神学論争
コメントで、Yokoさんが「神学論争」の言葉の『読売新聞』での事例を紹介してくださいました。これは重要なご指摘ですので、ここであらためて取り上げたいと思います。
まずは、Yokoさんの紹介記事から
2004. 10. 23
[社説]極東条項 "神学論争"の愚を繰り返すな> 避けるべきは、条文などの解釈をめぐる"神学論争"に陥ることだ。
(中略)
>こうした観点から、今後、野党が、神学論争を仕掛ける可能性がある。政府統一見解で当面は落ち着いても、司令部移転問題が進展すれば、極東条項論議が再燃するだろう。
(中略)
> だからこそ、神学論争ではなく、現実的な論議が必要になる。日本や国際社会の平和と安定という、最も重要な問題を二の次にしてはならない。
2004. 09. 06
[社説]宇宙開発 国家戦略としてこれで十分か> しかし、宇宙開発と安全保障を巡っては"神学論争"が起きがちだ。宇宙開発利用を「平和目的」に限る、とした一九六九年の国会決議を、政府が宇宙の「非軍事」利用と解釈してきたためだ。
2004. 06. 16
[社説]通常国会閉幕 政治が負った「信頼回復」の責任> 国会終盤で浮上した、イラク派遣の自衛隊の多国籍軍参加問題が、参院選に向けて争点となりそうだ。国際社会の中で日本が果たすべき責任と役割という観点から、政策判断として冷静に考えるべき問題だ。憲法解釈をめぐる不毛な"神学論争"の具にすべきではあるまい。
> 憲法が禁じているのは、「国際紛争を解決する手段」としての武力行使だ。人道復興支援が「武力行使」であるはずがない。「一体化」論自体が、不毛な神学論争を蒸し返すような議論だ。
2004. 06. 10
[社説]多国籍軍参加 一段と重みを増す自衛隊の役割
このように見ると、確かにすごい! 「神学」部が抗議すべき、というYokoさんの弁もその通りだと思います。
ちなみに、「神学論争」に関しては、わたしもかつて『朝日新聞』の取材に対して答えたことがあります(「神学論争」、『朝日新聞』窓)。
また森先生が、10月26日に行われた関西プレスクラブでの講演の中で、やはり「神学論争」という言葉がマスコミにおいて、非常に安易に用いられていることを批判したとのことでした。森先生曰く、「神学論争」を"theological dispute"として外信部が海外に発信できるのか、とのこと。確かに、マスコミが「神学論争」という言葉をこれほど安直に使うのは日本だけの現象であって、外国では"theological dispute"は同じようには理解されないことでしょう。
10月30日のCISMORの講演会・研究会に、読売新聞の記者の方が2名参加されました。そのうちのお一人の方が、わたしに「神学論争」に対するマスコミの意識を教えてくださったのですが、基本的には、「出口の見えない論議」を暗示する言葉のあやであって、よく考えて使っているわけではない、とのことでした。それは、この言葉を多用する政治家の人たちにとっても同じでしょう。
用語法の問題については折に触れて指摘したり、抗議したりする必要があるのでしょうけれど、同時に、神学が決して不毛な議論をしているわけではないこと、現代社会に対し意味のある洞察を提供しうることを、具体的に語る必要があることをひしひしと感じています。