小原On-Line

小原克博: 2006年3月アーカイブ

 小原克博 On-Line に「「京都・宗教系大学院連合」の設立――「建学の精神」再活性化の契機に」(『同志社時報』第121号)を掲載しました。
 京都・宗教系大学院連合(K-GURS)についての短い紹介記事です。同志社の歴史や建学の精神と少しひっかけて書いています。

 この記事では言及していませんが、K-GURSは、日本のキリスト教にとってエキュメニカル運動の再考という意味も持っていると考えています。この点については、"Japan interfaith university project may herald Buddhist dialogue", Ecumenical News International, 16 January 2006 において、多少触れられていますが、いずれ何らかの形でまとめたいと思っています。

 K-GURSの単位互換制度のパンフレットが完成し、関係の大学院生たちに配布される予定です。ちなみに、パンフ作りにはかなり苦労しました。大した量ではないのですが、7校からの情報をまとめるのには骨が折れました。学生さんには、この単位互換制度を積極的に利用していただきたいと願っています。

060327 今日は、関西学院大学の神田先生が「WCCの宗教間対話に関する指針」というテーマで、NCC宗教研究所で講演をされました。
 わたしは、この講演と同時刻にあった会議を終えた後、急ぎ足で会場に向かいました。会場にはいると、30名近くの人たちが来ており、NCCの講演会としては大盛況と言えます。竹中正夫先生をはじめ、この道の大御所も来ておられました。
 50分も遅れて到着しながら、厚かましくも、質問を一番にしました。WCC(世界教会協議会)の長年の労苦や成果はわかるが、それが日本のキリスト教世界にはほとんど反映されていないのではないか、その原因はいったい何なのか、といった質問をしました。
 神田先生は、部分的にはエキュメニカル運動が進んでいる例を話してくださいました。しかし、全体としては、世界の動きにほとんど連動していないことは明白です。また、日本のキリスト教世界から世界に対する情報発信もほとんどありません。
 国際社会から、日本のキリスト教世界が孤立しがちである、というのは決して健全な状態とは言えません。この状況を打開していくために、本来、NCCなどが中心になってがんばらなければならないのですが、そのNCCも足下がぐらついている状況ですから、問題は複雑です。

 講演終了後、NCC宗教研究所の元所長の幸先生やRepp先生、神田先生、たまたまノルウェーからやってきていた20年以上前の所長のNotto Thelle先生らと食事をし、活発な議論を交わすことができました。

 CISMORの日本語トップページでアナウンスしていますが、COEリサーチアシスタントおよび奨励研究員の募集をしています。
 奨励研究員の方は、同志社大学以外の方にも広く呼びかけていますので、趣旨に添った研究をされている方は、一度、ご覧になってください。月額5万円の研究費が支給されます。その他、詳細はCISMORトップページに掲載されている募集要項等をご覧いただければと思います。

 先日、近所の同志社卒業生の方に呼び止められ、「「愛と死をみつめて」のドラマを見ましたか?」と問いかけられました。私は不覚にも、このドラマや原作のことについてまったく知らなかったので、「へ? 何ですか、それ?」と答えてしまったのですが、あとでいろいろ調べたり、人に聞くと、私より少し上の世代の人たちの間では、かなり有名な物語であることがわかりました。

 主人公「ミコ」(大島みち子さん)が闘病生活を送りながら、同志社大学に進学し、恋人の「マコ」との純愛がつづられた手紙が原作のベースになっているようです。原作『愛と死をみつめて』は1963年に出版され、当時、大ベストセラーになったとのこと。翌年には、ミコの役を吉永小百合が演じて映画化もされています。

 と、こういうことを調べたり、聞いたりしてわかったのですが、今まで、まったく知りませんでした。近所の同志社卒業生の方が言うには、同志社の学生はぜひ読むべきだ、とのこと。本当に勉強したくてもできなった人がいたことを知ることは、今の自分自身のあり方を問う意味でも確かに大切なことかもしれません。

 かつてのベストセラーが復刊され、今では簡単に手に入れることができます。大島みち子さんによる『愛と死をみつめて』『若きいのちの日記』は、いずれも580円で購入できます。私もこれから読んでみようと思います。

■テレビ朝日 ドラマスペシャル「愛と死をみつめて」
http://www.tv-asahi.co.jp/aitoshi/

■神戸新聞 関連記事
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou05/0419ke89490.html

060322_1  2月中旬に行った韓国旅行のあと、風邪を引いたり、インフルエンザにかかったりで、韓国での報告が完全に吹き飛んでいました。
 1ヶ月以上もたつと、かなり記憶が薄らいでいますが、とりあえず、そのときの写真を載せておきたいと思います。

 右の写真は、世界文化遺産の昌徳宮(チャンドックン)の門の一つです。宮廷ですから大きいのは当然かもしれませんが、かなり大きいです。建物が緑や朱を基調としてカラフルなのが印象的でした。庭園も美しいのですが、日本の庭園とはいろいろな点で異なっていることにも気づかされました。

060322_2  ところ変わって、左の写真は、貞洞劇場で韓国の伝統芸術(踊り・歌など)を見た際に、宮廷服を着て、記念撮影したものです。右端は越後屋先生。

 似合っているでしょうか?

