小原克博: 2007年8月アーカイブ
小原克博 On-Line に、「世界平和の足場はどこに」(「現代のことば」)(『京都新聞』2007年8月20日、夕刊)を追加しました。
先日の比叡山宗教サミットに関する感想・期待と、私のドイツでのヒロシマ体験をミックスしたような内容になっています。
比叡山宗教サミットに対しては、ちょっぴり辛口になっているかもしれませんが、これも期待の裏返しということで、ご勘弁を。
例年なら、お盆を過ぎて「残暑見舞い」の時候なのでしょうけれど、まだまだ「暑中」という日々が続いていますね。雨が降って、少し暑さが和らいでいるようではありますが。
今年の夏は、原稿執筆に追われまくっています。比較的大きな原稿を複数抱え込んでしまい、気の重い日々を送っています。(T_T)
ぼやいても仕方ありませんので、うまく気分転換しながら、峠を越えていきたいと思っています。
朝日新聞(関西版)の8月17日夕刊に比叡山宗教サミットに関する比較的詳細な記事が掲載されましたので、紹介します。
■asahi.com:世界宗教者平和の祈りの集い
http://www.asahi.com/kansai/kokoro/OSK200708170034.html
私のコメントもちょこんと登場しています。それを含む段落を引用します。
しかし一方で、課題を指摘する向きもある。小原克博・同志社大教授(宗教学)は「リベラルで対話のしやすい人たちだけが集まっているのでは。対話を拒否する原理主義的な勢力や、政治的に対立し、実際に紛争にかかわっている教団にも参加を呼びかける必要がある」と語る。大会の討議の中でも、「ここにいる我々はみんな戦争反対という同じ意見。ならば今さら議論して何になるのか。必要なのは、この部屋の外にいる、異なる考えを持つ人たちに働きかけ、紛争を現実に解決することだ」(キリスト教系団体幹部)という反省の弁も聞かれた。
いつもながら、イチャモンをつける役回りです。(^_^;) きちんとポジティブな面も認識していますので、関係者の方々、気を悪くなさらないように!(って、手遅れか・・・)
20年も続けているのは本当に立派なことなのですから。
本日、ようやく春学期科目の採点が終了しました。長い道のりでした。
宗教学6の期末レポートでは、学生たちの平和や戦争に対する理解に触れることができました。
もともと平和主義者であると自認していた人たちが、授業を聞くにつれて、その難しさを悟り、それ以外の立場(正戦論者等)へと転向していったことが、レポートを通じてうかがえました。
平和主義者をその道から脱落させるとは、けしからんと思われるかもしれませんが、やはり様々な角度から、その立場や考え方を鍛え直す必要があります。十分な思索を経ないで、ばくぜんと平和主義者であると思いこんでいることほど、お気楽なことはありません。
同じ平和主義者であるにしても、他の立場との批判的な比較考量を経て、納得いく信念として自らのものとしていく必要があります。
レポートの中で、その他、頻繁に取り上げられたテーマは「一神教と多神教」。これは、本当に多くの人が取り組んでくださったのですが、残念ながら、掘り下げがまだ十分ではないものが多かったように思います。
すでにできあがったステレオタイプを崩すのがいかに難しいかを痛感しました。
「一神教」にしても「キリスト教」にしても、非常に単純化して扱われているケースがあり、これは秋学期に克服すべき課題の一つであると強く思いました。
一般的に人は自分が知らないものを単純化してイメージしがちです。しかし、それが間違ったイメージを再生産することにもなりかねませんので、学問的には注意が必要です。
採点が終わって、やれやれなのですが、来週月曜日までに論文を二つ仕上げなければなりません。お盆休みも吹き飛ぶような気の重さです。(T_T)
夏ばてしている暇もありません。うっ、我ながら、クライ・・・
尹載善(ユン・ジェソン)先生と昼食を共にし、歓談しました(同志社の寒梅館 Second House Will で)。
1年ほど、京大法学部の客員教授などを務めておられましたが、9月末に帰国されます。
尹先生は、私のことを知人から聞いたらしく、昨年の日韓神学フォーラムの際に初めてお会いしました。
尹先生の専門は地方政治なのですが、韓国で神学校を卒業した牧師でもあります。そして従軍経験もあり、その経験に基づいて書かれているのが次の本です。
尹載善『韓国の軍隊――徴兵制は社会に何をもたらしているのか』中公新書、2004年。
かなりおもしろい本です。軍隊のことなので、最初、堅い本かなと思うかもしれません。しかし、抱腹絶倒のエピソードが散りばめられており、楽しみながら、韓国の軍隊の仕組みを知ることができます。おすすめです。
