小原克博: 2008年3月アーカイブ
3月28日(金)、同志社女子大学で日本基督教学会 近畿支部会(2008年)が開催されました。
今回、私は「宗教的多元性と民主主義の相関関係 ――リベラル・デモクラシーは諸宗教共存のための前提条件なのか? 」というテーマで研究発表を行いました。まともに準備をする時間がなかったので、ちょっと漫談風でしたが、ある程度、課題は明確にできたと思います。
私のゼミからは5名の学生が発表しました。私を入れると、小原ゼミから6名が発表したことになりますので、全発表者24名の4分の1を占める「多数派」です。(^_^;) 「量より質だ!」と陰口をたたかれないよう、互いに切磋琢磨していきたいと思っています。
午後は、公開シンポジウムがあり、同志社女子大学の村瀬学先生を講師として招き、「ノアの方舟を読み解く――人間と動物のいのち論」というテーマで離していただきました。
私は、コメンテーターに当たっていました。「動物のいのち」が講演のテーマでしたから、「今日しかない!」ということで、中国でおみやげにもらったパンダのネクタイを締めていきました。
遠くから見ると、単なるまだら模様にしか見えませんが、ちょっと近づくと、笹の葉をバックにパンダが所狭しと並んでいるのがわかります。
日本の死生学教育 ― 現代の課題と急務 ―
「京都・宗教系大学院連合」は、大谷大学大学院 文学研究科、高野山大学大学院 文学研究科、種智院大学 仏教学部、同志社大学大学院神学研究科、花園大学大学院 文学研究科、佛教大学大学院 文学研究科、龍谷大学大学院文学研究科の7つの大学院・大学および9つの協力団体(研究所・学会)がそのメンバーとなっています。
2006年度より、加盟大学院間の単位互換制度の実施をはじめ、教育や研究の具体的な取り組みを始めています。また、京都に息づく日本の伝統文化・宗教を積極的に国際社会にアピールするために、幅広い研究ネットワークの構築を目指しています。
本連合の目的や活動を広く知っていただくために、今回、カール・ベッカー氏を基調講演の講師としてお招きし、「日本の死生学教育」というテーマのもと公開シンポジウムを下記のように企画いたしました。多くの方のご来場をお待ちしています。なお、来場された先着200名様には本連合の機関誌『京都・宗教論叢』第2号を贈呈いたします。
■日 時:2008年3月29日(土)午後1時~3時30分
■場 所:花園大学 無聖館(むしょうかん)(図書館)5階ホール
京都駅よりJR嵯峨野線「円町」駅下車、徒歩8分
■プログラム
・あいさつ:ロバート・ローズ(大谷大学)
・基調講演:カール・ベッカー(京都大学大学院 人間・環境学研究科教授)
「日本の死生学教育――現代の課題と急務」
・パネル・ディスカッション
司会:中尾良信(花園大学)
パネリスト:
安永祖堂(花園大学)、鍋島直樹(龍谷大学)、小原克博(同志社大学)
※入場無料、事前申込不要
http://www.shnu.edu.cn/news/shnunews.jsp?s=3&id=6788
日本でも、連日のようにチベット騒乱に対する中国政府の対応や、それに対する各国の対応が報道されています。中には、北京オリンピックのボイコットを呼びかけるようなものもあります。
中国政府の見解は、基本的に、従来と変わっていません。なかなか強硬なものですが、次の人民日報の記事がわかりやすいと思います。
http://www.people.ne.jp/a/e99ea598caaf4c77b0ce24631b15cf75
北京の教会の礼拝に出席したことは、3月16日の記事で紹介しましたが、礼拝の様子の動画をYouTubeにアップしました。短い映像ですが、たくさんの人であふれている雰囲気がわかると思います。
実は、この動画は3月17日にはできあがっており、北京のホテルからYouTubeにアップしようとしましたが、なぜかYouTubeにつながりません。混雑しているのかと思い、時間を変えてやっても、結果は同じでした。あきらめて、帰国後、アップすることにしたのですが、帰国の飛行機の中で読んだ新聞で、なぜYouTubeにつながらなかったのかという謎が解けました。