卒業式

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060320-1  20日は神学部・大学院神学研究科の卒業式・修了式でした。
 神学部の場合、全体で70名強くらいですから、だいたい顔と名前とが一致します。
 今日は多く語らず、写真を少し多めに載せたいと思います。
 右の写真は、モンゴルからの学生バオさんです。彼は大学院前期課程を修了し、後期課程に進学。モンゴルの民族衣装で修了式に臨みました。カラフルですばらしかったので、普段も着てきたらどうですか、と言うと、名古屋の友人から借りたものだということでした。

060320-2  左の写真は、インドからの留学生と一緒に写っているものです。サリーの着こなしも抜群です。
 インドからの・・・というのは冗談で、生粋の京都人の方です。こういう衣装が妙に似合うお方です。今年の学部・小原ゼミの一人です。

 あと、謝恩会ではたくさんのツーショット写真を撮ったのですが、選択して載せると、なぜこの人が載って、わたしが載らないのか・・・という疑心暗鬼を生むことになりかねませんので、ここでは安全なものだけを掲載することにします。

060320-3  ということで、このBLOGにもたびたび登場してきているKさん。彼女は、今日の謝恩会の司会も務めてくれました。京田辺キャンパスで新入生として出会ったのが、つい最近のことのように思いますが、6年間の学びを終えて、春からは同志社香里の聖書科の教師に。

060320-4  卒業といえば、以前にも紹介した野本先生、橋本先生も長い教員生活を終えて、「ご卒業」。最後のスピーチも、含蓄あるものでした。

 左が野本先生。右が橋本先生です。お二人の先生には、本当に、お疲れ様と言いたいです。

 まだまだお元気なので、これからも活躍して下ることでしょう。

060320-5 この日は、少し肌寒かったものの、晴天に恵まれた卒業式日和でした。

 ちなみに、3月下旬だというのに、わたしの家の周りでは昨日・昨晩と雪が降り、積もっていました。つくづく雪の多い年であったと思います。

 先日の山折先生の基調講演で、遠藤周作と鈴木大拙に触れられていたので、それに関連して。
 山折先生は遠藤の『沈黙』『深い河』を取り上げていましたが、確かによく知られた順に遠藤の代表作をあげるなら、この二作がトップに来るのではないかと思います。
 『沈黙』と『深い河』は書かれた時期も、また背景になっているモチーフも異なりますので、簡単にあわせて論じることはできませんが、神の「母性」など共通するテーマはあると言えるでしょう。

 神学的には、神理解のユニークさに加えて、キリスト教の土着化宗教多元主義キリスト教宣教のあり方など、いろいろな課題をそれらの作品の中に見ることができます。しかし、遠藤はあくまでも問題提起をしているのであり、答えらしきものを示しているわけではありません。しかし、これらの著作を読んで、未完の問いに向き合う、というチャンスを与えられるわけですから、やはり読む価値のある作品だと思います。

 西洋的なキリスト教がそのままでは日本人にはどうもしっくりとこない、と感じ続けた遠藤の「違和感」をきちんと受け止めることは、今日も大切なことのはずです。不感症では宗教的精神の深みに達することはとうていできませんから。

 ところで、鈴木大拙の代表的著作は『日本的霊性』。これは日本的な精神の原型・古層を探ろうとした労作であり、遠藤の関心の射程と触れ合う部分があります。

 山折先生の指摘の一つは、遠藤にしろ鈴木にしろ、海外でよく知られている割には、日本人がきちんと研究をしていない、ということです。これは当たっているかもしれません。しかし本来的な課題は、これらの紹介ではなく、彼らが追求した問いを現代においてどう解釈し、それに応答するのか、ということでしょうし、その部分がなければ、国内的な議論の枠を越えることはできないと思います。

060315 先日予告していました公開シンポジウム「日本宗教から一神教への提言」が本日行われました。
 開始の5分くらい前にすでに座席がほぼ埋まり、立ち見来場者が出てきたため、急遽、パイプいすを搬入して対応しました。神学館礼拝堂にこれほどの人が入ったのは久しぶりだと思いますが、およそ300名の方にお越しいただきました。