この本を書いた動機は、東アジアでどのようにしたら平和を作ることができるか、日本人にも軍隊の実態を知ってもらいたい、という点にあります。
今日の話しの中では、憲法9条を絶対に守る必要があること、それによってこそ、日本は最大の国際貢献ができること、9条はいかなる兵器よりも強力であることを熱く語っておられました。
具体的に今後、日韓の間でどのようなことができるだろうか、ということを話し合いました。頼もしい友人です。
比叡山宗教サミットでは、海外からも多数の来賓が来られました。各界の宗教者が集まって、最後には「比叡山メッセージ2007」が読み上げられました。比叡山から世界平和を発信していこう、という趣旨です。
今、大量の学期末レポートを読んでいます。その中には宗教学6「戦争・正義・平和――宗教多元社会の中で」のレポートもあり、平和や戦争について学生たちの考えに触れています。一言でまとめるのは難しいのですが、みな、それなりに悩み、しかし日常的には確たる指針を見出すことが容易ではないことが伝わってきます。
お山の上から高らかに発せられる「世界平和」も大事ですが、それと同時に、足下で平和構築がどのようになされているのか(なされていないのか)についても考えた方がよいのではないでしょうか。
改憲論議については、先日の参院選の結果、強引な舵取りはしばらくはなされないでしょう。しかし、平和とは何か、を具体的に考える過渡期に日本社会がさしかかっていることは間違いありません。
このような状況の中で、日本社会、とりわけ若者に対し、よい知的刺激と指針を与えることのできる活動を宗教界が率先して行うことができれば、どれだけすばらしいでしょうか。
現状は、そうはなっていないと思います。各界のエリートが集まってなされる宣言は貴重です。しかし、次世代を担う人たちに届くような、もっと足下でなされる平和構築の働きかけが欠けているのは残念です。
私は、お山の下で何ができるのかを考えていきたいと思います。
しかし、こんなえらそうな(!)ことが言えるのも、比叡山宗教サミットがあるおかげだと言えますので、やはり貴重な20年の歩みであることは積極的に認めたいと思います。
比叡山宗教サミットの二日目、世界平和祈り式典の様子の映像をアップします。
全体は2時間ほどのプログラムですが、10分ほどの映像にしています。どのような人たちが参加され、また、どのような祈りがささげられたのか、その雰囲気を知っていただけると思います。
三脚無しで、しかも、比較的遠方からズームを使って撮影していますので、場面によっては手ぶれしていますが、ご容赦ください。
下記、朝日新聞の記事が、比叡山宗教サミットの雰囲気をよく伝えています。
■平和へ祈りささげ20年 比叡山宗教サミット(朝日新聞)
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200708040039.html
この記事においても、20年を節目とした課題がいくつか指摘されています。たとえば、次の問い。
「ヒロシマ」や「ナガサキ」に続き、この20年間で「ヒエイザン」からも世界に平和のメッセージを伝えられたのだろうか。
この問いに対する答えは、やはり「ノー」でしょう。ヒロシマ、ナガサキから発せられる、歴史的体験に裏付けられたメッセージのリアリティと比べるなら、ヒエイザンのそれはまだきわめて抽象的で、世界はおろか、国内的にもまだ広くは行き渡っていないと思います。
これは何も否定的な評価をしたいわけではなく、それくらいの現実認識を踏まえてこそ、今後の具体的な展望が開かれてくるだろうと考えるからです。
ヒロシマ、ナガサキの運動が、大衆運動としての側面を持っているのに対し、ヒエイザンのそれは、まだエリート主義的な壁を乗り越えられてはいないでしょう。
また、上の朝日新聞記事でも言及されていましたが、今回のサミットで「自然環境との和解」が初めて取り上げられました。かけ声は結構ですが、これも国内的には実体がともなっていません。宗教界の中に、本腰をいれた環境問題への取り組みは残念ながらまだ見受けられません。
自分たちがまだほとんど何も十分なことをしていないのに、世界に向けて「自然環境と和解」すべきだと語っても、十分な説得力があるとは言えないでしょう。
ちょっと辛口のコメントになりましたが、それは20周年を節目に、一皮むけた運動体へと脱皮していって欲しいという、大いなる期待の裏返しでもあります。
比叡山に登ってきました。
おそらく10年以上ぶりだと思います。下界は蒸し暑く汗がだらだらと出るような日でしたが、さすがに比叡山は2、3度は気温が低かったと思います。ヒグラシの鳴く声も軽やかで、時折、さわやかな涼風が吹き抜けていました。やはり娑婆世界とは違いますね。