AP通信が伝えるところによると、チベット暴動が起きてから、その後の様子がYouTubeに投稿されないように、YouTubeへの接続経路が中国政府当局によって遮断されたとのことでした。
もちろん、それが本当であったかどうか、私は確認するすべがありませんが、中国国内からYouTubeにアクセスできなかったのは事実です。
情報の遮断や盗聴は、アメリカを含め、他の多くの国でもやっていますので、中国だけを責めることはできませんが、少なくともYouTubeのようなインターネット・メディアの影響力が甚大であるとの認識を政府が持っていることは間違いないでしょう。
追って、報告し損ねていたことを、ぼちぼちと記していきたいと思っていますが、明日は卒業式、その後も仕事が続きますので、一息入れるというわけにもいきません。
今回、短期間とはいえ、中国を訪問し、多くの方々と話しをすることによって、これまで断片的にもっていた中国に関する知識がまとまり、また、ぼんやりと抱いていた問題意識が明確な焦点を得たような気がします。
偶然、イランそして中国と続けて訪問することになりましたが、両者はまったく異なる政治的・文化的背景を持ちながらも、何か通じるものを感じます。一つは、グローバル化の中核にあるアメリカ的な価値に対峙する気概のようなものです。もちろん、両国とも、資本主義を受け入れ、国の繁栄を求めていますが、西洋の後追いではない価値の形成に気を遣っているということです。
イランも中国も、長い文明の歴史に支えられた、ある種の誇りのようなものを共通して持っているようにも思います。
とはいえ、どちらの国も、足下を見れば、大変な問題を多数抱えています。
今回の訪問で、中国から日本がどのように見られているのか、ということについても考えることができました。
今回得られた関係を、今後も維持・発展させ、中国と日本、両国にとって意味のあるものを少しずつ作り上げていくことができればと思っています。
復旦大学の先生方に、おいしい上海料理をごちそうになった後、豫園商場と呼ばれるエリアに行きました。右の写真からもわかるように、古い上海の町並みに、現代風のイルミネーションが装飾されています。まるで「千と千尋の神隠し」に出てくるような町並みで、その雰囲気を楽しむことができました。急須セットなどのおみやげを、ここで買いました。
その後、宿泊先に帰る前に、同行してくださっている薛さんの強いお勧めがあり、イスラーム教徒が営業するラーメン屋に立ち寄りました。ラーメンといっても、作り方やスープが日本のものとは、ずいぶん異なります。目の前で麺をこねたり、切ったり、ゆでたりするのを見ながら、できあがったラーメンをいただきました。これまで食べたことないような味でした。しかし、麺には腰があって、異国情緒いっぱいの味を堪能することができました。3月18日の午後、復旦大学に出かけました。復旦大学は上海の中では一番の名門大学です。政府の重点大学にもなっており、かなり巨額の政府予算が投入されていることは、建物を見て、十分納得することができました。
右の写真は、様々な機能が入っている30階建てのツインタワーで、その前には広大な広場が広がっています。これほど巨大な建物は、大学のものとしては、世界中を探しても多くはないと思います(キャンパスには、他の建物もたくさんあります)。
中を見ても、びっくりするものばかり! 訪問前に少し時間があったので、コーヒーを飲みに喫茶店に立ち寄ったのですが、まるで高級ホテルの喫茶店のようでした。同様に、トイレも超高級。とても大学の施設とは思えないようなグレードです。
復旦大学には世界中から一流の研究者が訪問しますので、国家の威信をかけて、すみずみまでハイグレード仕様にしているのでしょう。いや~、本当に驚きました。
3月18日の午前中、上海師範大学で講演を行いました。中国語では「学思湖海外名士講伝」(漢字は日本語化しています)と呼ばれる、上海師範大学で歴史ある講座として行われました。海外からの著名人による特別講演シリーズのようで、日本人としては二人目だとのこと。私の前は、作家の渡辺淳一氏。
しかし、こういうことを私は当日になって知らされましたので、講演については、かなり気楽な準備しかしていませんでした。(^_^;)