 山折先生は、昨年12月、パリで開催されたユネスコ主催の国際会議での発表内容を最初に紹介されました。そこでは、遠藤周作を取り上げて、西洋のキリスト教と日本のキリスト教は根本的に違うことを語り、また、しばしば徒労の終わりがちな宗教対話よりも、宗教的共存の現実を見るべきことを主張されたとのことでした。
 それに引き続き、隠れキリシタン、多神教とデモクラシーの関係、日中関係と道教、シンガポールでのMixed Religion Temple、イスラエルとインドの巡礼など、旅を中心に縦横無尽に山折節を発揮してくださいました。

 パネル・ディスカッションでは、森先生と手島先生にコメントをしていただき、それを片耳で聞きながら、わたしは集められた大量の質問用紙に目を通しながら、取り上げるべき質問をセレクトしていました。森先生の指摘はストレートで、日本における一神教バッシングの問題、また、多神教は本当に寛容で平和的なのか、という指摘でした。これに対して、山折先生は、一向宗などを例にあげながら、日本宗教の中にも非常に排他的な運動があったことを認め、一神教と多神教、それぞれにあるメリットとデメリットを考えなければならないと主張されていました。
 この点に関しては、一神教に対し多神教を優位に置こうとするかつての主張はかなり抑制されていたように思います。

 ディスカッションでは、宗教とデモクラシーの関係、政教分離の関係、天皇制の問題等々、多岐にわたるポイントを扱いました。まとまりがあったかどうかは別にして、随所で山折先生の日本宗教に関する造詣の深さを感じさせられ、その点では来場者の方々も満足できたのではないかと思います。

 最後に、日本宗教が一神教世界に提言できることとは何かと問われて、山折先生が応えた内容には二つありました。一つは、ガンディーの平和思想に対応させ、武家を平和的にコントロールした公家の思想を取り上げ、もう一つは、自然災害などで生き残りが問題となってくるときも、「無常」の感覚を持つことの大切さを説いておられました。

 これらが果たして、国際社会にどの程度理解されるかどうか、はよくわかりませんが、いずれにせよ、日本社会が貢献できる内容を紡ぎ出そうとする知的作業としては十分に意味があると思います。どのような提言がより効果的に問題解決に寄与するのかは、今後、私たちが検証していかなければならない課題であると思います。

 パネル・ディスカッションにかなりの時間を取ったのですが、それでも始まるとあっという間に終了時刻が近づき、司会者として議論の流れを作るのには苦心しました。どなたも、いったんしゃべり出すと、なかなか止まりませんので・・・(^_^;)

 歯切れの良い答えを見つけるのは簡単ではないことを、あらためて思わされましたが、それだけに、日本(宗教)から世界に対し何を提言できるのかは、やりがいのある研究テーマであると思います。

k 今日は、京都シティハーフマラソンがありました。
 早々と申し込んでいたのですが、さすがに直前の体調不良、それに伴う準備不足で、今回は出場を断念しました。う~、悲しい。(∋_∈)
 この雪辱を1年後に果たしたいと思います。
 この時期、コンディションを整えるのは難しいですが、それも実力の内です。
 参考記事はこちらをどうぞ。→2006/6/9記事

 このマラソン、京都の街中を爆走できる貴重な体験ができますので、関心ある方は、どうぞチャレンジしてみてください。ただし、評判通り、ハードルはけっこう高いですよ。

■京都シティハーフマラソン
http://www.runnet.co.jp/info/a/2006/kyotocity/

 小原克博On-Lineに「キリスト新聞への期待」(「キリスト新聞への提言」)(『キリスト新聞社』2006年3月4日)を掲載しました。
 少々辛口ですが、ただ批判をしているわけではなく、本心からの期待を記しています。
 実は、普段、キリスト新聞を読むことはほとんどありません。そういう人間が頻繁に手に取るような紙面を作るには、どうすべきなのかを、私なりの視点から書いた次第です。

 海外には、かなりすぐれたキリスト教系メディアが存在しています。Christian Science Monitor などはその代表的存在です。Christian Science Monitorは、9.11以降、右傾化路線をたどっているという問題があるとはいえ、キリスト教世界だけでなく、一般社会からも高く評価されてきたメディアです。

 キリスト新聞にChristian Science Monitor並になれと言うつもりは毛頭ありませんが、理想は高く掲げ、創刊60周年を迎えていただきたいと願っています。

■キリスト新聞
http://www.kirishin.com/

 


