日本基督教学会
9月23~24日、関西学院大学で日本基督教学会の学術大会が開催されました。24日は、同志社の大学院入試であったので、わたしが参加できたのは初日だけでした。
午前中の研究発表の司会が当たっていたので、(普段に比べると)猛烈に早起きして出かけました。関学はわたしの自宅からは2時間ほどかかるので、7時前には家を出ました。
わたしは「使いやすい人間」リストに入っているのか、ほぼ毎回と言ってよいほど司会が当たります。(^_^;)
研究発表は中にはレベルも高くおもしろいものもあるのですが、司会をやっていると、聞きたくないものにまで付き合わなければならないのがつらいところです。
午後はベルン大学名誉教授のウルリッヒ・ルツ氏による「キリスト論的一神教――初期キリスト教における平和の創出と潜在的攻撃性」という講演がありました。上の写真は、その一こまです。左で通訳しているのは関学の辻先生。2時間にわたる通訳を滞りなくこなし、ご立派としかいいようがありません。
ルツ教授はマタイ福音書の研究者として有名な聖書学者ですが、講演の内容も、きわめて聖書学的でした。網羅的に聖書箇所をとりあげ、イエスの宣教や唯一神教の特徴を論じているのですが、もっと論争的なポイントに絞って、掘り下げていった方がおもしろかったのではないかと感じました。
講演が少し予定の時間を超過し、質疑応答の時間はあまりなかったのですが、古屋先生(聖学院大学)が質問をしていました。かなりツッコミを入れたくなる質問でした。
「"キリスト論的"一神教ではなく"三位一体論的"一神教の方が有効ではないか?」(わたしの心の叫び:聖書学者が「三位一体論」を中心に論ずるはずがないでしょ~)
「リチャード・ニーバーのRadical Monotheism (徹底的唯一神主義)とHenotheism(拝一神教)の違いをどう考えるか」(わたしの心の叫び:講演内容に即した質問をしてくれ~)
ただし、結果としておもしろい回答を引き出した質問が一つありました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)という章句があるのだから、イエスの宣教は攻撃を誘引するのとは違う要素もあったのではないか。
これに対する答えはおもしろかったです。この章句で、弱者一般に対して配慮を示そうとする考えは、啓蒙主義的な解釈であって、それはそれでよいのだが、マタイ自身は「この最も小さい者」によってイエスの弟子のことしか考えていないのだ、というのです。
あれこれ手を広げずに、こういう論争的な点をいくつか取り上げて、解釈を深めるとおもしろかったのでは、というのがわたしの感想です。
講演の中では、ヨハネ黙示録が攻撃を誘引しやすい例示として何度も引き合いに出されていました。
マタイ福音書で描かれているイエス(特に、審判の告知者としてのイエス)が、ヨハネ黙示録を読んだとしたら、喜んだだろうか、悲しんだだろうか、という、あまり聖書学的とはいえない疑問がわたしの頭を何度もよぎりました。