講演に先立ち、副学長がわざわざ挨拶をしてくださり、この講演を記念した、私の名前が刻まれたプレートと、私の名前が刻まれた印鑑をプレゼントしてくださいました。印鑑といっても普通の印鑑ではありません。中国風狛犬の彫刻つきの豪華版です。プレートにしても、中国風印鑑にしても初めていただきましたので、これは一生ものです。手厚いもてなしに、ただただ感謝する他ありません。
中国基督教協会本部は上海のセンターにあるので、そこからすぐ観光名所の一つ上海バンド(外灘)と呼ばれる場所に行くことができました。
川の両岸に近代的な建物が林立していますが、上海バンドから対岸に見える建物群は未来都市を思わせるような風情をしており、中国経済の中心である上海のシンボル的存在とも言えます。
左の写真は、上海最大の繁華街、南京東路です。歩行者天国になっており、まばゆいばかりのネオンが夜の街を照らしています。牛丼の吉野屋、ユニクロ、ラーメン屋など日本のお店もいくつかありました。
近辺で食事を済ませ、地下鉄に乗って、宿泊先に帰ったときには9時。朝は4時半に起きていましたので、本当に長い一日でした。
大幅に到着が遅れたため、休憩する間もなく、上海師範大学のゲストハウスを後にし、中国基督教協会本部に向かいました。渋滞のため1時間近くかかりました。
右の写真は、その本部のチャペル祭壇の写真ですが、そこに書かれているように、中国基督教協会(China Christian Council, CCC)と三自愛国運動委員会(Three-Self Patriotic Movement, TSPM)という二つの名称は、いつでもセットで用いられます。おおざっぱに言えば、後者が中国政府との交渉の窓口となり(たとえば、没収された財産の返還交渉)、前者が教会内部の運営責任を持つという区分がありますが、両者はほぼ一体の組織です。
上海に到着しました。しかし、北京空港では大変な目に遭いました。
朝6時前にホテルを出発しました。北京空港で搭乗手続きを済ませ、手荷物検査などを受けるゲートに向かうと長蛇の列。長蛇の列はアメリカでも何度か経験しましたが、単に列が長いだけでなく、どの列がどのゲートにつながっているかわらなないほどに、ごちゃごちゃになっており、押し合いへし合いの混雑ぶりです。
進むスピードがあまりにも遅く、いらいらした人たちが空港係員とあちこちで激しい口論をはじめ、ほとんどけんかに近い状態でした。そういう騒ぎが始まると、あちこちでデジタルカメラやビデオカメラで撮影が始まりました。
何を叫んでいるか聞くと、「インターネットにのせてやる」とか「こんなことでオリンピックができるのか」とか言いたい放題です。
結局、ほとんどすべての便の出発が遅れ、私たちが乗った飛行機も2時間近く遅れました。すし詰めの列にもまれて、1時間半ほど立ちっぱなしだったので、朝からずいぶん疲れました。
上海到着後、上海師範大学のゲストハウスに向かいました。
というのは、まったくの冗談で、そのごくごくわずかの部分を歩いただけで、その巨大さに敬服しました。
万里の長城は、何百キロもの長さがあり、登り口も複数あります。私は、居庸関長城というところから登りました。
切り立った山の尾根の部分に長城が、まるで龍のようにうねうねと伸びています。
ここは特に傾斜のきつい場所として知られています。
下から眺めていても、かなりの急勾配であることがわかりましたが、実際に登り始めると、かなり脚力を要することがわかりました。
階段の一段一段の高さが非常に高く、少し登るだけで、足がかなり疲れます。
左の写真は、下から三つ目くらいの見張り台から撮った写真です。まだまだ先はあるのですが、明日動けなくなるといけないので、用心して、引き返してきました。
険しい山々が続く場所に、よくもこれだけの巨大建造物を造ったものだと、つくづく感心しました。
万里の長城が最初に作られたのは、秦の始皇帝の時代ですから、中国の悠久の歴史を感じさせられざるを得ません。
一度に人が入りきらないため、午前中に2回礼拝が行われています。私たちが到着したときには、礼拝堂に入ろうとする人たちの長蛇の列がありました。門をくぐると、教会の庭にも、礼拝堂に入りきれない人たちが、いすを並べて、礼拝堂内の映像を見ながら礼拝をしていました。