 3月15日に下記のように公開シンポジウムが開催されます。
 パネル・ディスカッションやフローからの質疑応答にも、たっぷりと時間を取ることができるので、かなりおもしろシンポジウムになると思います。
 日本基督教学会近畿支部会が主催なので、キリスト教神学の課題についても批判的に討議できればと考えています。
 欧米のリベラル派神学において流行の「多元主義」に基づいた宗教間対話は、うまく機能していないように思います。昨今の宗教がらみの騒動(ヨーロッパでのテロ、ムハンマド風刺画問題など)からわかるように、ただ「他者を尊重し、対話をしましょう」では何の問題解決にもなりません。
 では、日本からどのような問題提起や貢献ができるのか。山折先生が言うような多神教的な共存がその鍵となるのか、といった点が、今回のシンポジウムでも問われることになると思います。
 このところ、ほとんどすべての講演会で司会を務めていますが、今回もまたそのお役に・・・ たまには、フローでゆっくりと話を聞きたいとも思うのですが、今回は、場を盛り上げ、来場者に強烈な知的刺激を提供できるよう、その務めを果たしたいと、少々張り切っています。
 というわけですので、どうぞご都合のつく方は、お誘い合わせの上、ご来場ください。

公開シンポジウム
「日本宗教から一神教への提言」

日 時:2006年3月15日(水)午後2時~5時
場 所:同志社大学 今出川校地 神学館礼拝堂

■講 演
 山折 哲雄氏(国際日本文化研究センター名誉教授)

■パネル・ディスカッション
 パネリスト
  森 孝一氏(同志社大学神学部教授)
  手島 勳矢氏(同志社大学客員フェロー)
  山折 哲雄氏
 司 会:小原 克博氏(同志社大学神学部授)

※入場無料、事前申込不要

主催:日本基督教学会近畿支部会
共催:同志社大学神学部・神学研究科、一神教学際研究センター

 「休み」にひっかけて、雑誌の休刊について思うところを。
 長らく購読していたアサヒ・パソコンが今月で休刊となりました。実際、復刊の見通しはありませんから、事実上の廃刊と言ってもよいでしょう。アサヒ・パソコンのほか、最近、日経バイトやPC USER なども休刊となっています。
 インターネットの普及、特にブロードバンドの普及に伴ってパソコン雑誌の売り上げは徐々に厳しくなってきました。最新の動向は、ほとんどインターネット上でわかりますから、読み物としての雑誌の魅力が減退してきたわけです。
 その中でも、アサヒ・パソコンはお堅いイメージのある朝日新聞社が作っていた割には、硬軟使い分けて、けっこう読ませる記事が多かったと思います。

 最終号でおもしろかった記事の一つは「アサヒ・パソコンからの遺言」。メーカーにいろいろな注文をつけていると同時に、なぜパソコン雑誌が売れなくなってしまったのか、という分析をしています。
 その理由の一つが、「パソコンのコモディティー(日用品)化が加速し商品として陳腐化した」というものです。パソコン歴20年以上のわたしにとっては、この言葉の意味は体験的によくわかります。インターネットが普及したり、パソコンがコモディティーとなる以前には、パソコンの存在自体が非常に先鋭的で、それゆえに、そこに引き込まれていったという側面があります。わたしなどはその代表例でしょう。

 パソコンが今のパソコンに近づいたのはNECのPC98シリーズが世に出始めた頃ですが、それでも当時はすべてのソフトがフロッピー・ディスクで動いていました。
 ワープロ・ソフトとして、わたしは初代一太郎の頃から使っていましたが、フロッピーで動いていた一太郎も、基本機能は、今の最新の一太郎と大きくは変わらず(と言い切ってしまうとジャストシステム社に失礼かもしれませんが)、使えるワープロ・ソフトの出現に魂がふるえたことを昨日のことのように思い出します。
 残念ながら、今のパソコンやソフトに、そうした「魂のふるえ」はまったく感じません。ユーザーフレンドリーになった反面、もはや手を入れることろがなくなり、内部構造はブラックボックス化し、まさに優等生になりすぎてしまった、という感じです。これが、パソコンのコモディティー化の帰結の一つだと言ってよいでしょう。

 どこにでもある、ありふれた道具になることによって、それを解説する雑誌も、その特別なミッションを失っていったということになります。

 長らく愛読していた雑誌の休刊においても、昨日同様、時代の変化を感じさせられます。

 インフルエンザで、結局、1週間ほどダウンしていました。前半は高熱続きでかなりまいりましたが、タミフルの効果か、順調に回復してきました。まだ鼻水がずるずると出たりしますが、その他は、かなり通常の状態に戻りつつあります。
 今日は今年度最後の教授会がありましたが、同時に、今年度で退職される野本先生(旧約聖書学)と橋本先生(新約聖書学)の送別会も行いました。存在感のあったお二人が退職されることになり、寂しいという思う反面、時代の変化を強く感じさせられました。

 しばらく、このBLOGも放りっぱなしにしていましたので、これからぼちぼちと書き込みを再開したいと思います。

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近  著

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