二日目の世界平和祈り式典は延暦寺の根本中堂の前で行われました(右上写真)。
国連事務事情らの挨拶の後、平和の鐘が打ち鳴らされ、その後、各宗教による平和の祈りがなされました。
仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、ネイティブ・アメリカン、イスラーム、教派神道、神道、ゾロアスター教などの代表者が祈りをささげました(左写真は仏教の祈り)。
その後、たくさんの折り鶴を入れた透明球体の「平和の地球の創造」というセレモニーがあり、最後に、比叡山メッセージ2007が披露されていました。
坂道に長時間座っていたので、おしりが痛かった! しかし、比叡山の木々に囲まれた雰囲気は独特で、しばし、心を落ち着けることができました。
参加者がどれくらいいたのかわかりませんが、1000名近くいたように、アナウンスでは言っていたように思います。
各界から門徒や信徒が集まってきているのですが、それら参加者同士がお互いに交流する場や時間はありません。もったいないな~、と思った点です。
二日目の様子はビデオカメラで撮影したので、後日、編集がうまくいけば、ここでも紹介できるかもしれません
比叡山宗教サミットの1日目のプログラムは、京都国際会館で行われました。
どのような顔ぶれが海外から来られたかは、プログラムで概要を知ることができますが、実際には、ここに掲載されている以外にもいます。
けっこうな大物が多数来ているという点では、お祭り的な賑わいがあります。ただし、多すぎて、一人ひとりの話す時間が非常に制約されたり、議論を展開するような時間はまったくない点が、やはり惜しまれます。
昨年の世界宗教者平和会議と同様、この種の会合の宿命かもしれませんが、似たような国際会議を企画することの多い者としては「もったいないな~」と思いました。華やかさを取るか、実質を取るかのバランスは難しいです。
プログラムの最初には、ボスニア・ヘルツェゴビナの子どもたちと広島の子どもたちが登場しました。子どもたちが描いた絵と共にショートメッセージが各自から紹介されました。
その後、国連事務次長やアズハル大学副学長(右上写真)のメッセージがあり、記念講演、シンポジウムと続きました。
記念講演では、カトリックとイスラームの代表者がそれぞれ40分近い話しをしました。それぞれの世界においては、ごく標準的なレベルの話しかもしれませんが、仏教関係者が多い一般的な日本の聴衆にとっては、かなり難しかったのではないかと推察します。
もっと短くて、しかし、それぞれの宗教が抱えている課題を具体的に提示することもできそうなものですが、このあたり、大会主催者との間で十分な詰めができていなかったような印象を持ちました。
あまりにも数が多くて、話の内容を端的に要約するということはできません。いずれにせよ、20年間、平和希求の試みを続けてきた努力には十分な敬意を表したいと思います。
明日は、比叡山に登ります(徒歩ではなくバスで!)。
20周年となる比叡山宗教サミットが、明日から二日間開催されます。
私も二日にわたって参加する予定です。すでに、このサミットをめぐって某紙から取材を受けているのですが、実際を見ずして論評するのはよくありませんので、しっかりと様子を見てこようと思っています。
関西圏では比較的知られている夏の行事の一つですが、関東の方では記事にすらならないことが多く、全国的にはあまり知られていないのではないかと、某紙記者の方は述べていました。
とりあえず、関連の紹介記事として次のようなものがあります。
昨日は、自然の猛威(お猿の襲撃)に涙した話しでしたが、今日は、採点の山の前で涙する話し。
7月後半は、連続する講演・研究発表で息も絶え絶えの状態でした。ようやく、その状態を脱したものの、目の前には、さらに採点の山が立ちはだかっています。
たびたび、このブログでも登場した「建学の精神とキリスト教」はマークシート試験とはいえ、1000名近い履修者がいますので、採点票に記入するだけでも一苦労です。マークシート特有のエラーもあり、実物との照合作業も残っています。
他に、300名近い履修者がいるクラスでは、その人数分のレポートに目を通さなければなりません。履修した方々の思索と対面するという意味では、確かにおもしろい面もあるのですが、点数を付けるとなるとかなり厳密に読まなければなりませんので、お楽しみばかりではありません。一人分読むのにも結構な時間がかかりますので、それが大人数となると、少々気が遠くなります。
というわけで、まだまだ夏休みという感覚からはほど遠い日々を送っています。(T_T)
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