中国では教会に人があふれていると聞いていましたが、実際に見て、その事実を驚きをもって体感することができました。
左の写真の左手に見えるのが人民英雄記念碑です。1949年の中国建国のために巡視した人々の追悼碑です。
1989年の天安門事件の際、民主化を求める学生たちは、この記念碑の周りに集まったそうです。
天安門事件を私は留学先のドイツから見ていましたが、いまだに記憶に鮮明に残っています。抗議運動の人々が軍隊によって鎮圧され、何千人という犠牲者を出した同じ場所とは思えないほどに、今は陽気な観光客でいっぱいです。
左の写真は毛沢東の写真が中央に飾られている天安門。「中華人民共和国万歳」の言葉が見えます。
3月15日、午前中は中国人民大学、中国社会科学院の先生方と懇談の機会を持ちました。どの先生もキリスト教を何らかの形で専門としており、中国の中でもトップクラスの方々でした。
文化大革命によって、宗教研究のたぐいは、いったん根絶やしになり、1980年代以降、徐々に文学部の中に副次的な形で宗教研究が位置づけられていくようになります。そして、10年ほど前から、宗教学部や宗教系の専門センターが次々に設置されてきました。
これは中国共産党の宗教政策が大きく変遷してきたことを物語っています。もちろん、ずいぶん寛大になってきてはいるものの、キリスト教やイスラームに対しては、かなり神経をとがらせているようです。
無事、北京に到着しました。ホテルに向かう途中、オリンピックのスタジアムや関連施設を目にしました。着々と準備が進んでいるようです。しかし、すごい交通渋滞と空気の悪さは、オリンピックだからといって何とかなるようには思えませんが、中国政府は何か秘策を考えているのかもしれません。
北京の郊外の高速道路を走りましたが、広くまっすぐに道路が延びているに驚きました。日本であれば、道路を作りにしても、周辺の土地買収などで苦労しますが、中国では土地はすべて国家のものなので、その手の悩みは皆無のようです。
ホテルに到着し、ほとんど一服する間もなく、北京大学に向かいました。広大なキャンパスには、立派な中国風の建物がたくさん建っていました。
右の写真は、北京大学の正門の前で撮ったものです。
北京からは、おそらく、ブログによる報告ができると思います。ただし、かなりハードスケジュールなので、時間的余裕があるかどうか・・・
3、4日前から風邪を引いてしまい、まだ、のどがかなり痛いです。病院に行って薬をもらってきたので、何とかなるでしょう。
では、現地からの報告をお楽しみに。
日にちや場所などの説明を適宜入れていますので、だいたいの状況はおわかりいただけると思います。特に、BLOGでの報告を読んでくださっていた方には、ばっちり情景を理解していただけると思います。
細部はともかくとして、ざーっとながめるだけでも、イランの雰囲気が伝わってくるはずです。
Kohara Photo Studio は勢いよく作ったものの、その後、恥ずかしいことに2005年以降、完全に放置していました。(^_^;) これからは、もう少しこまめに更新していこうと反省しています。
文字(テキスト)と画像(写真)では、やはり伝えることのできる内容に違いがありますので、それぞれのよいところを生かしていきたいと思っています。
いくらよい写真でも死蔵してはもったいないですし、備忘録の意味もかねて、これからは、無理のないこまめな更新を心がけていきます。
亀岡には、綾部にあるような巨大な神殿はないのですが、組織の重要な運営機能を担っています。
国際関係のセクションも、亀岡にあり、今回の訪問で、大本とイスラーム(特にシリアのクフタロウ財団)との深いつながりについて知ることができました。
簡単に言うと、大本が信じる神も、ムスリムが信じる神も同じ神であるという共通認識に立って、大本とクフタロウ師は信頼関係を取り結んできたようです。このあたりの感覚は、神道系の他教団には見られない非常にユニークなものだと思います。
右の写真は、亀岡における教主様の執務室のようなところです。ここで来客を迎えたり、仕事をされたりするとのこと。
さすが本井先生。歴代神学館やクラーク記念館についての、通常知り得ないような詳細な話しをしてくださいました。
