小原On-Line

小原克博: 2010年10月アーカイブ

 「排除の力学を越えて──変わりゆく中国」(『京都新聞』2010年10月22日、夕刊)を追加しました。
 中国と日本との関係は、今や一筋縄ではいかないものとなりましたが、中国批判ばかりしていても生産的ではありません。政府レベルでのやり取りとは別に、民間レベルでの交流は前進させていくべきでしょう。
 尖閣諸島の問題が起こってからも、中国在住の中国人研究者からは、ごく普通のメールが届き、ごく普通に返答しています。そういう当たり前さをお互いが維持していれば、問題が大きくこじれることはないのではないかと思います。
 記事では、8月に行った上海・南京での国際会議での様子に言及しながら、現在および過去の問題を考えています。関心ある方は、ご一読ください。
20101026_1.jpg 10月26日(火)、アメリカに本部をもつ International Institute of Islamic Thought (IIIT) から二人の方が CISMOR を訪ねてくださいました。東京で用事があったらしいのですが、京都に来て、京大のアジア・アフリカ地域研究科訪問のあと、CISMOR に立ち寄ってくださいました。
 イスラームの専門の先生方によれば、IIITは世界各地に支部をもち、かなり有名な組織らしいです。IIITが出している出版物を多数いただきましたが、内容的に非常にしっかりしており、研究レベルの高さ、関係している人材の豊富さをうかがい知ることができました。
 私が同志社やCISMORのことを紹介しましたが、一神教研究と日本文化・日本宗教との関係にも力を入れていると語ると、大きな関心を示されました。
 右写真のように、CISMORの出版物のうち、英語・アラビア語で書かれたものをテーブルに並べ、これまでやってきたことを紹介しました。イスラーム世界と幅広いネットワークを持っていることに驚いておられました。
20101026_2.jpg
 私はイスラーム研究の細部のことはわかりませんので、中田先生、サミール先生にも同席していただき、時折、助け船を出してもらいました。1時間弱、歓談の時をもつことができました。
 IIITは非常にしっかりとした組織であることがわかりましたので、今後、具体的な共同プロジェクトを行うことができればと思った次第です。
 アメリカにある組織であるだけに、他宗教との対話に特に力を入れており、また、リベラルな研究方針を持っているようなので、つきあいやすい印象を受けました。
20101023.jpg 10月23日(土)、森本あんり先生(国際基督教大学)を講師として、CISMOR公開講演会「寛容論の中世的本義と現代的誤解―アメリカ・ピューリタニズムの歴史から」を開催しました。
 最初にいただいていた講演要旨は以下の通り。

「イスラム的寛容」をめぐる議論がしばしば聞かれるが、初期アメリカの歴史を振り返ると、問題の構成に注目すべき平行関係があることがわかる。本講演では、しばしば不寛容な一神教の代名詞のように扱われるピューリタニズムを取り上げ、彼らの論理をその本来的な文脈に沿って理解することで、現代的な寛容論の再考と批判への有効な視座を得ることを目指したい。

 いずれ講演の録画映像もCISMORの公開講演会のページにアップされますが、関心ある方のために当日配布されたレジュメをつけておきます。

■10月23日講演レジュメ Morimoto.pdf

 ピューリタンの歴史をひもときながら、現代の理解とは異なる寛容論の起源を問うていく内容は、緻密で説得力のあるものでした。現代社会において「寛容は大切だ」というと、寛容は各人が備えるべき「美徳」のような位置づけになっています。しかし、寛容論の起源においては、むしろ、より大きな悪をもたらさないために小さな悪(それがユダヤ教やイスラームでもあったわけです) を受け入れる、比較考量の上の「実利」としての側面を持っていたということです。「寛容」という考え方の背景にある歴史的な幅を理解することは、とても重要であると思いました。
 現代の平均的理解から判断すれば、バプテストやクェーカーたちを積極的に受け入れようとしなかったピューリタンたち(会衆派が中心)はきわめて「不寛容」ということになりますが、当時の時代状況の中で、独自の寛容理解を持っていたことがわかりました。
 一つの中心的な価値体系の中に他者を位置づけるピューリタン的寛容のあり方は、イスラーム社会におけるユダヤ教徒・キリスト教徒の位置づけのあり方と、構造的に類似しているのではないか、という問題提起もありました。

 講演会のあとの研究会では、かなり専門的なレベルでの討論が交わされ、レベルの高い知的刺激を受けることができました。
 今日は以下のような形で、京都・宗教系大学院連合(K-GURS)の研究会が行われ、久しぶりに、花園大学を訪ねることができました。

■京都・宗教系大学院連合 第9回「仏教と一神教」研究会
◎日 時:2010年10月16日(土)13:00〜15:30
◎場 所:花園大学 栽松館3階 大会議室

◎テーマ:祈りと瞑想
◎発表者:
 清水大介(花園大学)「キリスト者の祈りと坐禅」
◎コメンテーター
 小原克博(同志社大学)
 藤 能成(龍谷大学)
◎司会
 中尾良信(花園大学)

 発表者の清水先生は、カトリックにおける祈り(黙想・瞑想)についてかなり詳細に紹介してくださり、また、その各段階が坐禅とどのような対応関係にあるのかを説明してくださいました。
 花園大学は「東西霊性交流」というプログラムを25年にわって行ってきており、ヨーロッパのカトリック修道士と禅僧との交流の拠点となってきました。
 今日の研究会でも、禅宗、浄土真宗、真言宗、キリスト教など様々な角度から議論を交わすことができ、多くの刺激を受けました。K-GURSの醍醐味です。
 種智院大学の先生は、大日如来はきわめて人格的な仏であり、この宇宙を生み出した存在として理解されているが、一神教の神との違いがどこにあるのか、という問いを出されていました。(瞑想における)神との合一という視点に立つと、大日如来と一体化するという真言宗の教えに、さらに近接してしまうので、明確な違いを見つけるのがますます難しくなります。私も似たような関心を持っていましたので、これをきっかけに議論がはずみました。
 WCRPについての朝日新聞の記事「紛争・貧困解決求め──世界宗教者平和会議40周年」(『朝日新聞』2010年10月4日、夕刊)をアップしました。記事の4段目に私のコメントが出ています。
 この記事では、私が WCRPのベンドレー事務総長を同志社に招きたいということになっていますが、まだ具体化しているわけではありません。しかし先日、京都国際会館であった「日本の宗教とイスラームの対話」に出席した際、ベンドレー事務総長に声をかけ、CISMORの紹介も兼ねて、あれこれ話をしたところ、日程さえあえば、いつでもニューヨークから京都に来てくれるということでした。来年、うまくいけば実現するかもしれません。
 上記記事は、WCRPの活動をうまくまとめており、また、問題点も指摘しているので興味深いです。先日出されたメッセージについての評価も複数紹介されています。京大の小杉先生が指摘しているように、私も、もっと強い主張があった方がよかったと思います。
 メッセージ原文は、2010年9月23日記事にアップしていますので、関心のある方は、それと今回の記事とを比較されるとよいと思います。
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