及、特にブロードバンドの普及に伴ってパソコン雑誌の売り上げは徐々に厳しくなってきました。最新の動向は、ほとんどインターネット上でわかりますから、読み物としての雑誌の魅力が減退してきたわけです。
その中でも、アサヒ・パソコンはお堅いイメージのある朝日新聞社が作っていた割には、硬軟使い分けて、けっこう読ませる記事が多かったと思います。
最終号でおもしろかった記事の一つは「アサヒ・パソコンからの遺言」。メーカーにいろいろな注文をつけていると同時に、なぜパソコン雑誌が売れなくなってしまったのか、という分析をしています。
その理由の一つが、「パソコンのコモディティー(日用品)化が加速し商品として陳腐化した」というものです。パソコン歴20年以上のわたしにとっては、この言葉の意味は体験的によくわかります。インターネットが普及したり、パソコンがコモディティーとなる以前には、パソコンの存在自体が非常に先鋭的で、それゆえに、そこに引き込まれていったという側面があります。わたしなどはその代表例でしょう。
パソコンが今のパソコンに近づいたのはNECのPC98シリーズが世に出始めた頃ですが、それでも当時はすべてのソフトがフロッピー・ディスクで動いていました。
ワープロ・ソフトとして、わたしは初代一太郎の頃から使っていましたが、フロッピーで動いていた一太郎も、基本機能は、今の最新の一太郎と大きくは変わらず(と言い切ってしまうとジャストシステム社に失礼かもしれませんが)、使えるワープロ・ソフトの出現に魂がふるえたことを昨日のことのように思い出します。
残念ながら、今のパソコンやソフトに、そうした「魂のふるえ」はまったく感じません。ユーザーフレンドリーになった反面、もはや手を入れることろがなくなり、内部構造はブラックボックス化し、まさに優等生になりすぎてしまった、という感じです。これが、パソコンのコモディティー化の帰結の一つだと言ってよいでしょう。
どこにでもある、ありふれた道具になることによって、それを解説する雑誌も、その特別なミッションを失っていったということになります。
長らく愛読していた雑誌の休刊においても、昨日同様、時代の変化を感じさせられます。