以前、Masakiさんから出されていた質問に対しても触れられました。クラーク記念館の前にある牛と大日如来の石碑はいったい何なのか、ということです。
これは、同志社草創期の宣教師の一人ギューリックが宗教博物館の建設を予定していたことと関係があります。彼は、キリスト教以外の宗教についても、展示できるようなものを探していたらしく、たまたまデフォレストが持っていた牛と大日如来の石碑がそのために同志社に寄贈されました。
ところが、宗教博物館の計画は頓挫し、行き場を失った牛と大日如来が、今の場所に置き去りにされてしまったようです。
日当たりのよい場所なので、牛は博物館にいれられるより、ずっと快適なすみかを得て満足げな顔をしています。
ところで、ちょうどその間の3月1日付ワシントンポストに、何と、このアッシリア教会とガルムー大司教が登場しているではありませんか。帰りの空港で、偶然、その事実に気づきました。
このワシントンポストの記事は、非常に読み応えがあり、また考えさせられる内容を含んでいますので、一読をお勧めします。
■Washington Post: U.S. Zeal for Iran's Non-Muslims Faulted (March1, 2008)
記事中の写真は、私が訪ねたアッシリア教会で、Nextボタンを押すと出てくる人物がガルムー大司教です。
偶然とはいえ、ワシントンポストに掲載された話題の人物と出会っていたことになります。ちなみに、上記記事の最後に出てくる Mohammad Ali Abtahi 氏は、イランに到着したその日に訪ねた人物です(→2月26日記事)。
3月2日に出席したアッシリア教会での礼拝風景をYouTubeにあげました。かなり貴重な映像であると思います。
現在はカトリック教会に属していますが、5世紀に異端扱いされ国外追放されたネストリウス派の伝統を引いています。礼拝も、カトリックのようでカトリックにはない雰囲気を持っていました。
ガルムー大司教が礼拝全体をリードしていますが、信徒の方々が要所要所で役割を担っているのが印象的でした。讃美歌をリードする女性の歌声はすばらしかったです。一部は映像の中にも入っています。
私は、偶然にも歌姫二人の間に挟まれ、天井高く響き渡る声には、まさに天に昇る気持ちがしました。
映像は、コンパクト・デジカメで撮影したものなので、音はあまりよくありません。実際の歌声には比べるもありませんが、雰囲気は味わっていただけると思います。
アッシリア教会については、まだ触れなければならない重要な点があります。続報をお待ちを。
アッシリア教会のことなど、まだ報告すべき事が残っていますので、それらは明日以降、ぼちぼちと説明を付け加えていきます。
早速、明日早朝から会議で、催促されている提出物も多くあるので、まずはそれらを片付けます。
帰国しても一息つく間がないのは悲しいですが、仕方ありません。
取り急ぎ、帰国の報告まで。
この空港には、無料のワイヤレス接続があります。私が思っていた以上に、イランではインターネット環境が整備されています。
この空港は、できて2、3年しかたっておらず、設備はあまり整っていません。しかし、広々としていて快適です。
あと2時間ほどでイランともお別れです。モッチャケラ(ありがとう)、イランの友人たち!
礼拝終了後、教会の人たちと昼食を共にした後、ザルヴァーニ先生宅に向かい、夕方には空港に向かいます。
今からチェックアウトして出かけますので、これがイランからの最後の報告となります。続きは、帰国後に付け足したいと思います。無事に帰国できるようにお祈りください。
もちろん、何事もなく帰れると思うのですが、行きにはちょっとしたハプニングがありました。テヘランの空港に到着し、機内アナウンスで「ヘッドキャビンから荷物が落ちないように注意してください」とアナウンスがなされ、「そうだよな~」と思っていたら、頭上で開いたキャビンからの落下物が私の頭を直撃! 缶詰がいっぱい詰まった袋でした。よりにもよって缶詰ですよ。
私がうなり声をあげていたので、落とした人はかなり焦っていました。そのときは、気が動転して「OK!OK!」と気前よく返事をしていたのですが、あとで頭を触ってみると、たんこぶができていました。
では、のちほど!
お茶を飲んだ後、近くのバザールを見ながら散歩をしました。
イランでは3月の中旬に新年のお祭りをします。したがって、今はお正月を目の前にした準備期間で、町全体が買い物客で賑わっています。
右の写真に写っているものは、正月にテーブルに置く必須アイテムの一つです。そう、金魚です。
テーブルに置くからと言って、食べるわけではありません。正月の期間にテーブルに置いておかれ、その後は近所の池などに放流されるそうです。
サガフィー先生のお宅で、イランの一般的な家庭料理をいただきました。
ケーブルテレビでは、CNNやBBCは言うまでもなく、Korean Channel を見ることができました。英語の字幕付きです。
最近、イランで20年前の「おしん」並に大ヒットした韓国ドラマがあります。何だと思いますか。
「冬のソナタ」? いえいえ、違います。答えは「チャングム」。チャングムには「おしん」に通じるところがありますね。
たとえ理不尽な目にあったとしても、逆境を乗り越えていけば、明るい未来が開けてくる、努力は必ず報われる、といったストーリーがイラン人のハートには強く響くようです。
1979年、アメリカ大使館人質事件が起こり、世界を震撼させた、その場所です。今は、革命防衛隊の施設になっています。ちなみに、イランには、国軍(正規軍)と革命防衛隊という二種類の軍隊が存在しています。
写真の右手の方に土産屋が並んでいるので、そこで(安い)ペルシア絨毯を買いました。安いとはいえ、オール・シルクの絨毯です。玄関に置こうと思っているのですが、うちの犬たちは玄関マットの上で、確信犯的におもらしをするので、注意が必要です。(^_^;)
ちょうと土産屋の向かいに旧アメリカ大使館が見えるのですが、左の写真には「アメリカに死を!」とペルシア語で書かれた看板が写っています。
過激な言葉の看板や横断幕が所狭しと並んでいます。ほとんどは、故ホメイニー師の言葉からとっているようです。
文脈から切り離されて、過激な言葉がスローガン的に掲げられているのは、どうしたものかな~と思ってしまいました。
しかし、これもまたイランの現実の一こまということなのでしょう。
凛々しい顔をした女性がさっそうと運転していました。
イラン通の富田先生も初めて見たとのことでした。通常の乗り合いタクシーのぎゅうぎゅう詰めの中で女性が体を触られるのをいやがて、新しい女性専用タクシーができたのではないか、ということです。
ある意味、日本より進んでいるかもしれません。女性の方は、男性ドライバーより女性ドライバーのタクシーの方が安心して乗れるのではないでしょうか。
私が最初に30分ほど発表し、その後、参加者からの質問を受けました。国際政治や外交を専門とする方々でしたが、私の主張点を的確に捉えていてくださり、かみ合った議論ができました。
私は、リベラル・デモクラシーとイスラミック・デモクラシーの比較から始め、明治期日本がやはり西洋型の近代化・民主化と格闘したこと、そのプロセスに宗教が深く関わっていたことを話しました。明治期の知識人、宗教者は、西洋的なものを受け入れつつも、非西洋的な国家形成を目指そうとして点では、今日のイランとも共通点が多くある語りました。
かみ合った議論ができると、やはり満足感があります。今回は、いきなりのセッションだったので、きちんとしたことはできませんでしたが、今後の共同研究のための第一歩になったと思います。
最初に行ったのが、イラン国立博物館。ここは紀元前6000年前からの考古学的資料を集めた、イラン最大の博物館です。
足下に見える壺などを見ると、紀元前5000年、6000年とあります。今から、8000年前のものですよ。皆さん、想像できますか? イランというか、メソポタミア文明が遠大な歴史と遺産を持っていたことに、あらためて驚かされます。
右の石柱が何かおわかりでしょうか。教科書にもよく記載されている、かのハムラビ法典です。
ついにルーブルから戻ってきたのか、と感嘆しつつ、説明を読むと、フランス政府から送られてハムラビ法典のレプリカとのことでした。
フランス政府が気が利くというか、ずるいというか、いずれにしても、本物はルーブルに置かれています。もう20年ほど前になりますが、私もルーブルでハムラビ法典を見た記憶があります。
右の写真の通り、最初はのどかな散歩道でした。狭い道の両脇に、所狭しと、露天や飲食店が建ち並んでいます。
京都でいうと鴨川や鞍馬の「川床」と同じような構造のものが多数ありました。夏には涼を求めて、ここを多数の人が訪れるそうです。
左写真のようなカラフルな露天も目を楽しませてくれます。
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